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平和の意味は状況によって違う

 NHKに若いウクライナ人のディレクターがいて、彼女はウクライナの戦争が始まってから、ずっとそのテーマで番組を作っている。彼女は、多くのウクライナ人にインタビューして、いかにウクライナの力になるかを模索しているようだ。

 彼女が作ったひとつのドキュメントは、ウクライナの戦争から1年を経て、ウクライナの戦争がどう捕らえられているかと言う話だった。

 

日本人の平和


 このドキュメントを見て、私自身が気づいたのは、ウクライナ人が思う、日本人の「平和感」だった。
 ウクライナ人にとって、この戦争は「勝利」によって終わって初めて「平和」をもたらすもので、だからウクライナ人は「勝利」にこだわる。
 ところが日本人にとっては、「平和」と「勝利」は必ずしも一致しない。それよりも「勝利」とは、戦いが伴い、他人を殺す事によってもたらされるものであり、だから「平和」とは対極にあるものだという概念が強い。
 だからウクライナ人が「勝利」を口にすると、日本人は違和感を覚える。日本人はウクライナ人の窮状に共感し、心から手をさしのべたいと思っているが、そこに「人を殺す戦争をやめないウクライナ人」「自分の家族が人が殺すことを推奨するウクライナ人」という思いが入ってくると、疑問を感じてしまう。
 
 私自身、死ぬことの恐怖や、大切な人が死んでしまう恐怖は理解できる。だからそういう状況に陥る戦争は絶対に反対だ。だが昨今の日本では、「死ぬことの恐怖や理不尽さ」より、自分や、自分の大切な人が、「他人を殺すことを強要されることへの理不尽さ」の方が注目されてきたように思う。
 戦時下の話をドラマ化するときにも、以前なら従軍して不条理に死ぬことに注目されてきたが、昨今は従軍して「人を殺すこと」の不条理に着目した作品が普通になってきている。

 少なくとも現代日本においては、死ぬことよりも殺すことの不条理の方が糾弾すべき問題であり、注目されているということだろうか。

 こう考えると、先のウクライナ人ディレクターが直面した「平和」と「勝利」が結び付けられない日本人のメンタルが見えてくる。
 死なないことが平和なのではなく、殺さないことが平和なのである。
 しかし戦争は人を殺さないと勝利しない。

 

殺さないことの平和感とは

 ではどうして日本人がこの平和感にたどり着いているのか。
 どうして殺さないことを、死ぬことより重視するのか。
 ウクライナ人は、死ぬことを恐れながらも、平和は勝利の先にしか存在しないと考えている。
 日本人が人を殺すことを勝利より気にするのは、自国が戦場ではないから、平時の価値観から離れられないだけだ、ともいえるが、それなら単なる平和ボケだが、本当にそうだろうか。
 日本人がウクライナ人に共感するのは、ウクライナが焼け野原になり、国民が不条理に殺されている状況を見たからだろう。それは近年においては災害によって、理不尽に人が死に、土地が荒れ野に変わってしまう、災害大国の日本人としての共感であり、歴史的には、第二次世界大戦で敗戦した日本の焼け野原と多くの日本人が死んでしまった事実との共感ではないだろうか。
 こんなに焼け野原であっても、日本はそこから復興し、現在の経済大国になった。とするなら、ウクライナっもきっと復興できる。日本人の多くがその言葉をウクライナに送りたいと思っているだろう。
 だが思い出してほしいのは、ウクライナの戦争は、ロシアが不条理に侵攻した侵略戦争だ。つまりウクライナは被害者だ。
 では第二次世界大戦の日本はどうだったのか。
 日本はアジア諸国に侵攻した侵略者だった。
 そのことを今の日本人は忘れてはいないか。もしくは忘れようとしていないか。
 だから、日本と同じなのは、ウクライナではなく、ロシアの方だという事実を、忘れてはいないか。

 日本人が反戦を強く考えるのは、あの最後の戦争、第二次世界大戦での経験からきているのは確かで、それは、決して侵略された不幸を思ったからではないはずだ。
 むしろ、理不尽に侵略し、他国民を殺し続けた過去の日本に対する、反省からきているはずだ。
 日本は侵略戦争をして、負け、敗戦国としての道をたどった。だからこそ、侵略による「戦争の不条理と悪」をかみしめ、それを忘れないための平和を唱えたはずだ。
 だからこそ、日本人にとっての平和は、「勝利」ではなく、「戦争をしないこと」だ。日本人にとって戦争とは、侵略の罪を意味する。だから勝つことよりも、殺さないことを重視する。殺さないことの先にしか平和が来ないと考えるのが、日本の平和感だ。
 
 だが、ウクライナ人は違う。
 
 ウクライナの戦争とは、侵略された戦争であり、理不尽に自国を蹂躙される戦争であり、勝たなければ、自国と自国民の命と尊厳を奪われる戦争だ。この戦争は、決してウクライナ人が始めたわけではない。
 だから彼らは戦う。
 戦うことは自分たちを守ることであり、勝たなければ平和が来ない。

 

だから日本人がウクライナ人を批判するのは間違っている

 日本人は人を殺す戦争を否定し、だから人を殺しているウクライナを批判的にみるところがある。殺されるウクライナ人に同情し、逃げてきたウクライナ人に手を差し伸べるが、彼らが人を殺す行動に出ることには眉を顰める。
 だがウクライナ人の戦争は、かつて日本人が起こした戦争とはわけが違う。戦わなければ自分たちの生きる場所を守れない。そして戦争を始めたのはウクライナ人ではない。
 それに引き換え、かつての日本は、自らの意思で戦争を始め、他国を侵略し、挙句に国を失いそうになった日本は、負けそうになって初めて、自国を失うことを恐れ、戦わなければ自分たちの国も命も失うと思った。しかし日本が国を失ったのは、ある意味自業自得だ。
 日本人は、自業自得で国を失いかけ、国を焼け野原にしたわけで、だからこそ子孫に戦争を行う愚を伝えようとした。
 われわれ日本人は、それを伝え聞いて、教えられて,反戦を叩き込まれたわけだが、その結果、平和は維持できたが、そもそもの始まりが侵略戦争であることを意識しなくなってしまった。
 侵略したことを意識することは、自らに非を意識することで、往々にして、人間はそういうことに目をつぶりがちだ。
 しかし結果として、日本の平和は80年以上続き、日本はその間どの国にも侵略を行っていない。この長きにわたってどの戦争にも関わらなかった国は珍しいし、平和大国としての立場を維持していることに変わりはない。こうして、戦争を起こしてしまった世代が、子孫に臨んだ「反戦」は実現した。
 第二次世界大戦終結後、日本は少なからず、世界の平和維持のための役割を果たしてきただろう。その事実はゆるぎないと信じたい。
 しかしその貢献が、どこから生まれてきたのか、日本人自身は忘れてしまったのではないだろうか。

 日本人がウクライナ人に同情するのは正しい。でも共感は少し違う。
 そして勝利の先に平和が来るというウクライナ人に、違和感を持つのも間違っている。
 日本人が共感できるのは、実はロシア人の方である。
 同じ戦争でも、侵略戦争の先には、平和は来ない。日本も侵略専横の勝利で利益を得て、平和が保たれると思っていた時代があったのだが、それは結局間違いだった。侵略戦争の先には、結局平和は来ない。
 その事実を知っている日本は、そのことをロシア人に対して伝えるべきだ。侵略戦争の結果どうなったか、侵略戦争の先には悲惨な末路しか待っていないことを、ロシア人に伝えるべきだ。
 侵略戦争で利益を得ようとするのは間違いである。
 現状を見ても、ロシアはウクライナを相手にしているようで、西側のほとんどの国を相手にしており、完全勝利はあり得ない。戦争のために国は荒廃し、戦争が終わっても、かつてのような経済活動は難しい。せいぜい中国の属国のように扱われてしまう可能性が高い。
 富んだ国ではなかったかもしれないが、しかし資源大国として、それなりの立ち位置を持っていたはずのロシアは、もはやその地位に戻ることはないし、ロシアが国家としてだけでなく、ロシア人としても、他国から受け入れられない機運が高まり始めている。
 若いロシア人にとっては、国内でも国外でも、将来の夢を描くことは難しくなっている。
 かつての日本がそうであったように、今のロシアは、この状況を続ける限り将来はない。やがて、国内が荒廃し、もしかしたら焼け野原になり、貧困に立ち戻る可能性が高い。
 ウクライナは戦争が終われば、西側諸国の援助から復興する可能性が高いが、ロシアに手を差し伸べる国は、ロシアを蹂躙する国しかいない。
 日本はかつて侵略し、負け、焼け野原になり、原爆まで落とされ、アメリカの植民地と化した。主権を失う結果となり、日本は日本人の国ではなくなった。しかしその結果平和国家として復興を成しえた。日本人としてのアイデンティティを失ったかもしれないし、日本人の誇りを踏みにじられたかもしれないが、それは今日の平和と繁栄の代償だった。
 ただそれは幸運だったからだ。それと植民地化したのがアメリカだったからだろう。アメリカを礼賛する気はないが、アメリカという国の特性から、アメリカに植民地化された国の多くは、その後もアメリカと良好な関係を続け、恩恵を受け、うまく発展している。
 しかしロシアを植民地化するのは、おそらくアメリカではなく、中国だろう。中国に植民地化された場合、現在の日本のように発展する可能性はまずないと思う。中国は国民に自由を認める国ではないし、漢民族以外の民族に対しての中国政府の扱いは、結構ひどい。

 日本人が自らのこととして語れるのは、結局ウクライナに対してではなく、ロシアに対してた。だから、ウクライナ人が日本人に違和感を持つのは当然だ。
 日本人の戦争は侵略戦争であり、日本人が避けたいと思っているのは、戦争ではなく侵略戦争だ。だから殺さないことは、勝利より優先される。
 侵略され、国を取り戻すために戦うウクライナ人が、こういう日本人のメンタルに疑問を持っても当然だ。
 
 逆に言えば、日本人がウクライナ人の心を理解したいなら、それは自分の平和感を横において、ウクライナ人の状況を深く理解する努力が必要だ。

この戦争を終わらせるには

 最後に、非常に危惧していることがある。
 日本は連合軍に負けて焼け野原になった。国民もたくさん死んだ。兵士だけでなく、内地にいた一般人が、空襲に巻き込まれて、たくさん死んだ。
 それは悲劇的なことで、二度と起こるべきではない。
 だが、第二次世界大戦まで、日本は戦争に負けたことはなく、何度も侵略戦争を繰り返してきて、(かなり性懲りもなく)実際には世界か危険視されていたし、国内も安定を失い、経済も駄目になっていたのに、それでも性懲りもなく戦争を繰り返していた。それで利益があると錯覚していた。
 そして最悪のダメージを受けて、ようやくそれまでの国の在り方を改め、国を富ませ、国民を平和にすることには、戦争は必要ないことに気が付いた。
 
 ロシアもまた、他国に侵攻し、蹂躙を繰り返している。ロシアは、かつてソ連邦だった時、その崩壊でかなりの痛手を受けている。政府が間違った政策をすれば、その付けは国民に跳ね返る。しかしロシア国民はそうした経験があったはずなのに、現在も政府に従順で依存的だ。
 ロシアは性懲りもなく戦争を続けている。相手が弱いとみれば、時間をおいて何度も侵攻したり、戦後にじわじわ国境線をひきなおしたり、そうやって決して戦争を辞めない。
 しかし戦争をすれば、国民が死ぬ。
 だがロシアの政府はそれをほとんど意に介していない。

 戦争は国を富ませるためだとロシア政府は言うが、戦争など全くしなくても国を富ませることはできる。
 国の尊厳のために戦争をするというが、尊厳など、戦争などしなくても手に入る。平和で、豊かであることが最も国の尊厳を高める方法だ。ウクライナを侵略しても、ロシアの尊厳は高まらない。ウクライナの文化はウクライナのもので、ロシアのものではない。
 そのことを私はよく知らなかったが、ロシアがウクライナに侵攻したことでようやく知った。ロシアの文化といわれたほとんどのものが、実はウクライナで作られたものだという事実だ。

 ロシア人のほとんどは、そのことを考えないのだろうか。
 少なくともロシア政府が、提示する選択肢に、ロシア国民は、あまりにも従順である。
 だが、政府が間違えば、その落とし前を払うのは国民であって、政府の要人ではないということも忘れてはいけないはずだ。
 
 となると、どうしたらロシア国民に、その事実を知ってもらえるのか。
 日本において日本人も、かつては同じで、日本政府が間違った方向に進んでいるのに、それを指摘できなかった。ただ従順に従った。
 そして日本人は国の主権を失い、焼け野原になったことで、ようやく事実に気が付いた。
 とすれば、ロシアもまた、焼け野原にならないと、次の一歩には進めないのだろうか。それで多くのロシア人が死なないと、だめなのだろうか。


 


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