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4代目を志すきっかけとなった おばあちゃん(2代目)との思い出①

初めまして、富士の湯4代目

アベノリミツです。

4月に銭湯メディアの東京銭湯-TOKYO SENTO-で
公開された僕と親父の記事、皆さんもう見ていただけましたか?

銭湯のために休学までして、全国の銭湯を巡っていた
川端一嵩君が拙い僕の言葉をめちゃくちゃいい感じにまとめてくれました!本当にありがとう☻

そして今回、うちの3代目の親父はこれがメディア初登場でした!親父の富士の湯に対する思いもしっかり書いていただいてます!

まだ見てない!という方はリンクを貼っておくので是非見てみて下さい!↓


僕とおばあちゃん(二代目)の話

さて今回はまだ詳しくお話ししてなかった、富士の湯の2代目、僕のおばあちゃんの話を詳しくお話ししようかなと思います!この記事を投稿する5/29は、おばあちゃんの命日なんですよね。だから大好きなおばあちゃんの話を書きたいと思います☻

※長くなると思うんで数回に分けますね💦

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僕と富士の湯2代目女将,(おばあちゃん)の写真
(幼少期の僕、ツッコミどころが満載...😂)

実は、僕が生まれる数年前におじいちゃん(2代目)は既に亡くなってて、おばあちゃん(2代目)は富士の湯の仕込み、片付け、掃除をほとんど1人でしてました。

僕が生まれ、両親が共働きで住んでいた場所も市内から遠かったので、日中はおばあちゃん宅に預けられて過ごす日々が始まりました。こう考えると、富士の湯は僕が生まれた時から身近な存在だったと痛感するし、そしてなりより、おばあちゃんと過ごした日々が、僕が一番最初に”富士の湯の4代目になろう”と覚悟を決めた理由にも繋がってるなって思います。

銭湯をしているおばあちゃんとの生活

おばあちゃんは、開店の準備をしつつ、幼い僕のために昼食を作ってくれたり遊び相手をしてくれてました。なぜか分からんけど、毎回おばあちゃん宅に着くと夏でもめちゃくちゃ熱いお茶を出されて飲まされましたね〜笑🍵

おばあちゃんのおかげで猫舌は克服したよ笑🐈

そして2人で果物等を食べながらテレビを見た後、おばあちゃんは営業の仕込みに取り掛かってました。いつも10時過ぎぐらいから銭湯の仕込みに取り掛かるおばあちゃんは、仕込みを終えて、開店数分前にいつも”てきないな〜、てきない!”(※長野県の方言で疲れたという意味)と言って腰を叩きながらベットで仮眠していた事を今でも覚えてます。まぁ、今考えればすごい事ですよね笑 

だって銭湯の業務ってめちゃくちゃ忙しくて大変なのに、それを一人でこなしてさらに子供の面倒まで見ちゃうんですから!さすが大正生まれ...笑

お店が開店したら、僕は番台に座るおばあちゃんの膝の上で一緒に時代劇を見たり、脱衣所をうろちょろ走り回ってお客さんにお菓子もらったりしてました。それで夕方に親父が迎えにきて家に帰る。こんな1日を大体5年間くらい過ごしてました。いやー、でも本当におばあちゃんだけでなく色んな方に見守られて僕は育ったんだなー💦
今でも僕の幼少期を知ってる常連さんとかに”大きくなったなー!あんなうろちょろしてた子が〜😂ってよく言われます💦
ちょっと恥ずかしい笑 

 保育園から小学校低学年  

両親やおばあちゃん、富士の湯の常連さんなどいろんな方々に見守られて育った僕は、保育園に入園。でも、おばあちゃんっ子だった僕は保育園に対して凄く苦手意識がありましたね。”おばあちゃんと一緒がいい!!!”とか言って駄々をこねてた記憶があります笑

そのため、保育園に入ってからは迎えが来てもそのまま自宅に帰るので、おばあちゃん宅で過ごす事も少なくなったし、あまり会えなくもなりました。でも、小学生になると学校終わりにはおばあちゃんの家に帰って親父の迎えを待つという以前のような生活に!!!!僕はおばあちゃんの家の玄関からじゃなく、富士の湯の入り口から入ってそのままお風呂に入ったりしてました😂(今考えるとめちゃくちゃ贅沢...笑)

 ちょうどその頃、親父と母さんは市内に引っ越そうと計画をしてました。仕事とかが市内だとやっぱり移動距離も大変だし、富士の湯にも家族皆んなで入ってはいたものの、家が遠いからあまりゆっくり入る事はできてなかったから不便だったんだと思います💦
その計画をしてからしばらくして、僕たち家族は無事、富士の湯の近くに家を移すことができ、家風呂ではなく、みんなでおばあちゃん宅の銭湯に今まで以上に入りに行き、掃除の手伝いやおばあちゃんのサポートをする生活が本格的にスタートするのです。


つづく☻

(後半、僕の話になっちゃった、次回は多くおばあちゃんが登場します笑)

文:4代目

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