見出し画像

小説:絶つ鳥【2000字ジャスト】

階段を一段上るごとに、テキーラの匂いは強くなった。
できることなら胃の中のものをすべて吐いてしまいたかった。
「これぜってぇ最悪な現場だぜ。病むわぁ」
「やっぱりそうっすよね。帰りたい」
「ばーっと終わらそうぜ。苦痛は短いほうがいい」
「それで終われた試しあります?」
「そう思うしかないじゃない!」
「吐きたい」
「わかる」
そう言ってから、佐々木さんは首の骨を鳴らした。

その部屋の住人については、僕たちにはなにも知らされない。
いや、元住人と言ったほうがいいのかもしれない。
「もう戻ることはない」ということだけが確かな場合にのみ、僕たちの仕事になるからだ。
僕としても知りたくなんてない。
それでも、部屋に残された痕跡は、言葉よりもたくさんのことを僕に伝えようとしていた。
たとえば今日の現場には、心の限界を越えたようなテキーラがぶちまけられていた。
「やべぇ!居るだけでキマりそう!マスク意味ねぇ!!はやく終わらそう!」と佐々木さんは叫んだ。
僕にはすでにキマっているように見えた。

僕が清掃業という仕事に抱いていたイメージは、ビルの廊下をどぅるんどぅるん回る機械で磨くというものだった。
面接のときに佐々木さんは微妙な顔をしていた。
僕が「機械を操作するのは得意です」と言ったからだ。
「そういう会社もあるとは思うんだけど、うちはたぶん君が思ってる感じじゃないと思うんだ」
「あっ、大丈夫です」
佐々木さんは苦笑いなのか憐れみなのかよくわからない顔をした。
今思えば、たぶんその両方だったのだろう。

佐々木さんは時々、「今まで見たヤベェ現場」の話をしてくれた。
「ウチには部屋だけじゃなくて、なんつうか、「金払うからだれかやってくんねぇかな」って感じの現場がまわってくんのね?非常階段のうんことか」
「非常階段のうんこって言葉、はじめて聞きました」
「まぁその程度なら稀によくある」
「どっちですか」
「でさぁ、なんかこう、ときどきメンタルにくるようなのもあんのね」
「死体とかですか?」
「いや、それはない。それは警察とか、それ専門の業者」
「はぁ」
「ちがうんだよ。直接的ではないんだけど、なんかこう、いやな感じがするっていうか」
「たとえば?」
「あー、アパートの共用部に、尋常じゃない量の爪が落ちてたの、あれはいやだった」
「剥がされた?」
「そうじゃないからいやなんだよ。ちゃんと切られた、普通の爪」
「なにがあったんですか?」
「俺が知りたい。いや、やっぱ知りたくない。生真面目に、常識的に切られた爪が、非常識な場所に非常識な量で捨てられてんの」
「気持ち悪いですね」
「そう、気持ち悪いんだよ」
「でもなんか、かわいそうですね」と僕は言った。
「優しくなりすぎるなよ」と、佐々木さんは言った。
佐々木さんは他にもいろいろな話をしてくれた。
そして過去の話をするときはいつも、なにか遠くにあるものを見つめているような目をしていた。

ある日、上司に現場を指示された。
佐々木さんの部屋だった。
僕は上司になにかを聞こうとしたけれど、なにを聞こうとしていたのかわからなくなった。
今までの現場だってなにも聞こうとはしなかったじゃないか。
ほかの現場となにも違わないはずじゃないか、と僕は思った。

それでも、なにも考えないようにすることはあまりに難しかった。
明るく飄々とした佐々木さんの顔を思い浮かべずにはいられなかった。
僕は佐々木さんの心に踏み入ろうとしているのだ。
僕は深呼吸をしたあとで、ドアを開けた。

そんな気はしていたのだけれど、佐々木さんの部屋はゴミで溢れていた。
いつだったか、「元気なやつほどゴミ屋敷あるある」と佐々木さんが言っていたのを、僕は思い出した。
あれは自分自身のことだったのかもしれない。
もう一人の同僚と部屋を片付けながら、僕は不思議な予感がした。
知っているものを見ているような気がするのだ。

「うぉ、なんだこれ」と同僚が言った。
同僚が手に持ったペットボトルには、切った爪が納められていた。
「ちょ、ちょっと待ってもらっていいですか」と、僕は同僚に言った。
僕は記憶を探りながら、部屋を眺めた。
時代外れのゲーム機、テキーラのボトル、爪、場違いな育児用品、灰皿にされていたおりん、さすがにうんこはなかったけれど、それらは佐々木さんが僕に話してくれた「いやな現場」にあったものだった。
僕はしばらくの間、うまく呼吸ができなかった。

佐々木さんがどうしてそんなことをしていたのかは、今となってはわからない。
この世界の「負」のようなものに囚われてしまっていたのかもしれない。
「優しくなりすぎるなよ」と、いつだか佐々木さんは僕に言った。
あれはもしかすると、自分自身に対して言っていたのかもしれない。
そろそろ休憩時間が終わるけれど、僕は立ち上がる気になれなかった。
もう一本だけ、と、僕は佐々木さんのジッポーでタバコに火を点けた。
壁にもたれて空を見上げると、鳥がどこかへ向かって飛んでいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?