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伝えるためではなく、つながるために「表現」をする

表現というのは「伝える」、あるいは「伝わる」ことがメインの役割だと思っていた。けれど、そうじゃないかもしれない、そして、ぼくがやってきた表現もそうじゃないかもしれないと思った。


つながるために、表現をする。

もちろん、伝えたいという気持ちはゼロではないと思う。だけど、伝えるよりも(ぼくにとって)本質的に重要なことは、相手とつながりたいという自分自身の隠された気持ちだと知った。

今まで関わってきた多くのプロジェクトや企画は、なにかを伝えようと思ってやってきたのではなく、だれかとともにいるために、そして、だれかとつながるためにやってきたのだと思った。ゆるやかな問いを共有しながらともに存在すること、それを切望していたのだと知った。きっと、それだからこそ「相手に負担を与えない形で」自分の活動が広がってきたのだろうと思うし、たくさんの方に参加いただけているのだと思う。

どうしてか。

受け取ってほしいメッセージが重たいと受け取り拒否にあうことがある。伝えようという恣意的な空気感が相手の感情を逆なですることがある。相手の恣意性を感じた途端に萎えてしまうなにかがある。それは、大人がもっともらしい都合をつけて子どもを黙らせる構造、そしてそれを受けた際に感じる得も言われぬ心地悪さとよく似ている気がする。

思惑が強いものは、個人的にあまり好きではない。なぜなら、それは自由ではないからだ。どれだけそれが正しかったとしても、いや逆に、その思惑が(社会的に)正しければ正しいほど、相手に罪悪感や恐怖感を与える。どうしてあなたはやっていないんですか?どうしてあなたは理解していないんですか?と。それはつらい。

だからぼくは、ともに考えたいと思うし、一緒に問いたいと思う。そして、ともに時間を過ごしたいと思う。これまで、その繰り返しをしてきただけなのだと思う。

事業やプロジェクト、企画を進めていく際に「相手や対象とつながりたいと思えているのか?」、「一方的に自分の価値観や世界観を押しつけようとしていないか?」、「相手の本質と自分(たち)の本質がつながるようにデザインできているのか?」という問いを常に持っていたい、と思った一日でした。


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