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【小説】私が夏になる【2000字ジャスト】

耳を塞ごうかと思ったけれど、よく考えてみればとくになにかの音がするわけではなかった。
止まらない汗、ファンデーションの滝、水分は補給したかな、えっいま私臭くないよね、帰りたい、気温何度だよ、隠す気のない丸出しの太陽、日焼けしたくない、帰ってシャワー浴びたい、ビール冷やしてたかな、帰りたい、はやく帰ってシャワー浴びて半裸でビール飲みたい、営業所に戻って伝票整理してるうちになんとなく涼しくなってしまいたくない、このイライラを保ったままアパートに帰って一気に発散させたい、帰りたい。
夏が騒がしく感じるのは、不快感と欲求が多すぎるせいなのだろう。
たとえそうだとしても、私はイヤホンで耳を塞いだ。
外部の音から遮断するためではなく、私の中のノイズから私を守るために。

夏はすべてが浮かれているようなイメージがあるけれど、夏にだってしっかり憂鬱は存在する。
少なくとも私の中には存在する。
誰もがひと夏の恋をしようとそわそわしているわけではないし、誰もがパーティーのために生きているピーポーなわけではないし、誰もがEDMを大音量で流しながら海辺で肉を焼いているわけではない。
帰りたい。

営業所には、夏の繁忙期のために何人かのアルバイトが補充されていた。
上の人間はなにを考えているのだろう、と毎年のように思う。
繁忙期の寸前で補充されたって困るのだ。
仕事を覚えてもらう期間を考慮して余裕をもって補充してほしい、と進言したところで、「じゃあその期間の時給はキミが払ってくれる?」などと言われるのがオチだ。
そして私がアルバイトの女の子に「ごめんね、一気にいろいろ教えられても意味わかんないよね。必要最低限のことしか教えてあげられなくてごめんね」などと謝ることになるのだ。
例によって今年のアルバイトの女の子は素直な良い子なので「大丈夫です!がんばって覚えます!」などと涙が出るような返事をしてくれるのだ。
私は心の中で「(ごめんね。あとで本社を爆破しておくね)」と呟いた。
帰りたい。

休日の昼、私はいつも通りビールを冷蔵庫から取り出した。
いろんなことがどうでもいいこの世界だけれど、ビールだけはこだわりを持って好きな銘柄を飲むことにしていた。
そして私は、うっかり「帰りたい」と言いながらビールを開けてしまった。
最近、家に居るときでも「帰りたい」と思うようになってきた。
いったいこれ以上どこへ帰るというのだろう。
余計なことを考えそうになったので、私は頭を振ってからビールを飲んだ。
テレビでは、誰かが誰かを悲しませようとするためのニュースが流れていた。
私はテレビを消してから、いかにも暑そうな窓の外を眺めた。

悲しいニュースで悲しまずにすむように、私が電源を切ったとしても、どこかの悲しみが消えてなくなるわけではない。
そんなことはわかっている。
わかっているけれど、申し訳ないけれど、私は私の悲しみをどうにかしないことには、どこかの誰かの悲しみについて悲しむことはできないのだ。
セミが鳴いていた。
その声を私の中のなにかに例えてみようかと思ったけれど、セミは私のために鳴いているわけではなかった。

ある日、スーパーでの買い物をカゴから袋に移していると、背後から「お疲れ様です!」という声が聞こえてきた。
反射的に帰りたくなった私が恐る恐る振り返ると、そこにはアルバイトの女の子がいた。
「焦った……上司に遭遇したかと思った……」と私は言った。
「あっごめんなさい!」
「いや、違う。君だったからぜんぜん良かった」
「プライベートで上司の人に会うのとかイヤですよねー」
「ね。買い物?」と私は聞いてみた。
「はい。っていってもお酒とおつまみばっかりしか買ってないですけど」
「お酒好きなんだ。いいね」
彼女の会計済みのカゴには、たこわさと、バタピーと、第三のビールが入っていた。
この子は若いのに割とガチめに飲むタイプなのだな、と私は思った。
「ちゃんと食べないとだめだよ、って言おうと思ったけど、あたしも似たようなもんだわ」
「先輩もお酒好きなんですね」
「ビールばっかりだけどね。そうだ、これをあげよう」
そう言って私は、自分のレジ袋からビールを数本、彼女のカゴに移した。
「え!いいんですか!」
「あたしが好きなビール。飲んでみて」
「なんか英語だ!」
「英語じゃなくてドイツ語なんだけどね」
「はじめてです!」と言って、彼女は笑った。

帰り道で、私は自分がわくわくしていることに気が付いた。
そしてなぜだか、あのアルバイトの女の子と暮らせたら楽しいだろうな、と思った。
それはきっと、今までとは違う「帰りたい」になるのだろう。
今ならEDMで踊ってもいいような気がした。
私はなにを浮かれているのだろう。
まるで夏じゃないか。
いくつかの言葉で私は私を抑え込もうとしたのだけれど、結局は諦めた。
だって私はこれからアパートに帰って、彼女と同じビールを飲むのだ。
ふと顔を上げると、世界は夏だった。

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