見出し画像

静けさと淡さの中で見つける自然界からの便り

朝、目が覚めると心臓がバクバクしていた。昨晩は家が揺れるほど風が強く、ドオッと風音が鳴るたびにドキッとする。まるで台風のようなこの風は、時折りこの街で吹き荒れる。家が吹っ飛ばなかったことに安堵し、いつものようにコーヒーを淹れた。風は少しおさまったようで、鳥のさえずりや、トンビが気持ちよさそうに鳴いているのが聞こえる。観葉植物の葉は静かにカサカサと音を立て、ブラインドから差し込む陽と共に揺れている。朝は音楽や動画などの音を流さずに、自然界の音に耳を傾けたくなるのは、私の気持ちにゆとりができたのもあるだろうけど、どうやら日本人は自然界の音を言語として処理する脳みそになっているらしい。

西洋人は自然界の音を騒音や雑音と同じように右脳で処理しているのに対して、日本人は言語と同じ左脳で処理しているそう。鈴虫の鳴き声をりんりんと、雪が降る様子をしんしんと表現するみたいに、日本語には自然界の音を言語化した情緒豊かな言葉が数多くあるのは、日本人には聞こえていて、西洋人には聞こえていない音があるからだった。この街へ来てからより一層、自然界の音を楽しむようになった。この音そのものが音楽のように感じて、鳥のさえずりや波の音を自分の曲へ入れてみたりもしている。西洋人のように騒音や雑音として処理されていたら、随分とうるさい世界に感じて、爆音で音楽を流し始めていたのかもしれない。私の耳にはチュンチュンと鳴く鳥のさえずりや、ソヨソヨと窓から部屋へ入ってくる風の便りは、まるで自分へ語りかけているような気すらする。


作業部屋へと行き、描きかけの風景画に取りかかる。すでに想定していた日数の倍の時間がかかっているのは、私が今まで見えなかったものが見えるようになったからなのだろう。ひと口に青と言っても、その青の中には何色もの青とカテゴライズされている色が入っていて、それらを一つ一つ表現しているとあっという間に日が暮れてしまう。多い時は10色ほど重ね塗りしなければ出せない色もある。この世界を一色で表現することはとてもできない。その何層にも重なっている色を掘り進めていくうちに、薄さや淡さを認識できるようになるのだと知った。雑音で掻き消されていた鳥のさえずりが聞こえるようになるみたいに、鮮やかさや派手さで打ち消されてしまっていた隠れた色彩が目に映るようになるのだ。これは何にでも言えることかもしれない。

純度を上げるとシンプルになっていくのではなく、むしろ何層ものグラデーションが現れて複雑化していく。その中から本当に伝えたいものを選び、自分のものとして昇華する。作品は何を伝えるのかではなく、何を伝えないかなどと言うけれど、誰もがパッと見、パッと聞きで認識できるものは省かなければ埋もれてしまうほど、私たち芸術家が追い求めているものは繊細であり、分かりづらいものらしい。観葉植物の葉のカサカサ音が聞こえるようにするためには、建物に蓄積された汚れが見えるようにするためには、あらゆるものを省く必要がある。


久しぶりにお刺身を食べたくなりスーパーで覗いてみると、大きな柵のカンパチが600円だった。安い。でもこの街で暮らしていると刺身の値段はこれくらいが当たり前になってくるため、安いのか安くないのかが分からなくなってくる。安いよね?天然ぶりが大漁に採れた時も、価格帯がバグって安くなっていた。このサイズの柵ならカンパチ丼が軽く二人前は作れる。一人ではとても食べきれないため、今夜の夕ご飯と、明日のお昼ご飯の2回に分けて食べることにした。実質300円の新鮮なお刺身を2度楽しめるのは、この上ない贅沢。

ご近所さんから連絡が来て、柿とミカンとリンゴをもらった。昨日も他のご近所さんから柿をいただき、フルーツパーティーみたいになっている。鳥のさえずりもお刺身もフルーツもそうだけど、加工されたものではなく、素材そのものを楽しめるようになると人はそれを贅沢だと感じるようだ。さっきも言ったようにパンチが強いものはむしろ分かりやすくシンプルで、弱いものほど複雑に感じ取っている。埋もれてしまっていたあらゆる五感を呼び覚まし、感じ取れるものが増えると心身は喜び、満足度も高く長く持続するため、それを贅沢だと感じたりするのだろう。私はできるだけこの静かで淡い贅沢へ身を投じて、自然界の音と会話できる日常を過ごしていたい。

この記事が参加している募集

#最近の一枚

12,855件

#この街がすき

43,736件

頂いたサポートは活動のために大切に使わせていただきます。そしてまた新しい何かをお届けします!