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染まりゆく地平線に向かって

コーヒーを淹れてリビングに座っていると、ベランダへいつものにゃんこがやってきた。毎朝同じ場所で、なんとも言えない体勢でくつろいでいる。観葉植物たちは朝日に煌々と当てられ、葉水をした葉っぱが艶やかに光る。植物が増えてきたため、満遍なく陽が当たるように最近配置換えをした。こんなにも小さい鉢植えの中で、少量の土と水があればすくすくと育っていくさまを見ていると元気をもらうと同時に、人間は不便すぎると感じる。家の中で植物を育てるという行為は、完全に自然と同調することができなくなってしまった人間が、なるべくそこへ近づこうとしている感覚がある。洗濯物を干そうと窓を開けると、目の前の山からは無数の鳥の鳴き声が聞こえてきた。たまに他所では聞いたことのない鳴き声も聞こえてくる。空はどこまでも突き抜けていけそうな青さで、大きく深呼吸をし、その青さを肺へと吸い込んだ。

慌しかった日々は落ち着きを見せ始め、徐々にいつも通りの日常が戻ってきている。大きなイベントがあった後は、終わってしまった寂しさに引きずられることが多かったけれど、今はその寂しさは感じられない。特別な出来事と、日常生活の差がなくなったからなのだろう。出来事に序列をつけ始めると、途端に日常がつまらなくなっていく。ただ道端に花が咲いているのを通り過ぎるのか、道端に咲いている花はどんな名前で、どんな色で、どこから種子が飛んできたのかを想像してみるかで、日常の彩り方は変わる。


庭で掃除をしていたご近所さんへ挨拶をする。若い子と話せると元気になると言ってもらえた。この街では、三十路の私も若い子になる。近所で話せる人がいると、一人だけど一人ではないと感じられると話すご近所さんは、すでに90歳を越えている。とても90歳とは思えないほど明るくはっきりと話せる姿は、孤独を感じていないおかげなのかもしれない。干物屋さんの前を通り過ぎさまにおじさんへ手を振ったり、焼きそば作ったから食べない?とご近所さんからお裾分けをもらったりなど、日々の彩りの幅が増えたおかげで、私も自分の存在を証明するにはそれくらいで充分だと思えるようになった。

にゃんこにもご挨拶。


海へと向かう。海岸は毎日通過していたものの、浜辺に座ってゆっくりするみたいなことはできなかった。なるべく海に近づきたくて、堤防の先へと向かう。先端では、少年たちが不慣れそうに釣竿を垂らしていた。そんなに振り回したら魚は寄ってこないんじゃ…と眺めつつ、楽しそうな少年たちを包み込むように広がる海の姿と共に、穏やかな時間が流れていく。雲の後ろに隠れていた太陽は急に顔を出し、海面をキラキラと照らし始めた。遠くにいた船はだんだんとこちらへ近づいてきて、予想よりも大きな姿を現していく。もっと見ていたかったけれど、照りつける太陽にのぼせてしまいそうだったため、その場を後にした。


スーパーへ立ち寄り、再び海岸へ戻ってきた頃には地平線がピンク色に染まっていた。どうやら少し涼しくなってきた今ぐらいの季節から、この現象は見られるようになるらしい。地平線が見える生活はいい。私の心をどこまでも連れて行き、つられるように身体も解放されていく。躁状態のように何でもできる!と思うのではなく、全てはここにあると思えるのだ。何かを付け加えなくても、寄せ集めなくても、かたどらなくても、取り繕わなくてもいいのだと実感できる。

人間社会では朽ちていくこと、衰退していくことは悪いことだとされているけれど、私はそうは思わない。それらは誰もが避けられない真実であり、争えば争うほど歪んでいく。だからせめてかっこよく朽ちていきたいと私は思っている。それは単なる諦めとは違い、今あるものを理解しながら、そっと受け入れていく感じだ。私の風景画に古い街並みが多いのは、その影響なのだろう。その風景から私に対して、絵にしてほしいという問いかけがあったのは、悪にされ、忘れ去られたものたちからのメッセージなのかもしれない。聞こえてしまった限り、私は描き続けなければならない気がしている。

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