見出し画像

コミュニティは本質的に分断を内在している。それを前提にしつつ、どう接点を築いていくか。

 先日、僕の師匠の一人である中島明さん(東京都豊島区在住)と対談をした。彼はコミュニティづくりのプロフェッショナルだ。そんな彼との対談テーマは、コミュニティにおける分断。自分自身もまだ明確な答えがなく、模索しているようなテーマであるが、そうであるがゆえにこのテーマに2人で取り組むことにした。

 コミュニティは、そもそもクローズ性(排他性)をその機能の中に包含している。人々が安心してそこに集えるのは、一定のクローズ性が担保されているからだ。つまり基本的には、何かと何かを分断するということがコミュニティの前提であり、役割なのである。

 コミュニティ同士をどうつなぐのか?それは上述の前提と矛盾するのであるが、矛盾を抱えながらもそれをどう乗り越えるのかということを、わたしたちは考えないといけないのかもしれない。

 今回の対談を経て、気がついた(言語化できた)ことが三つあった。

①他のコミュニティ、特に先人たちへの敬意
人は自身の経験や実績をよりどころにする。しかしそうすることで、他のコミュニティを排除するということが起きてしまう。自分の正しさを一旦脇に置いて、他者へリスペクトのまなざしをもって関わることが必要になるのではないか、と思う。特に、時代や価値観が変わる時は、新旧の対立や争いが起きるが、新参者としてはブレない哲学を持ちながらも、先人への敬意が必要になる。これはローカルに入れば入るほど、そう思う。築きあげてきたのは、あくまでも先人たちである。

②視座を上げる
大局的に見ると同じ方向に進んでいる、ということがある。些細なところは違っていても、目指す方向が同じであるということを共有することで、分断や対立を乗り越えられる可能性がある。そのとき「そもそも」という言葉や「わたしたち」という言葉がキーになる。

③テーマでもなく、地域性でもなく、問い
SNSの発達で同じテーマに関心がある人同士がつながることは簡単になった。一方で、距離的・地理的につながっているということもある。ぼくはそのどちらにも属さない、あるいはどちらにも属しつつ、それ以外のつながり方があることを知っている。それは、「問い」でつながるあり方だ。僕が今事務所をつくっている「尼崎傾奇者(かぶきもの)集落」は、つくり手と使い手の関係のねじれや、すべてを貨幣換算する経済のあり方に「問い」を投げかけている。集落のメンバーはもちろん、集まってくる人たちもなんらかの形で同じ「問い」を共有しているように感じることが多い。「価値観」というものとも何か異なっているように感じる「問い」。このあたりは今後、言語化していければと思っている。

 コミュニティを語る時に、必ずと言っていいほど出てくる。分断の問題。連携や関係性の問題。答えのないテーマではあるが、また機会があればみんなで語ってみたいものだ。


最後までお読みくださいまして、ありがとうございます。更新の頻度は不定期ですが、フォローなどいただけると大変うれしいです。