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雲は一時の事象

先日、私が参加している「知心会」の8月の定例講に出席しました。「知心会」では、ありのままの己の心を観ながら仲間と共に研鑽する機会の一環として定例講があります。

今回の定例講は、「雲」がテーマでした。

雲は陰りであり 時・場を超えて訪れるもの。
人の邪魔をし 商いの妨げになり 生きる妨げにもなる。
只 雲は一時の事象と心得よ。
その雲は間も無く消え去るものなり。
その雲は又 水をもたらし潤いをもたらすと知るべし。
その雲の暗を楽しむべきもの。

「雲」に関する言葉です。

「雲」は、流れていく一時の事象、そして仕事や生活の妨げになるやっかいなものだが、なくてはならないものだというのがその本質であるということです。

この言葉、そして当日お聞きしたお話に沿って、私なりのまとめ3点です。ひとつは、流行りものに安易に飛びつくのはダメだということです。

一例がタピオカかもしれません。時々一気に流行ってブームになり社会全体で膨大な消費量となりますが、そのうち元に戻っていきます。時流に乗っただけで自身としての考えもなくタピオカビジネスを始めてしまうと、いずれ立ちいかなくなってしまいます。

しかし、もちろんすべてのタピオカビジネスがダメなわけではありません。うろ覚えの話ですが、もともとこだわりを持ってタピオカ屋をやっていた店主が、タピオカブームには一切乗っからず、それまで大切にしていた自店のタピオカを淡々と売り続け、今でも残っている店があると以前聞いたことがあります。

ブームに乗って、こだわりのないメニューの開発、自店の方針に合わない仕入先からも無理して調達、むやみな店舗拡大などをすれば、一時は儲かるのでしょう。しかし、本質を伴わない取り組みは、一時の雲でしかない流行と共に、いずれ流れていきます。時機が違ってもそれが本心からやりたいことなのか、やるべきことなのか、それが本業ではない副業やサブ事業だとして例えば本業と明確な相乗効果を見出しているなど意味のあることなのか。意思決定の基準のひとつになると思います。

2つ目は、一時の苦難から学ぶということです。

心地よい出来事もそうですが、苦しい出来事も雲だというわけです。しかし、その出来事から「永続的な絶望」という感情をつくりあげてしまうと、永続的に自分の中に滞留することになってしまいます。

先日の投稿では、私たちは無自覚だと終末論思想に引っ張られやすい生き物だということを考えました。希望か絶望かのような二元論は正しくなく、一見すると絶望的だと思える出来事から学び、自分の課題と自分以外の課題を切り分け、自分の課題の肥やしにしていく姿勢が大切だと思います。

楽しい、自分にとって好ましい一時の出来事におごらない一方で、苦しい、自分にとって好ましくない一時の出来事に沈み続けることなく中庸に戻ってくる意識が大切というわけです。

知心会の十戒(10の戒め)のひとつに「高ぶるな」があります。「驕り高ぶってはいけない。黙して粛々と行え」です。

講話の中でお聞きした、次の話が印象的でした。

楽しくて酒で騒ぐのもよい。悲しくて酒をあおってもよい。しかし、どちらの場合でも、次の日にはもとに戻ってこないといけない。そうすれば本当に見るべきものが見える

3つ目は、2つ目に通じますが、私たちは真理の上に生きているということです。

「真理」というのは「絶対」です。「ある時は通用して別のある時は通用しない」ではなく、どんな時でも通用するものです。例えば自然の摂理がそうです。そういうものの上に私たちは生かされているわけです。

真の理(ことわり)の上に自分たちは立っている。真理の上でしか自己実現は成立しない。原理原則を外した形での自己実現欲求は、土台がないため長続きしません。

一方で、何かに躓いたり大きな失敗をしたりしたとしても、「真理の上にまでしか落ちていかない」というわけです。真理という土台をつくれていれば、それを突き抜けて奈落の底まで落ちることはないというわけです。

雲は私たちにとって時には厄介なことをもたらす存在だが、人生にとって不可欠な存在。しかし、雲の存在に右往左往せず、真理の土台をしっかり固めて雲の恵みを受け止める。

難しいことですが、意識して取り入れたい考え方だと思います。

<まとめ>
流れる雲は、追いかけるのではなく、見守って受けとめる。

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