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小説:ぼくらの時代

すりガラスの向こうの景色のように、どうしてもうまく言葉にできない感覚がある。
なんかこう…と、私はその先に進めず、言葉に詰まる。
続きを待つ相手に、私は申し訳なさそうに「やっぱなんでもない」と言う。
それがなんらかの感覚であるということだけはわかる。
でもそれが触覚なのか嗅覚なのか、私にはそれすらわからない。
思い出さないほうがいいということなのかな、と、私はいつも諦める。
しかしそれは、たったひとつの音によってある日突然蘇り、記憶の濁流となって私を飲み込んだ。

不本意な合コンへの無言の抗議として、私はキチガイのような飲み方をした。
ピッチャーを抱きかかえストローでビールを飲む私の姿を見て、最初のうちは皆が笑った。
体を張った冗談だと思ったのだろう。
しかし私は無言で飲み続けた。
幸い、5分もすると皆は私を存在しないものとして扱ってくれるようになった。
主催者の女はもう私を人数合わせで呼ぶことはないだろう。
私は狂った蝶のようにビールを飲み続けた。

私が虹のようなゲロを吐いていると、トイレのドアをノックする音が聞こえた。
「大丈夫?」と、ドアの向こうの知らない声が言った。
「イェーイ」と私は答えた。イェーイじゃない、と私は思った。
「イェーイじゃない」と、ドアが言った。
「鍵開けられる?」
「開けたくないです」
「開けられるかどうか」
「開けられます」
「じゃあ開けて」と、ぴしゃりとした声でドアは言った。
私は便器の上空から顔を外さないようにしながら、手探りで個室の鍵を開けた。
「オレンジジュースとポカリ、どっち吐きたい?」と、彼女は言った。
「ポカリ」と私が答えると、彼女がポカリスエットのふたを開けて私に渡した。
私はそれをひと口飲むと同時に、飲んだ倍の量を便器に吐いた。
「うがいくらいのスピードだったね、今」と、彼女は笑った。
私も笑った。

トレンディドラマというものを私は見たことがないけれど、目が覚めて最初に抱いた感想は「トレンディドラマみたいな部屋だな」というものだった。
脱ぎ散らかした服もない。読み散らかした本もない。飲み散らかした空き缶もない。
私の汚い部屋と違って、怠惰の煮つけのような香ばしい匂いのする毛布ではない。
「おはよう」と彼女が言った。私は隠れるように、花のような匂いの毛布に顔をうずめた。
「私、ごめんなさい」と、私はよくわからない言葉を口にした。
「なんか欲しいものある?」と彼女が言った。
私は「愛」と答えそうになった。
もちろんそんなことはしなかった。
これ以上状況を困難にしたくない。

彼女は、昨日の合コンに途中から参加したそうだ。
私の記憶がすでに失われ始めた頃だ。
「なんかやべぇのいるなって思ってね。あたしひとりで笑ってた」
「最悪ですね、私」
「おもしろかったから大丈夫」と、彼女は言った。
そのとき、目覚ましの音が鳴った。

ずっとなにかが足りないような気持ちで生きてきた。
もどかしさ、フラストレーション、センチメンタリズム、さみしさ、いろいろな言葉を照らし合わせてみたのだけれど、そのどれもがすこしだけ間違っているようだった。
思い出せないのか、そもそも初めからそんなものはないのか、私はいつの間にかその正体のわからない感覚から目を逸らすようになっていた。

「え、え、どうした?大丈夫?」と、彼女が言った。
私は声を上げて泣いていた。
「どうしたの?大丈夫だよ、いや、よくわかんないけど」
「ちがう、ちがうんです」と、私は辛うじて言葉を発した。
「いや、泣いても大丈夫だよ。落ち着いてからでいいからね」と彼女は言った。

「私、小さい頃に母親がいなくなったんです。だから、ほとんど覚えてないんです、母親のこと。写真を見てもピンと来ないし、まぁ、べつに母親なんていなくてもいいやって」
キッチンでコーヒーを淹れている彼女は、「うん」と短い返事をした。
「覚えてないなら思い入れもないだろうし、この先も思い出す必要もないかなって」
インスタントでも缶でもないコーヒーの香りを店以外で嗅いだのははじめてだった。
「目覚ましの音が、母親の使ってた古い目覚まし時計と同じで」
「うちの?」と彼女が言った。
「はい」
「そっか。アンティークに近いくらい古いからね。音を聞く機会もなかったかもね」
「私、小さい頃にこの音で、お母さんと一緒に起きてたって」
「うん」
「それで、急にいろんな記憶が」
「うん」
「私、お母さんのこと覚えてたんだって」
「この時計、いる?」
「いえ、大丈夫です。持っていたいわけではないです、たぶん」
「じゃあ、いつでも聞きに来な」
「あ、それは嬉しいです」と、私は言った。

私たちはそれからいろいろな話をしたのだけれど、お互いの名前も知らないことに気付いたのはしばらくしてからだった。
私たちは笑った。
ずっと昔から彼女のことを知っていたような気がした。
私は、自分がこんなに話したいことがあったのかと驚くほどに話をした。
話したい相手がいなかっただけなのかもしれない。
「世の中おかしくないですか?それともおかしいのは私?もうわかんないです」と、私は言った。
「世の中がおかしくなかった時代なんて、ただの一度もなかったよ」と、彼女は答えた。
「とはいえ、だから安心しろと言いたいわけでもない。嘆いて、気晴らしして、がっかりして、期待して、そうやってすこしづつ時間を積み重ねていくしかないんじゃないかな、と思う。あたしはね」
彼女はそう言うと、ぬるくなったコーヒーをスプーンで混ぜた。
どこか悲しそうに見えたけれど、それはたぶん気のせいだ。
なぜなら私たちは悲しい話なんてひとつもしていない。たぶん。

結局のところ、私がとりもどしたその感覚がなんという名前のものなのかはわからない。
それでも、呼び名がそれほど重要なものでないということを知ることができた。
それだけでじゅうぶんだった。
名前も知らない感覚と生きていくことは、思ったよりも怖くないのだ。たぶん。


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