赤子を養う親のような心で他者を見る
「「大学」を味読する 己を修め人を治める道」(伊與田覺氏)という書籍を読んでいます。同書の中に、「赤子を養う親の心であるかのように」考えることが、私たちの行動のヒントになるという内容がありました。
古典に次の言葉があります。
「康誥」とは、「書経」(中国古代の歴史書のひとつ)の一篇につけられた名前です。今から約三千年前の中国にあった、周という国の初代の王である武王の弟が、康叔という人物でした。康叔が衛という国の地方長官として派遣されるときに、周公旦(やはり武王の弟)が康叔に与えた、政治の心を説いた文章が「誥」だそうです。つまり、康叔に与えた誥が、「康誥」の語源になります。
その意味合いは、「政治家としての心がけは、娘を嫁がせる時の父親に求めることができる」というものです。冒頭の書で次のように説明されています。
確かに、性別問わず、子育ての能力を十分に身につけてから子育てを始める人はいません。しかし、心から子供に尽くしたいと思えば、自然と子育ての能力が開花されていくはずだ、というわけです。「子ども」を「民衆」に、「子育て」を「政治」に置き換えれば、政治経験ゼロから始めてもそれなりの政治ができるはずだという視点は、うなずけるものがあります。
加えて、会社も同じではないでしょうか。「これから嫁ぐ者」を「初めて指導者やマネージャー、リーダーなどを務める者」に、「子ども」を「新人」や「部下」に、「子育て」を「新人や部下の育成」に置き換えてみるわけです。
「赤子を養う親の心であるかのように」新人や部下に対応していけば、その対応は「当たらずといえども遠からずに収まる」と言えそうです。
経営者も同様です。はじめて経営者を務める場合も、「赤子を養う親の心であるかのように」お客さまや従業員に対応していくことで、当たらずといえども遠からずの方針や意思決定に収まるのではないでしょうか。
自分の血を分けた子どもには、おのずと特別な愛着を持ちます。その愛着とまったく同じように、他人である民衆や部下、新人を見ることは難しいと言えます。しかしながら、不可能ではないと思います。
また、最終的にまったく同じように見ることができるかどうかはともかく、はじめからそれを放棄することはNGだというのが、同書の示唆なのだろうと思います。もし、自分の子どもと同じようには見る意思を、はじめから持つつもりがない、ということであれば、そうした立場を務めてはいけないのかもしれません。
4月から新しい役割を担うことになったり、新たなメンバーを受け入れたりするにあたって、意識しておきたい考え方です。
<まとめ>
相手に尽くす思いが徹底していれば、当たらずといえども遠からずに収まる。
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