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『全ては許されている』

ニーチェ哲学に触れたおり、目にしたこの言葉には驚愕した。

神を信じない無神論的立場でこの言葉から紡いだ小説に、ドストエフスキーの「罪と罰」がある。

主人公のラスコーリニコフという青年は、『正義の為には凡人を殺しても構わない』という歪んだ思想を、ナポレオン的ヒロイズムで正当化し殺人を起こしてしまう。

その殺人を機に、精神を衰弱させていくラスコーリニコフ。それを見た母親は彼を心配し、「神に祈っているか?」と尋ねる。

ラスコーリニコフはもう長い間、神に祈る事も聖書を読む事もやめていたのだ。この小説は神への信仰を捨てたが為に、道を誤ってしまった彼の苦悩の描写がたっぷりと描かれている。

人間社会ではその規律を保つ為に二つの柱を立てる。

それが『国体(倫理)』と『政体(法律)』である。

『法律』は国で定められた規律であり、『倫理』とは世間体や宗教観が大きく作用する。

『法律』は規律を破れば罰則がある事でその抑止力が働くが、『倫理』は具体的な抑止力を持たない。

『倫理』とはひとえに概念として人を律するものであり、その大きな効力の一つが『神の存在』だ。

ともすれば、『政体(法律)』に囚われず、『国体(倫理)』のみで行動するものが無神論者であるならば、『神がいないなら、全ては許されている』というラスコリーニコフ的思想に辿りついてしまう。

今のこの瞬間にも、広い宇宙では破壊と再生が繰り返している。

何億光年も離れたどこかの銀河で、超新星爆発が起こり周りの星々を粉々にしている。そこに『善悪の概念』は存在しない。

それでも、私たちは生きてく上で様々な『罪の意識』に苛まれている。

それは、「法律の重さ」や「自然界の残酷さ」、「社会の理不尽さ」などとは無関係に、我々の心に陰を落とし、決して融解する事を知らない鉛玉のように存在する。

自分自身の十字架から解放される文脈は、「法律」でも「世間体」でもない、自分自身でたどりついた魂の解放であり、それこそが本当のグリーフ・リリースなのかもしれない。

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