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あそびと合気と東洋思想

易と合気とマインドフルネスと

大学時代に、論理的思考に限界を感じているとき陽明学に出会いました。そのせいで、あそびを現象学と比較文化学で論じる卒論が、途中から東洋哲学の論文にすり替わってしまいました。それから陽明学と合気の研究がライフワークです。

あれから20年、回り回ってすべてが繋がりました。

きっかけは昨年新版になった「合気修得への道」と2018年に発行された「深淵の色は」という本です。そこには、今まで語られなかった合気と易に関する記述がありました。

キーワードは「調和」。

易学もそこから繋がる老荘などの東洋思想も、20年前貪るように読みました。今なら本当のことが少しは分かるかもしれない。そんな気持ちになって、昔書いた卒論を読みはじめました。

折しもnoteの卒論公開チャレンジでPDFをアップしていたので、すぐ読めました。そして驚いた。

「あそび」の元になる「游」の字が示すように、自分を環境に自適させる、つまり環境と自分が一体になることが、あそびの本質であり、合気の本質でもあるということに漸く気づいたのです。

そして、その本質はヨーガや禅、マインドフルネスとも繋がっています。

人は何かに一心に没頭する(三昧)と、乱れた心が一つになり(禅心)、不思議な力が顕れます。これが所謂「神通力」です。そして、その中で一番合気に近いのが、自分の意の如く自分が思うように動けるようになる「如意通」でしょう。

そして最終的に生死、変化、浮世のさまざまな問題に少しも心を動じない、自由自在を得る。これが老荘では「至楽」であり、原始仏教では「漏盡通(ろじんつう)」であり、「本当の合気」ということではないでしょうか?

また「神通力」ばかりを追うようになった、ヨーガや老荘思想を反面教師にして生まれたのが釈迦の仏教であり、それを元にしたのがマインドフルネスです。

マインドフルネスでは、心の乱れを制御します。つまり、観察や集中で不動心を得る。そうすると、智慧の慧と言われる精神的能力が発揮されます。これが、マインドフルネスがイノベーションの鍵になると言われる理由なのでしょう。

そして、「あそび」もこれらに通ずる鍵になります。

卒論の補論でも書きましたが、「あそび」に没頭することは、老荘思想の「至楽」に通じると考えます。

先日、台湾社会に様々なイノベーションを起こしているIT担当大臣のオードリー・タン氏が、3つのFの話をしていました。Fast Fair Funです。Funはあそびにも通じます。

先が全く読めない今の時代、20年前から研究している「あそび」と「合気」が、これからを生きる鍵になってくれそうな予感がしています。

参考資料

補論 [快感]と[あそび](「[あそび]に遊ぶ」より抜粋)

§1 [快感]の意味

我々は第2章において、中国の老荘思想の「とにかく快楽は人間の望ましいことであり、それは自然の理法に適った人間の状態である。造化は純ーな生命の活動発展であって、これを承って自我が純ーな活動の状態にある時快楽が存ずるのである。これに反して生命の祖喪・停滞・分裂するところに苦痛を伴う」 (1) という[快感]についての考え方を取り上げた。

また終章では、「人間はその活動に矛盾や渋滞が起こった場合に苦痛を感じる。それゆえ、人間はそのような矛盾・渋滞を避けるための、いわば「より簡素で根源的な[構造]」を[収束]的に現成しようとする。そして、このような人間の性質により、人間活動の[快感]は、 [発散]よりも[収束]を促すための[快感]の方が強いと考えられる」と述べた。そして、このような[収束]を促す[快感]は「人間の存在成就の[快感] 」と言え、それは「より矛盾・渋滞のない、簡素で根源的な[構造]の現成に向かって、構造化の連続を行なっていくことによる[快感]である」との論に至った。

しかし、「このような[収束]の[快感]は、人間存在のより根源的なものに関わるがゆえに、その[快感]も強いが、その過程に生じる矛盾・渋滞による苦痛も強い。なぜなら、 [収束]の方向の[行為]は、突き詰めれば突き詰めるほど妥当な選択肢や可能性が減少していき、そのための矛盾や渋滞が、苦痛を生みやすくなるからである。そのため、[あそび]はある程度[収束]の[快感]を享受したら、それ以上の苦痛を避け、次を[あそび]を行うという[発散]の流れが強くなるのであろう」と結論した。しかし、[快感]については[あそび]との関わりも深いため、さらに掘り下げて考察を行なってみる必要があるだろう。 そこで、 [快感]について少し論を補ってみたい。

中国において「古代人はまず天の無限なる偉大さに感じた。 やがて、その測ることもできない創造変化の作用を見た。 そしてだんだんその造化の中に複雑微妙な関係(数)があること、それは違うことのできない厳しいもの(法則・命令)であり、これに率い、これに服してゆかねば、生きてゆけないもの(道・理)であることを知った。」(2) ここから、そのような自然の厳正な法則を発見し、人間自身を反省して、人間社会の存在・法則を天 地自然と一致させて、天人一体となって渾然と生きていこうという精神が生まれ、この精神が中国思想の出発点となっている。 

そして、このような思想体系は周の時代に易として大成し、その後周代後期に登場した老子や春秋戦国時代の荘子などを経て、無為自然で有名な老荘思想などへ発展していったのである。この老荘思想において[快感]というものは、「人間の望ましいことであり、それは自然の理法に適った人間の状態である」とされていることは既に述べたが、安岡正篤によればその[快感]には三つの段階が存在する。

まず、最初の段階の[快感]とは、[感覚的快感]である。 この[快感]は[あそび] で言えば、主に低次の[階層]で生じるもので、一般には人間の官能的欲望を満足させたときの[快感]と言える。そしてこの段階での[快感]は、特に難しい思考等は要さないため、比較的容易に享受することが可能である。 

しかし、この[感覚的快感]は苦痛の相対に位置するもので、この[快感]が享受されるときには何らかの苦痛が伴う。 それは[快感]の禁断症状による苦痛とも言える[快感]の喪失を憂う苦痛と、[快感]を享受し ている時に相対的に存在している現実世界の煩悶・苦痛である。 そしてこの苦痛は、[感覚的快感]で一時的に忘れることはできても、消すことはできない。

しかし、このような[感覚的苦痛]を克服することによる[快感]も存在する。 これが 次の段階の[快感]で、[精神的快感]というものである。 これは[あそび]では、高次 の[階層]で生じる[快感]であり、「理性的批判(是非)に励まされ、あらゆる感覚的苦悩を克服して理性の要求(義)に就くことを快とする」 (3) 人格的な[快感]と言える。

だが、この[快感]もまた相対的なものであるため、そこに苦痛を伴う。 なぜなら、この[快感]の原点とも言うべき人間の理性的批判自体が相対的なものであり、これを礼讃するものもあれば、批判するものもある。 そのため矛盾が生じ、それが苦痛を生むからである。 また、この[快感]は対処療法的な側面をもっため、状況の変化によって新たに生まれてくる矛盾には、やはり新たな克服を行なわなくてはならない。 そのため、そこにも苦痛を生じるのである。 まさに[もぐら叩き]である。

このような[快感]と苦痛は必ず相対的なものであり、 言わば葉の表と裏の関係である。 それゆえ、[快感]が生じるところに必ず苦痛が生じ、苦痛の生じぬところに[快感]はない。 それでは、人間は永遠にこのような[快感]と苦痛を繰り返さなければならないのだろうか。否、そうではない。人間の理想はさらに高みにある。そして、その段階では[快感]もさらに高次になるというのが、老荘思想の言おうとするところである。

元来、 [快感]は生命の純ーな活動に伴って生じるものであることは老荘思想の基本であるが、 そのため真の[快感]は真に生きることと一致しなければならないという論へと発展した。 そして、「人間の理想は無限に複雑な内容を純粋に統一して無碍自由な無意識的生活(無為)にある。 俗人ほどその人生は諸事相剋的で、したがって煩悶苦悩も多いが、それらの問題が何にも矛盾にならないで、何ら渋滞もなく生成化育してゆく(無不為)絶対的生活が真に生きることであり、それがすなわち至楽である」 (4) という見解に至るのである。

これは、複雑なこの世界の法則と一体となって生活することで、何かを為していても、矛盾がないため為していないに等しいという段階に至って、初めて生じる[快感]である。そして、この段階の[快感]では、もはや単なる[感覚的快感]は問題ではなくなってくる。これはむしろ達人的意味における寂莫・虚無の快とも言うべきものであり、日本の詫 びや寂びにも通ずるものと言える。すなわち、 この段階での[快感]は、もはや[無楽] であり、強いて言うならば[至楽]であるということになるのである。

§2 [快感]と[あそび]

この複雑な世界の法則と一体となって生活することで、何かを為していても、矛盾がないため為していないに等しいという段階となり、言わば水の淡たるうまさのごとき[快感]に、我々がたどり着くのは容易なことではない。 また、人はこの段階に何かを悟れば一足飛びに到達できるわけではなく、当然段階的に進んでいくものである。 それゆえ、現実世界の煩悶苦痛の影響を受けやすく、このような理想も単なる理想で片付けられてしまう可能性がある。 そこで活用されるのが[あそび]である。 

[あそび]の世界においては、人は碁本的に物欲や義務の煩悶から解放されて、自由に自我を活動させることができる。 それゆえ、[日常内世界]の現象から離れて、直接[簡素で根源的な構造]にたどり着く可能性も高いと言える。 そして、このように複雑な世界の法則と一体となって[遊ぶ]ためには、 [感覚的快感]を貪っていてはいけない。なぜなら、我々が[あそび]を行なう場合は、このような[感覚的快感]を重視してしまうが、 それでは官能的欲望にとらわれてしまい、せっかくの自我の自由を放棄することになるためである。 また、[精神的快感]にとらわれるのもいけない。これは自らの理性が要求する内容に義務が生じ、それにとらわれることで、自我の活き活きとした活動を阻害することになるからである。

では、 どのように[あそび]を行なえばいいのだろうか。答えは簡単である。没頭すればいい。古代インドにおいて、仏教以前の思想にヨーガの思想がある。この禅の先駆ともなったヨーガの思想では、人間の心というものを非常に重視し、そこに三つの性質があることをつかんだ。 その一つ目は、我々の心を明るく気持ちよく、なんとなくうれしくする心の働き。 そして二つ目は、その反対に何か落ち着かないで心がそわそわし、心が散らばって、疲労させる働き。最後に三つ目は心を重苦しくして、なんとなく無気力となり、心を暗くするような働きである。

そして、こういった心の働きに基づいて、五つの心が立てられた。一つは、心が散らばってまとまらない「散乱心」。 それから、どうも心が暗く滅入ってしまう「昏沈心(こんちんしん)」。そして、なんとなく心が落ち着かない「不定心」。これらは、まさに[感覚的快感]や[精神的快感]と相対を為す心であると言える。 しかし、このような心だけではいけないので、心を何かに打ち込む。 これを「一心」という。そうして環境と心がぴったりと 一つになって無念無想、老荘で言えば「無為、無不為」に至る。これを「禅心」というのである。

 この段階に達すると人間の精神が統一され、環境ともぴったりと一つになって、 我々の中に潜んでいた純粋な心が活き活きと働きだす。 この状態を「三昧(ざんまい)」と言い、この「三昧」に入るようになると、散乱、昏沈、不定の心の時には顕れないものが出てくる。それが「神通」である。 そして、最終的に生死、変化、浮世のさまざまな問題に少しも心を動じない、自由自在を得る。これが老荘では「至楽」であり、原始仏教では「漏盡通(ろじんつう)」である。

ここまで観てみると、 [感覚的快感]や[精神的快感]にとらわれず[あそび]を行なうためには、 [あそび]に没頭すれば良いということが分かる。 そして、環境と心が一つ になると、我々は活き活きと自ら[あそび]を行なえるようになる。これはまさに「[あそび]に遊ぶ」状態であると言えるだろう。 また、このような「[あそび]に遊ぶ」状態に至れば、我々は「漏盡通」、つまり生死、変化、浮世から自由になる[快感]を得ることができる。 そして、この[快感]こそが老荘の[至楽]であり、 [あそび]の本当の[快感]と言えるのである。



(1)安岡正篤『老荘のこころ』、福村出版社、1999年、 P- 81.
(2) 安岡正篤『易學入門』、明徳出版社、1995年、 P- 18. 現代仮名遣いに変更。 (3) 安岡正篤『老荘のこころ』、福村出版社、1999年、p.87.
(4)前掲書、P- 88.
(5) 安岡正篤『禅と陽明学』、プレジデント社、1997年、p.34-37 の内容より。

ちなみに
「神通」とは、 三昧に入って心が散乱しているときには見えないものが見える「天眼通」、それから普通なら聞こえないものが聞こえる「天耳通」、そして宿命がわかるようになる「宿命通」、さらに人の心もわかるようになる「他心通」、最後が自分の意の如く自分が思うように動けるようになる「如意通」の五つがある。

しかし、古代インド において、 だんだんとヨーガをやるものが、このような「神通」による通力を得ることにばかり興味を持つようになってしまい、堕落してしまったのである。

そこで、このような誤りを正したのが、釈迦であり、仏教であると言える。例えば、 小乗原始仏教には「止観」という言葉がある。これは即ち、我々の散乱、昏沈、 不定といった心を止める、不動心のことを言う。そしてこの不動心によって、精神的能力が働き出す。これがいわゆる智慧の慧というものである。そして、この状態が「観」であり、天台宗などではこれが重視される。また「三昧」は仏教とともに民衆生活に深く浸透した言葉であると言えるだろう。

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