【短編小説】いつか結婚したい男と結婚にこだわらない女の話
「無駄ってなんだよ」
さっきまで彼氏だった男が、こちらを睨みつけている。
「だって無駄じゃない? 拓ちゃん、結婚する気ないんでしょ?」
「今は、って話だろ。これからしたくなるかもしれないじゃん」
「でもそれって、したくならないかもしれないでしょ」
カチッ、カチッ。
知らないラブホテルの名前が書かれたライターの、フリントホイールを何度も回す。
つかない。
舌打ちをしようとしたのに、咥えたタバコに邪魔をされた。
──帰りたい。
目の前にいる元カレは、それはそうだけど、と言ったきり黙った。次の言葉が見つからないのだろう。
所詮、その程度の男だ。
私が別れを切り出したのは、つい5分ほど前の話。
アラサー。付き合って1年。電力会社に勤める拓哉が、会社から転勤を言い渡された。
「俺、転勤することになったわ」
転勤先はここからは通えないような随分と遠い土地だった。引っ越ししなければいけないだろう。同棲の話も上がっていた私たちは、今後の生活について必然的に話し合わなければいけなかった。
でも、彼からその話は出てこない。「ついてこい」とも「別れよう」とも「遠距離だね」とも出てこない。
だから、聞いた。
「結婚する気とかないの?」と。
拓哉はスマートフォンでよくわからないゲームをしながら「今は、ないかな」と悪びれもなく言った。
だから私も言った。
「別れよう」と。悪びれもなく。
やっとスマートフォンから目を離した彼は、小さな目をまん丸にしてこちらを見た。
これが豆鉄砲を食らった鳩ね、と笑いそうになる。
鳩は随分とゆったりとした動きで、スマートフォンのゲームと私の顔と、私が取り出したタバコを順番に見たあと、なんで、と聞いた。
だから言ってやったのだ。
「だって、時間の無駄じゃない?」と。
無駄ってなんだよ、と拓哉は言う。
その顔は怒りと困惑が7:3くらいで混じっていた。
結婚することが全てじゃない。俺と一緒にいる時間は、無駄だって言いたいのか?
言いたいのはそんなとこだろう。
無駄だ。
どうしてこの男は、将来のビジョンが見えていない自分を、いつまでも好きでいてくれると思ったんだろう。
「結婚っていう形に捉われるのって、良くないと思う」
──じゃあどんな形になりたいわけ?
「別に結婚じゃなくてもさ、一緒にいられたら楽しい事だってあったじゃん」
──うん。楽しかったね。
「俺ら結構うまくいってたし、今後もうまくいくと思うんだよね」
──さっきまで私もそう思ってた。
「今後のことはゆっくり考えていけばよくない?」
じゃあさ、なんで結婚しないっていう結論だけそんなに早く出したの?
重要な課題が目の前にきても、適当にスルーする人とは一緒にいられないんだよね。
私は別に、あなたの結婚観を聞いたんじゃなくて、これからの私たちについて聞いたのよ。
「ゆっくり考えるのって、時間の無駄じゃない?」
カチッ、と音が鳴って、やっとライターに火が付いた。
ジリジリと先端が焼け焦げて、煙が濃くなる。
ふぅ、と煙を吐き出して、もう一度「別れよう」と言う。
「タバコ、やめたんじゃなかったの」と拓哉は聞く。
「このライター、どこでもらったの」と私は聞く。
目が泳ぐ。はぐらかそうとしている。
煙を吐く。
私、結婚できないんだろうなぁ、と、頭の隅で思った。
別に、結婚したいわけではないんだ。
ただ好きだった。とても好きだった。
でも、私のことを蔑ろにしただけで、この男がこんなにも憎くなる。
私はどこまでも私が大切だった。
私というよりも、私の中にいる「小さな子供の私」が大切だった。
傷つけることを許さない。
彼が私の時間を蔑ろにした。
その結果、まだ幼い少女が傷ついた。
もし、結婚という形でなくても、彼が将来を真剣に考えてくれたなら。
大人には大人の事情があるのよと慰めてあげる事もできただろう。
もし、別れを選んでいたら、いい人は他にもいるわよと励ましてあげることもできるだろう。
でも、彼は関係の変化について、考えることを放棄した。
「私たちのこれから」を聞いたのに、「自分の人生のビジョン」で返した。
その時の課題を放棄して、その場を乗り切ることを選んだ。
「別れよう」
「なんで」
「時間の無駄だから」
荷物をまとめる。
ここにいるだけでも時間の無駄なのだ。
同棲する前で本当に良かったと思う。
「荷物、捨てていいよ。別に思い入れとかないし」
一緒に買ったお揃いのパジャマ。
一緒にそろえた夫婦茶碗。
お揃いの箸。
お揃いのコップ。
写真。
ちょっとお高めの化粧水。と乳液。
自宅と同じモデルのヘアアイロン。
それくらい。
全部いらないし、全部新しいものを買える。
それくらい、私の人生に彼はいらない。
私は私が大切で、私の中にいるまだ小さな私を守らなきゃいけない。
大人の私は見て見ぬふりをできるけど、小さな私は泣きじゃくってしまう。
今も、しくしくと泣き始めそうな、予感がする。
もう少しだけ、大人の私の出番だ。
まとまった荷物を肩にかけ、挨拶もなしに玄関へ向かった。
小さな子供が今にも泣きそうだった。
「なぁ、ちょっと待って」
「待たないよ」
「俺が悪かったって。もう一回考えさせて」
「考えさせる時間なんてないよ。一回でちゃんと答えられなかったら終わり」
「そんなに結婚したかったの?」
「別に」
「でも結局そうじゃん。結婚しないって言ったら不貞腐れてさぁ……女ってまじで……結婚のことしか考えないよな」
「そうだね。バイバイ」
結婚を急に迫られ断ったら、ひどい言葉を浴びせられ一方的に別れられた、というストーリーができるだろう。
私はみじめにも結婚を迫った賞味期限切れの女で、それをかなえられなかったから癇癪を起して出て行ったとでも言われるんだろう。
──それでも、いいか。
踵の高いヒールを鳴らして、彼の家を後にする。
晴天。夜だけど晴天。星がキラキラ見えてキレイ。
別に、結婚じゃなくたってよかった。
私のことを考えてくれたらそれでよかった。
適当な言葉でごまかして、自分の人生観でごまかしてほしくなかった。
私がほしかったのは、私と拓哉の未来のビジョンだ。
「いつかは結婚したくなるかも」と拓哉が思い浮かべたのは「その時ちょうどいいタイミングで付き合っていた誰か」で「今ここにいる私」ではなかった。
私かもしれないし、私じゃないかもしれない。暫定一位は私だけど、私じゃなくなる可能性も十分にある。
その不特定多数に私が含まれていることが、許せない。
特別にして。幸せにして。私だけの未来を見て。
それができないなら、別れて。
カツ、カツ。ヒールを鳴らしながら夜の街を歩く。
星がきれいだ。晴天だ。星がきれいだ。少し滲むけれど。
子供の私の感情が支配する。
涙が流れる。ヒールを鳴らしながら、早歩きしながら、ぽろぽろと泣いた。
もう抑えるほどの力はなかった。
どうしていつも、こうなっちゃうんだろう。
私は心で抱きしめる。
私が大切にしてあげる。脆く傷つきやすい、小さな私を。
そして思う。いつか大人の私も、“誰か”に抱きしめてほしいと。
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