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【小説】花【2000字ジャスト】

時すでに私は発狂していた。
私はそう思うのだけれど、それは誰が決めるのだろう。
周囲が決めるのか、私が申告するのか、医師が診断するのか。
レッテルを誰が貼るかの違いしかないように思える。
ならば私にレッテルを貼るのは私だけでありたい。
誰かの評価など、控えめに言ってクソうるせぇと私は申し上げたい。
この世界には私と彼しか存在しないのだ。

道端に咲いている花の名前を、彼は知っていた。
私が囚われるにはそれが十分な理由だった。
「本を読めば誰でも知ってるっすよ」と彼は言った。
私の知っている「誰でも」には、該当する者は居なかった。
こいつを手に入れなければ後悔すると、私の遺伝子が叫んでいた。
もう少し具体的に述べるならば、私はムラついていた。

季節の移り変わりがどうだったかなどという事についてはまるで覚えていない。
私の季節はいつも彼だった。
クソキモいと思われるかもしれないけれど、私は彼の変化でしか季節の移り変わりを感じ取ることができなかった。
彼が寒いと言えば冬なのだし、彼が暑いと言えば夏だった。
たとえば今日は暑かった。
彼が暑いと言ったからだ。
私は必死で相槌を打ったし、彼の季節感にそぐわなければ翌日には服装を変えた。
いや、私は嘘をついた。
その日の夜には春物の服をクローゼットにブチ込み、必死で夏物のコーディネートを考えた。
だからその日の夜には私は夏になった。
彼が言う通りの夏に。

彼はきっと私の夏服に気付いてくれる。
なにも言わなくても、きっと心の中では気付いている。
彼は粋なのだ。
無粋に言葉にしたりしない。
私がその感性に気付かなくてはいけない。
私はもっとアンテナを高くしないといけない。

彼の座る席はいつも決まっていた。
男友達といるときは窓際の大きめのテーブルの北側のはじの席だったし、ある講義の知り合いが少ない時間のあとなら入口から二番目のテーブルの右はじだったし、予定外の補習がある日なら中庭のベンチでサンドイッチを食べていた。
私はごく控えめにその光景を視界のはじに入れる事しかできなかった。

私は発狂していた。
私と彼以外の世界が狂っているというのに、それがまともだと世界が言い張るからだ。
それならば私は狂っている側でいい。
基準点はいつもマジョリティが決めるのだ。
そんな「まとも」になんて、私はなりたくはない。
なぜなら彼は花の名前を私に教えてくれた。

中庭を通っていると、彼が向こうから歩いてくるのが見えた。
私は元気なふりをした。
「おー、暑いね」と彼は言った。
ならば今日は暑いのだろう。
「こんな暑いのに学校来てえらい。100点」と私は言った。
「100点もらった!帰れる!」と彼は言った。
「まだ講義あるから学校いるんでしょ」
「ばななだからわかんないっす」
「暑いとIQバナナになるよね」
「うん!」
「うん!じゃない。授業出なね」
彼は弟のような笑顔で歩いて行った。
彼はバナナの花についても知っているのだろうな、と私は思った。

彼が学校からいなくなったのは、夏の終わりの頃だった。
断片的な情報を集めても、それは噂以上のものではなかった。
私はひどく動揺した。
私は間違った会話をしたのかもしれない。
私は気付くべきことに気付いていなかったのかもしれない。
私はかけてあげるべき言葉を見つけられなかったのかもしれない。
私は彼についてなにも知らなかった。
私は彼の花になれなかった。

彼のアパートには、かろうじて電気が灯っていた。
よかった、と私は思った。
電気メーターを見てみたけれど、それは確かに回転していた。
よかった、と私は思っていていいのだろうか。
それは彼の存在証明ではない。
あくまで彼が契約していたアパートの一室に電気が流れているというだけでしかない。
私は彼のアパートのドアの郵便受けのフタを開けて、匂いを嗅いでみた。
そこからはいつもの彼の部屋のお香の匂いがした。
その香りを嗅いで、私は涙が出るほど安心した。
彼の死臭を嗅がずに済んだことに。
それでも彼のアパートの照明が薄暗いことだけは、少し不安が残った。
元気がないのだろうか。

私は彼の携帯電話の番号を知らない。
正確に言うなら、知ろうとしなかった。
それはなんだか間違っているような気がしたからだ。
彼の花になるならば、無粋な電子機器なんかで繋がりたくはない。
それでも、と私は思った。
彼は苦しんでいて、救いを求めているのかもしれない。
無粋な電子機器で救いを待っているのかもしれない。

私が手に入れた連絡先は、よくわからない返事を返してきた。
「単位かんぜんに落としたっす!」
「全教科落としたわけじゃないでしょ?笑」
「来年から本気出します!」
「私は返信が出来なかった。どういうことなのだろう。私は来年には学校に居ないのだ」
「え、なに、なんすか」
「私は確かに彼の花になるはずだったのだ。それは私の宿命ですらあった」
「先輩?」
「その小説のようなものは、次の文章で締められている。「私と彼は美しい花になった」」


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