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『言語的相対論』と『共話』による『分断』との訣別

はじめに

テクノロジーとコミュニケーションの関係性を研究するドミニク・チェンの著書『未来をつくる言葉〜わかりあえなさをつなぐために〜』を読みました。

多言語話者(ポリグロット)を父に持つ著者は、自身でも日本語・英語・フランス語を巧みに使い分け、まず驚かされたのがその文体の美しさでした。

206ページのこの書籍は、詩的でありながら論理的、そして情緒的に構成されており、読み終わった時には『言葉』で形容しがたい特別なインスピレーションを与えてくれます。

それは非常にエモーショナルであり革進的な文脈を含んでいて、例えるなら『人肌』というものさえ感じさせるのです。

それを記事のタイトルとして言語化した時に、とても無機質で硬いイメージになってしまう事にジレンマを覚えたのも、言語化という面白い部分なのかもしれません。

自分なりにこの206ページに及ぶ著書を「読み込み(インストール)」、「認識」「解釈」を行った際に「書き出し(アウトプット)」をしてみて、思考の再発見に驚いたりしています。

著書の中で語られる「言語的相対論」と「共話」という概念は、自分に新しい世界をみせてくれました。

改めて『言語の創造』による『認知世界』の拡大を実感いたしました。

『認知世界』を担う感覚器官と言語

ドイツ哲学の巨人ニーチェは、『事実というものは存在しない。存在するのは解釈だけである』と説きました。

「認識論」の観点から言えば各々の解釈の数だけこの世界は存在しています。

貴方が素敵な恋の真っ只中であるならば世界は眩い光に溢れていますが、恋を失った人にはこの世界は絶望という闇に包まれてしまっています。

同じ時と空間を生きているはずの我々が、全く相反する世界を認識している事実を日頃の生活で目の当たりにする事は多いでしょう。(同じ映画を観たのに違う印象を持つのは良くあることです)

単一の存在であるはずの自分でさえも、昨日と今日では見える世界が違ってしまったり、時にそれが瞬時に反転する経験をされた事がある方も多いのではないでしょうか。

あまりにも受け入れ堅い現実に突き付けられた時に感じる「あの奇妙な感覚」。

自身の輪郭が溶けて無くなっていく様な、あたかもそれが他人に起こってしまった現実の様に俯瞰して自分を眺めているような、「フワフワ」とした不思議なあの感覚です。

(※私の濃淡が揺らぐ⇨自我の境界線⇨特異点に於いての事象の地平面)⇨(ガイア理論)※個人的な記述ですので割愛してください

人間は、五感(視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚)により多くの情報を入力しこの世界を認識します。

今、あなたがどこにいて誰と何を食べて何の話をしているのかをリアルタイムで目や耳、鼻、舌、手足という端末を使用する事により、脳内で処理します。

この五感認識は動物や虫などもその発達した器官により実行する事ができますが、人間は『言語』という特殊な認識手段を使用することで「過去」と「未来」という時間軸を包括することが可能となりました。

言語により「時間」を「体系化」する事ができ、その概念こそが人間のコミュニケーション能力を発達させ、進化という流れを促進してきた歴史があります。

人間の精神構造を表現するときに「意識」「前意識」「無意識」というレイヤー構造がよく言われます。

「意識」とは言語化された心の部分であり、「無意識」とは身体が言語に頼らずに世界を知覚する形式です。(※前意識とは頑張ったら意識できる部分)

我々の五感を通じてインプットされた情報は「無意識」の領域に蓄積され、それが言語化されて「意識」という形態を取るのです。

ともすれば、この五感を司る端末器官や入力される情報の差異により、無意識内ではそれぞれの「認知世界」が形成されており、それを共通認識である言語を通してフォーマットするという現象が個々の「無意識」と「意識」でフィードバックをしながら内在しています。

近年では、「認知世界」を構築する「五感」と「言語」に「デジタル世界」というレイヤーが加わりました。

今や生活する上で欠かせない「スマートフォン」はあなたの身体能力を拡張するための端末となったのです。

言語的相対論が映し出す世界

この「認知世界」を獲得する過程で「意識」と「無意識」で行われるフィードバック型のサイクルは常に行われています。

人間社会はおおよそ「言語」により体系化され、その社会構造の大半が機能しています。これは先進国や世界各地に点在する少数民族にも共通する部分であり、この「言語化」により体系化されたものがそれぞれの「世界観」を構築しています。

この「自然言語」の数だけ異なる世界の認識論が存在するというのは驚くべき事です。

「言葉は文化」と言われますが、私自身、それを感じたエピソードがあります。

アメリカ・ニューヨークに住んでいた頃、日本人の嫁さんを持つ白人男性と仲良くなりました。

その彼はとても流暢な日本語を話していましたが、会話の展開に合わせて日本語と英語を無意識的に使い分けていました。

ゆるい世間話の時は、穏やかな口調で日本語を使いこなし、その文脈には謙遜と調和の精神に溢れています。

しかし、英語を使用する時は自己主張が全面に推し出され、口調や表情までもキツいモノとなりました。

そして、日本語を話す時はまた柔らかい表情と共に謙遜と調和に溢れた人物像となり、同じ個人が言語により対極的なペルソナを露にするのが衝撃的でした。

この感覚は二カ国語以上を話す方にとっては、理解出来るのではないでしょうか。

よく喧嘩やディベートをする時は英語の方がやり易いとか、詩を書くなら日本語の方が良いとか「言語」にはそれぞれ独特の文法や音の違いがあります。

時にそれに文化的価値観などが付加されると更に複雑になり、よく翻訳するのに頭を抱えたりする事も多かったりします(日本語の「侘び寂び」みたいな言葉を英語に翻訳するのは至難の技です)

この様に文法上の構造などにより、論文を読むなら「英語」、詩を書くなら「日本語」、哲学書なら「フランス語」がマッチするなどの感覚は非常に興味深く(著者のドミニク・チェン曰く)、言語の数だけ「認知世界」があり、それは世界を認識するルール作りであり、『言論的相対論』をその様な観点から記述されています。

『対話』から『共話』で創生する事象

人間の「言語」によるコミュニケーションでは「対話(ダイアログ)」形式が主に使用されます。

「対話」とは自分と対称者を明確に隔てる事により進行するコミュニケーション手法であり、モノローグのような独白的なものでも、主観的な自分と他観的な自分との相互フィードバックにより行われたりします。

この著書に興味深い記述があり、それが「共話」というコミュニケーション手法でした。

数ある言語での対話を分析したところ、他言語に比べて日本語では「相槌」の数が2.6倍も多かったのです。

主語、動詞、述語などの明確な文法により語られる英語では、主語や述語を省略して話す事は稀であるのに対し、日本語は得てしてそれらを簡略する文法による相手とのコミュニケーションを取る傾向があります。

例えば、「そうだね」という相手に共感を現すこの表現は、英語だと「I think so」として口語的に多様されます。

英語では主語である「I」があるのに対し、日本語ではこの主語の部分が省略されています。

これは日本語において頻繁にみられる手法で、主語や語尾を敢えてあやふやにする事により、相手に委ねながらコミュニケーションを進めていくやり方であり、これにより日本の「相手を慮る気持ち」や「空気を読む」などの独特の文化や概念が生まれています。

英語圏でこの様なあやふやな表現方法を使えば、相手とのコミュニティケーションが円滑に進まず、相手をイライラさせる事になります。(グローバル社会での交渉や政治の現場で日本人がよく揶揄されるやつですね)

この日本語によるコミュニケーションに見られる、相手との関係性を包括する手法を「共話」として位置づけているのです。

思い返せば「阿吽の呼吸」という言葉は日本の文化に根付いており、そもそも「相槌」の語源は刀鍛冶が刀を作る際に、互いに槌を打ち合う行為であり、この文脈が見事に今の我々の価値観に反映されているのが面白い所です。

つまりは「対話」という形式は自分と相手を隔て、絶対的な個人を形成する事により行われるのに対し、「共話」とは相手との境界線を極力薄めながら、相手の認識や感覚を享受し共有し合う行為であり、それは「共創」や「一帯感」「連帯感」と言われるものや、強いてはガイヤ理論すらも想起させます。(個人的にですが、、)

この自分の個としての輪郭(自我)が融解していき、自分自身を他人事の様に感じたり、俯瞰的に眺める事象は非常に興味深く(事象の地平面からのビジョン)、大きなストレスや多幸感で溢れた時に経験されるのが、誠に興味深いです。(ブラックホールの特異点に向かって行く様な感覚なのか??)

「言語的相対論」と「共話」による拡張世界とコミュニケーションの次元上昇

昔は一つの言語を習得するのに少なくとも三年を必要としていました。(※成人のケース、子供はもっと早いです)

しかし、今やテクノロジーの発展により機械による同時通訳の性能は飛躍的に進歩し、その精度も日々高まっています。

端末を担うスマートフォンの進化や、モビリティの開発、人工臓器や義肢、強いては電脳化が確立した時に我々の認知機能は更に拡張されていくでしょう。

人間に最も類似する脳の構造を持つイルカは、言語を持たず超音波により高度なコミュニケーションを可能としています。

自閉症の子供がイルカと戯れる事で、回復に向かうイルカセラピーというモノが存在している事は、とても興味深いです。

イルカは海という広大な「フィールド(インフラ)」を得た事により、超音波によるソナー機能を駆使し、広大な海に於いても正確な位置情報を獲得する事ができます。

これは、人間社会が「インターネット環境」を獲得した事により、様々な位置情報や外界との接続を可能にした事と類似しています。

今では、誰でもスマホでインターネットに瞬時にアクセスする事が出来、地球上にある膨大なデータに触れる事ができるのです。

人間社会は通信電波での「1G」「 2G」「 3G」 「4G」というインフラを拡張する度に、デジタル世界での「次元上昇」を可能にしてきました。

つまりは通話機能に、文字という「一次元情報(メール)」を送る事から始まり、「二次元情報」としての写真やイラスト、更には写真に「時間軸」が加わった動画情報、そして、動画にZ軸が加わった立体情報がXR分野で技術革新として進んでいます。

また、人口臓器や義肢を獲得した時に半永久的に機能する心臓や、4本の腕と10個の目、様々な波長の音を聞き分ける事の出来る聴覚の数々を電脳もしくはマイクロチップを通じて同時アクセスし拡張された世界は、今の私達とは絶対的に違う認識のモノのはずです。

対話によるコミュニケーションは時に「分断」を生みますが、この共話による相互世界の共創ともいえる行為は、非常に可能性に溢れてるのではないでしょうか。

多様な宗教感が混在する日本の価値観は、図らずともこの日本語特有の文脈に起結しているのではないかとすら思えてきます。

2021年三月現在、世界は歴史的なパンデミックの最中にあり、諸外国では様々な「分断」が生まれています。

コロナウイルス」という、人間の目で直接見る事のできない現象が不安や恐怖、インターネットを介した情報がインフォデミックを生み、日本でも団結とは程遠くひたすら「分断」を生み続けているのが現状です。

緊急事態宣言に関する意見の衝突、自粛警察や県をまたぐ者への排除の姿勢や、オリンピック開催に向けての対立、夫婦間や家族間の問題が吹き出物の様に溢れだし、これまでの企業文化や日本組織の体質的な問題点さえも浮き彫りにさせました。

これから支給されるワクチンに於いても賛否の声が溢れかえり、部屋に隔離された生活は実社会やコミュニティからの「分断」であり、自ら命を絶つ若者や女性の急増が今日では問題視されています。

これらは全てはコロナ以前から内包されていた諸問題が多く、我々は「生物面」「精神面」での局面に立たされ、その黎明期の渦で踠き足掻ながら我々自身を「アップデート」する為に「再コーディング」しているかの様です。

時間軸を超越するクオリア

著書の中で、ドミニク・チェンが開発した「タイプトレース」について言及されています。

「タイプトレース」とは、人間がキーボードでタイプする時に生じた、迷いや淀み、修正の行程をデータとして記録し、同期的にアウトプットしたものです。

例えるなら、今私がラップトップで打ち込んでいる文字が画面に表示され、加筆や修正の模様が、時間軸と空間を超えて皆さんと共有する事が可能という事です。

この事象は、我々に非常に特殊な感覚を想起させます。

今、私がこのキーボードでタイプしてる模様をリアルタイムで見るように、過去にアウトプットされたはずのその行いが、まるで意識を持って現在に行われているかの様に皆さんの眼前で行われるのです。

この画面上に時間軸と共に展開されていく、文字の打ち込みで表現されていく情報の軌跡は、脳のクオリアにより、今は存在しないはずの私を他人に想起させることができます。

この不思議な感覚。

昔、父が亡くなった後に留守番電話に収められていた声を聴いた時にも、同じ様な感覚に包まれました。

自分の父が生き絶え、火葬されて骨となった姿を認知しても尚、留守番電話から聞こえてくる彼の声はあたかも、かつて存在していた肉体を通して同じ時間を共有している様な不思議な感覚でした。

あの感覚は、今も自分の中で「言葉で形容されることもなく」実態をともなわず私の中で「ゆらいでいる」のです。

時間軸という概念そのものが、言葉という文脈に依存するものであるならば、この「クオリア」という感覚認識は時間軸を超越した過去と現実、そして未来をも包括する概念なのかもしれません。(ツイスター理論にも似ている)

イルカと人間の進化速度

しばしば、人間とイルカではどちらが知能が上かが議論されます。

脳の体積から考えた場合、イルカの脳の方がより精密な構造をしているといわれます。

この地球上に於いて食物連鎖の頂点に立っているのは間違いなく人間です。

イルカが人間より知識が上であるならば、本来はイルカが食物連鎖の頂点であるのが自然ではないでしょうか。

その観点から言うと、人間の方がより生物的進化の過程を進んでいるといえるのでしょうか。

しかしながら、人間はその歴史においてカニバリズム的な行いを繰り返し、様々な「分断」と「破壊」の歴史があった事は周知の通りです。

特に20世紀の人類史を振り返った時には、筆舌にしがたいほどの負の遺産を創ってしまいました。

そんな時はいつも、人間の行いとは相反する様に大海の中を自由奔放に遊泳するイルカを思い出します。

言葉により救わる事もあれど大きな「分断」も生んでしまう人間社会と、海という広大な一つのフィールドを共有し、クオリアでコミュニケーションを取るイルカの群れ。

イルカは人間の様に食物連鎖の頂点に立てなかったのではなく、立たなかった。

持続可能な世界という観点に立ち返ったならば、おのずと答えは見えてくるのかもしれません。

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