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終電を逃して京都から大阪まで歩いた話。ウォーカーズハイとアンサングヒーローとお金。

ありがたさってなかなか気づけないですよね、という話なんですけど。

これはぼくが大学生の頃の話です。当時、一応就職活動というものをやっていまして。その日は京都(河原町)で会社説明会かなにかがあったんです。で、終わったあとに友人らと飲んでいて、気づいたら終電を逃しているという。まあ、たまにあるやつです。

当然、ホテルやマンガ喫茶はあるわけですけど。でも、なんか全然面白くないよなと。

「歩いて帰ってみるか」

なぜか、そう思ったんです。住んでいる尼崎までは難しいかもしれないけれど、大阪までなら行けるんじゃないかって。そこまで歩けたら学生時代の武勇伝(戦ってない)として語れるものになるんじゃないかって。もちろん、スーツに革靴です。そりゃそうですよね。就職活動をしていたので。

「旅路」においてはいろいろありました。途中、気づいたら公園で寝てたとか。面白かったのはどんどん時間が速く過ぎていくことでした。最初は2,3分おきに時計を見てしまうんですけど、だんだんその間隔が空いていく。最後の方は「もう30分も経ってるやん」って。深夜のウォーカーズ・ハイですよね。それはもう深夜4時に颯爽と歩いているわけです。スーツに革靴で。一人で。ぼくはなにをしてたんでしょうか。

結局、夜が明けるまで歩き続けて「高槻」まで着きました。いや、思ったんですよ。ていうか一人でツッコんだんです。

「全然行けてへんやん!」

あのときは悔しかったなあ。結構昔だったので、Googleマップとかも使ってなくて。所要時間もよくわからなかったんです。ああ、意外とかかるんだなって。遠いなって。そういう感じでした。

明け方、ほぼ始発で「高槻」から「梅田」まで帰りました。もうめちゃくちゃに速かったのを覚えています。ものの20分くらいで梅田に着くんですよね。「5時間歩いたの、なんやったん!」って。しかも200円ちょっとで行けるわけです。座ったままつくんだからすごいなあと。なんだこれって思いましたね。「文明」っていうのはこういうことかと。体感的にそれを知ったんです。

で、そこでめちゃくちゃ大事なことに気がついたんです。それが

「今の日本で普通に生きていると『感謝』できなくなる」

ということでした。

当たり前に毎日時間通りに電車が走っている。ぼくの生まれた時からずっと。もうそこにあるんです。そういう意味で言うと、電車が走っているのはぼくにとっては「自然」そのものなのかもしれません。だから5時間も6時間も歩き続けることはないんです。だって、移動手段として電車もバスも飛行機もあるんだから。そこに。

その「もうすでに自然にそこにあること」を揺さぶる、あるいはその価値を再認識するためには「不合理で非効率なことをする(意味のわからないことをする)」か「強制的にすでにあるものが使えない/機能しない状況になる(をつくる)」しかなくて。でも積極的にそうしたいと願う人は多くないはずで。前者で書いている「不合理で非効率なこと」なんて基本的にはしないですよね。それをすることによるメリットもないし、そこへ向かうインセンティブも働かないので。普通にしていればいいんですから。後者で言うと、自然災害が起こってほしいとか、コロナが広がってほしいとか、戦争が起こってほしいとか。そういうことも一般的にはあんまり願わないよねと思います。

でも、ここに重要な帰結があると思っていまして。つまりそれは、

「当たり前の価値を立ち上がらせる(再確認する)ためには、当たり前でない状況をデザインしないといけない」

ということで。もちろん、すべてのものを延々とありがたがることもできるのかもしれないけれど、相当な修行を積まない限りそれは難しそうな気もします。

やっぱりわたしたちは、すでにあるものの大切さにはなかなか気づかないんですよね。それはすでにある、普通にある、自然にあるというまさにそのことによって、気づかれなくて。日常からある意味「消えてなくなって」しまっている。そういうことなんだと思います。

アンサングヒーロー。うたわれることのない英雄。

日常や無意識に落とし込まれすぎていて誰も気がついていない。そういうことに気がつくというのは、めちゃくちゃにすごいことだと思っています。



お客さんとお店の人(供給者)との間に分断、あるいは溝があると以前書きました。お金をコミュニケーションツールとして挟むことによって、互いは必ず分断されてしまうのでしょうか。いや、そうではない、とぼくは思っています。

おそらく、

「等価交換されない」
「清算されず価値が残存し続ける」

ということが重要なポイントな気がします。そして、上記のような瞬間が実はたくさんあることをぼくは知っています。

クラウドファンディングで応援してくれた人には、特別な感情が湧いてきます。ぼくもこれまで4度ほど立ち上げたり、関わったりしてきました。もちろん、商品やサービスを受け取るために購入いただいているのですが、そうではない部分も当然に見えるわけで。それがみなさんからの感謝や応援の気持ちなんですよね。逆に言うと、それらが必要以上の負担感になってしまったり、罪悪感につながってしまったりするということも見てきました。でもいずれにしても、これは関係性を分断するためのお金ではなくて、むしろ関係性をはじめるためのお金であり、強めるためのお金のように思われます。

あるいは、生産者やクリエイターから直接商品や作品を購入することも関係性をつなぐためのお金の使い方かもしれません。その生産プロセスにどれくらいの時間や工数がかかっているのかを想像すること。あるいは、彼らがその生産にどのような想いを込めているのかを知っていくこと。それらを通して、彼らとの関係性を結んでいきます。「こんなに時間と想いをかけているのに、この値段でいいの?」そう思う瞬間もあるかもしれません。

与えられてしまった感じ
もらいすぎてしまった感覚

これら「健全な負債感」が次のアクションを生み出していく。きっと循環が生まれていくというのはこうしたことに起因するんじゃないかな、と思います。



コンビニでおにぎりを購入することに「与えられすぎてしまった感じ」を抱くことはないように思います。

けれども、知り合いが自分のためにつくってくれたカトラリーを受け取ったときは「モノの価値以上のなにかを受け取った」と感じるのではないでしょうか。

きっと、見えないなにかをどれくらい感じられるかということが重要で。ぼくたちはその「感じ」にこそ、お金を払っていくべきなのかもしれません。



最初の話とつなげます。

でも本来、コンビニのおにぎりってめちゃくちゃすごいと思うんです。あれほどのバリエーションで、クオリティで、量で、毎日コンビニに確実に並んでいる。どうしてか、いつからか、それが当たり前になっているというだけのことで。

ぼくたちは、コンビニのおにぎりを購入する際に「健全な負債感」をほとんど抱かないように思います。もちろん、そのおにぎりは自分のためにつくられたわけではない(等価交換してくれる人であれば客は選ばない)という意味において、少しさみしさを感じるものではあると思います。でも、それでも、それをつくっている、あるいは届けているアンサングヒーローがいるんだということに、ぼくたちはもっと目を向けていってもいいのかもしれないな、と思ったりもします。



この一年は、お金とはなんだろうか、ということをしっかりじっくり考えていきたいと思っています。たぶん、この部分を真剣に本気で追求しないと自分にとって面白いと思うことができないような気がしています。お金についてはよくわからないけれど(経済学部出身)、みなさんと一緒に考えていくことができればうれしいです。

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