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結果を捨て去った日常は広がり続ける多彩な世界

結果をあまり気にしなくなった。というか結果を想像しなくなった。というか結果が伴うことをしなくなった。今できることを淡々とやって、あとはどうにかなるさとお気楽な感じでいる。もうちょっと考えた方がいいのではないかと思うことはあるけれど、そこには背伸びをした自分か、背伸びが足りないと落ち込む自分か、もっと背伸びをしなくてはいけないと鼓舞する自分がいただけだった。結果のことを考えると、その結果に対して今の自分は何が足りていないのかという視点になってしまうのだ。自らの生存確率を上げるために、未来を想像して回避する能力を身につけた私たちは、他の生き物たちとは違い、今以外の時間軸にも引っ張られてしまう。自然の中で暮らしていると、他の生き物たちと同じ時間軸で生きられなくなってしまった自分をより一層感じる。だからなるべくそこへ近づこうと、私は「結果」というものを捨て去ったのかもしれない。


我が家へ泊まりに来る友達は、皆んな口を揃えて私の暮らしを「丁寧な暮らし」だと言う。言われてとても嬉しいけれど、この「丁寧」という言葉には少し違和感がある。

丁寧 ──── 細かいところまで気を配ること。注意深く入念にすること。また、そのさま。

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意味を踏まえると、丁寧な暮らしは面倒くさそうに見える。世間一般的にも丁寧な暮らしはわざわざ手間や時間をかけて、それ自体を楽しむことだと思われているだろう。間違ってはいないのだけど、丁寧な暮らしをしている人はわざわざ手間や時間をかけているわけではない。今に集中しているがゆえに、結果的に手間や時間がかかってしまっただけなのだ。私だって面倒くさがりだから、わざとはしたくない。


例えばコーヒーを飲みたいとする。シンプルにただコーヒーを飲むという目的を果たすためならば、安易な目の前のルートを選び、市販の粉末タイプなどで淹れようとするだろう。これが今に集中しているとどうなるのかというと、興味があちこちへ散漫し、安易な目の前のルートが見えなくなる。設置されていたゴールが取り払われ、どこまでも自由に走っていいよと言われるような感じ。豆から淹れたらどうなるのか、豆を変えるとどうなるのか、豆を挽くにはどんな道具がいいのかなど無数のルートが出現し、目的地はどんどん遠ざかってしまうのだ。つまり結果のことはほぼ考えていない。おいしく淹れられるか、早く飲めるかは二の次で、興味がそそられる方へと寄り道していく。結果、手間や時間がかかり、丁寧なことをしているように見える。私はこれを丁寧というよりも、結果を気にしなくなった人だと思っている。


来年の活動のことよりも今やってみたいことが優先だし、来月までに仕上げなければならない作品よりも今作りたい作品が優先だし、このあと待ち構えている仕事よりも今淹れているコーヒーへのこだわりの方が大事なのだ。ダメなやつだ(笑)でも後回しにしている自分は、いつまでも亡霊のように付き纏う。だから決して交われない未来のことを考え続けて今を忙殺していくよりかは、結果を気にせず今やりたいことを積み重ねていった先の結末でいいと思うようになった。この方法ですでに迎えている結末は、わりと気に入っている。それはきっと、後回しにした亡霊が一人も付いていないからだろう。

結果よりも大事なものを見失わないようになって、色んなことに気づけるようになった私の世界はとても広く、今でも広がり続けている。この景色はたとえ同じ結末を迎えたとしても、結果を気にしていた自分には見えなかった景色だろう。結果を気にする人間に、途中のプロセスを気にする余裕などないからだ。沈む夕日で染まる空が綺麗だったから、作業を中断して家から飛び出して見に行くのも、スーパーでも買えるのに、さらに自転車を走らせて干物屋さんへ干物を買いに行くのも、ただただ今やりたい方へと流れているだけ。結果、美しい空やおいしい干物へ辿り着けて、明日の肥やしになっているわけだから、世界は上手いことできていると日々感じる。結果なんて気にしなくても、案外どうにかなるもんなのだと。

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