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だからまだ、ぼくは電子マネーをやらない。

やっと書くべきタイミングが来たような。自分の中で牛丼のこと以上に明確に書きたい(どういう意味やねん)、そして世の中に投げ込んでみたい、と思うことがなかった。いや、これは大いに怠慢だと思う。書くべきことは、書きはじめてから見つかる、そういうものだと思う。


みなさんには、大切な人がいるだろうか。みなさんには、大切なお店があるだろうか。
友達や大切な人たちが遊びに来てくれた時に案内する、案内したくなる、そんなお店があるだろうか。

ぼくにはある。けれど、コロナを経て、その数は減ってしまった。
そして、コロナ以降も、その数は明確に減っていってしまっている。

たとえば。

自宅近くの商店街の中にあった、ひとりのおじいちゃんとふたりのおばあちゃんがやっている洋食店。どちらかは夫婦なのだろうか。その関係性は知らないけれども、ぼくがよく行くお店のひとつだった。

そのお店は、オムライスとハンバーグとエビフライが乗っているランチを出していた。まさに「大人様ランチ」だ。国旗が立っていたかどうかはともかくとして、それはぼくたちに自由を、子ども心を思い出させてくれるランチだった。

そのお店は、よく満席になっていた。いや、厳密には満席ではない。全く満席ではないのだけど「今いっぱいやから、今日は無理やで」と店員のおばあちゃんに言われることがあった。いや、でもテーブルは空いている。ぼくは、テーブルは空いているけど、忙しさと心がいっぱいだから満席なんだ、それがいっぱいということなんだ、と思った。いや、別に待つよ!と言わずに、そういう時は帰った方がいい。それがそのお店に対しての礼儀であり、プロトコルなのだった。そういうおおらかさのようなものを、あの店は持っていた。

コロナが明けたとき、そのお店はおひとり様でも行ける焼肉のチェーン店になっていた。最近はワーカーたちで賑わっている。ぼくはまだ、そのお店に行ったことがない。




70年間ずっと、ぼくが暮らす街に存在し続けた書店があった。ぼくはできるだけ熱帯雨林で本を購入せず、地元の、その小さな本屋さんで本を買うことを選びたかった。全く毎回ではなかったし、その数は多くはなかったかもしれないけれど、まとめて10万円分くらいの書籍を購入したこともあった。

営業最後の日、たくさんの人が集っている様子をSNSで眺めていた。たくさんの人が労い、礼を交わし、お疲れさまと言い合っていた。間違いなく、いろんな人にとても愛されている場所だった。その日は、雨が降っていた。

なくなってしまったその本屋さんは、本屋以外の役割をたくさん持っていた。たとえば、傘を売ったり、人にいろいろな本を紹介したりしていた。イベントをしたり、店の前に誰でも座れるベンチを置いたりもしていた。昔からずっと、道ゆく人に声かけをして見守りもしていたそうだ。けれど、残念ながら、そうした機能は別にあまり儲けにはつながらない。

ぼくは、自分の、あるいは自分たちの支払ったお金が、どういう流れで、誰の手元にどれだけ残るのかを、少しは想像したかった。自分の消費を通して、誰の暮らしを、どう変えているのだろう。どう支えているのだろう。関係性を切ったり、ショートカットしたりするためのお金ではなく、関係性をつむぐためのお金。関係性をつなげていくためのお金。あの人を応援するためのお金。そんなお金の使い方をしたかった。

でもぼくは、熱帯雨林を分け行って、そこで書籍を(それ以外の商品も)購入することがあった。しかも、それなりな頻度で。本物のアマゾンとは異なり、安く、すぐに、面倒な作業なく届けてくれるそのサービスはとても便利でありがたかったし、最高に合理化されていて、気持ちがよかった。翌朝に届いてしまうそのスピードは、ぼくたちから「待つ」というスキルを徐々に奪っているのかもしれなかったけれど、もちろん、その手段に頼るのは悪いことではなかった。悪いことではなかったけれど、自分のお金の行き先はほぼわからなかった。わかったとしても、体温を感じられることはなかった。




自分が昔、事務所を置いていた場所。

そこは、百年ほど続く材木屋さんの中にあった。いつでも木の香りがするその場所は、国道から少し入った場所にあった。大きな通りからちょっと入ったところにこんな場所が!と言わんばかりの空間は、来る人を圧倒した。敷地内の空いているスペースに、若い人たちでカフェをつくったり、ショップをつくったりして、新しい人を呼び込む工夫をしていた。徐々に人気を博し出したその場所は、雑誌やテレビに取り上げられるようになっていった。

けれど、その材木屋さんも今はもうなくなってしまった。医療品や雑貨、食品まで揃うようなホームセンターに、材木屋という存在はとても太刀打ちできなかった。そして、その材木屋さんにも諸般の事情があった。かく言う自分も、祖父が大工にも関わらず、材木を購入する機会に恵まれたことはなかった。そこに事務所は構えていたけれども。

そうだ、続けられないものは、仕方がない。儲からないもの、古いとされるものは淘汰されていくしかない。価値の不明瞭なものは存在し続けることができない。それは、社会の摂理のようでもあった。

最近、その場所を見た。なにもかもがなくなっていた。そのことに、むしろ清々しささえ感じた。いや、清々しいと思うことでしか癒せないなにかが、自分の中にあったのかもしれない。




ぼくには、うしろめたさがある。

自分に必要なものだったのであれば、残すための、残ってもらうためのそれなりの努力や関わりが必要だったんじゃないか、と。その関わりを自分はしようとしていたのか、あるいは、できていたのだろうか、と。

大切なものは失ってから気づくと言うけれど、本当に必要であれば、願うだけではなく、具体的な関わりを持つことが必要なのかもしれない。もっと、深く、だ。でもきっと、自分の日常をつくっているお店や場所は、すぐにいろいろな理屈や背景で目の前からなくなってしまう。そういう類のものでもあるのだ。

数年前、自分の母校も更地になって、マンションが建った。野球部の顧問から隠れてランニングをサボっていたあの場所は、今は子どもたちが走り回る場所になっている。そうやって、いろいろな思い出は常に塗り替えられていく。変わっていく。美しいくらいに諸行無常だ。変わることは、なにもおかしなことではない。変わらないことのほうがおかしなことなのだ。

今後も、街にある小さくて、だからこそ魅力的なお店や場所は、どんどんなくなってしまうのだろうか。それが悪いことなのか、いいことなのか、ぼくにはわからない。いずれの場所もいろいろな事情や問題が重なって、ふとその商いとしての命が燃え尽きる時があるのだろう。そのこと自体に、意味はないのかもしれない。

でも、だからこそ、あり続けてほしいものに、場所に、人に、どう関わるかは、大切な問題なのだと思う。その支えと関わりなくしては、大切なものは維持されない。自分たちの暮らしにとって大切ななにかには、目をかけ、気をかけ、常に関わり続けていくことが必要なのだ。赤子が養育者を必要とするように、その小さくて代えのきかない存在に、わたしたちは関わり続けなくてはならない。




「共助」とはなんだろうか。

共助は、国や行政が行う「公助」の補完ではない。共助そのものに意味があって、豊かな価値がある。しかし、その価値はあまりに可視化することが難しいし、定量的に示すことが難しい。なぜなら、わたしたちの豊かさや幸せを数値で示すことは、そもそも非常に難易度が高いからだ。

助け合える人がいること、そのようなコミュニティや関係性があること。もちろん、たまにわたしたちは匿名になりたくなる時もある。けれど、ゆるくて、それでいて強いつながりがある街や社会は豊かなのだと思う。

商いをすることは難しい。経営をすることは難しい。継続的にお金を稼ぎ続けることと、可視化しづらい価値を追い求めることは、もはや両立困難なのではないかとさえ思う。商売の中に、ビジネスの中に、テキスト化しづらい価値や公益的な価値は挿入しづらい。

だから、国がやるべきだというのもある。本屋の数も減少の一途を辿っていて、ここ20年で半数近くになっている。ビジネスとしてはかなり厳しい。だから国が支援する(可能性がある)。商売として、コミュニティとして、地域として維持できないものに関しては、国が対応すべきなのかもしれない。

このロジックに対して、確かにそうだと思う自分がいる。一方で、いや、でも自分たちが関わる中で見出すことのできる豊かさや喜び、幸せはどこにいくのかと思う自分もいる。課題が解決された状態も素晴らしいけれど、その過程で巻き起こるドラマがその人を幸せにすることもある。

ぼくはそんなふたりの自分に引き裂かれる。判断がままならない。どのような支援策もそうであるが、公金で対応するものである以上、明確かつ厳密なラインを引くことが要求される。その中で支援されないものは、市場原理で淘汰されるしかないのだろうか。

それでも、豊かであるとはどういうことか、この社会の中で幸せに生き続ける方法論やマインドセットはなんなのかを模索したい。きっと常にバランスは取れない。不均衡であることこそが、自分たちが生きている意味なのかもしれない。

「幸福への道はない。道が幸福なのだ」という言葉がある。地域社会における活動やコミュニティには、まさにそういう側面がある。課題解決をするために対話をするのではなく、新しい価値を生み出すために集まるのでもない。もちろん、その目的もあるし、必要なのだが、集まることや対話をすること自体が、幸せななにかになっている。そんな風景を、今まで見てきている。




熱帯雨林の倉庫は、ぼくが住む街の海沿いにある。そこは、2,000人以上の雇用をつくっているらしかった。駅前で大量の人がバスに詰め込まれ、その倉庫に向かっていく様子をたまに見かけることがある。もしかしたら、その中にぼくの知り合いもいたのかもしれない。

自宅の駅前に新しくできたお店に行く。まだぼくはそこの常連ではない。今日は店主と軽い雑談をして、さっと帰ろう。支払いは現金で。そりゃそうだ。小さなお店の売り上げにとって、手数料は大きな出費だから。

だからまだ、ぼくは電子マネーをやらない。

(この物語は一部本当で、一部フィクションです。実在の人物や団体などと関係のあるものもあれば、ないものもあります)

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