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小説:イエスタディ【2000字ジャスト】

僕が生まれた年に生産されたそのバイクを、僕は二十歳の誕生日に手に入れた。
結婚することになった先輩がバイクを手放すのと、先輩のバイクが欲しかった僕の誕生日が同じタイミングでやってきた。
「俺だと思って、大切にしてね」と、先輩はいつもの冗談を言うときの笑顔で言った。
「なに言ってるんですか」
僕はあくまで冷たそうに言ったけれど、言葉にできない感情が溢れそうになるのを抑え込むのに必死だった。
大切にするに決まってるじゃないか。

空冷単気筒のドポドポとした牧歌的な音は、僕をどこへでも連れて行ってくれるような気がした。
暇さえあれば走った。
暇がなくても走った。
いや、暇がない時こそ走らなければいけないように思えた。
走り続けないと、ドロドロした黒い雲が体にまとわりついて、いつしか暗闇に引きずり込まれてしまう。
僕はそれを必死で振り払った。
フラストレーションに名前を付けるのが嫌だった。
イライラにラベルを貼ったら、急に恥ずかしくなるのだろうなという予感がした。
イライラしたままで居たかったのかもしれない。

アルバイトが三連休になった9月の朝、海が見たいと思った。
空はとても高く、宇宙を薄めたような青だった。
初秋の風をかき分けて進むことだけが正しさのように思えた。
ムカつく世界への呪いの言葉は、僕の代わりにマフラーが吐き出してくれた。

誰もいない海水浴場の駐車場にバイクを停め、コンクリートの階段に腰掛けてしばらく海を眺めて気が付いた。
海が見たかったんじゃなくて「海が見たい」をしたかったんだな。
僕は急にしらけてしまって、バイクに跨り、キックスターターを蹴った。
しかし、エンジンはかからなかった。
チョークを引いて再びキックしてみたが、かからない。
しばらくキックスターターを蹴り続けた。
夏が過ぎたとはいえ、日差しはまだ存在感が強く、僕はあっという間に汗だくになり、血圧が上がった。

僕はバイクの横に座り込んで、海を眺めた。
今度こそ本当に海を眺めたい気持ちで海を眺めた。
イヤホンでビートルズを聴きながら海を睨んでいると、バイクが近づいてくる音がしたような気がした。
イヤホンを外して振り返ると、おっさんが話しかけてきた。
「なつかしいバイク乗ってんねぇ」
「あっ、ありがとうございます」
「ファイナルエディションだよね」
「そうですそうです」
「俺も発売した時買おうか迷ったんだよ。良い趣味してんね」
そう言ったおっさんは、ある希少なバイクに乗っていた。
見たところすべて純正状態を維持している。
ということは600万円くらいだろうか。
いや、それでも足りないかもしれない。
僕は軽く眩暈がした。
「このバイク、僕の誕生年と同じやつなんです」
「それはアツいねぇ」
「ありがとうございます。でもちょっと、エンジンかからなくなっちゃって」
「ありゃ。ちょっと見ていい?」
おっさんは僕のバイクを一通り確かめた。
「エアじゃない、ガスじゃない、火かな。ちょっとプラグ外してみる?」
「プラグレンチ持ってきてなくて」
「大丈夫、俺持ってるよ」
おっさんはプラグを外して、
「やっぱカブってた。燃調濃いかも」
と言いながら真鍮ブラシで掃除した。
僕がキックしてみると、エンジンは再びかかった。

「君みたいな若い子が古いバイク好きだと嬉しいな。もし暇だったら、コーヒーショップに行って話さない?奢るよ」
とおっさんは言った。
「行ってみたいです」
と僕は答えた。

僕とおっさんは、コーヒーショップのリラックスした空気の中でいろいろな話をした。
というより、ほとんど僕が話をした。
高校を卒業してからなにもやりたいことが見つからないこと、社会に漠然とした不満があること、父親がいないこと、童貞なこと、自分が同性愛者なのかわからないこと。
「昔の時代はもっと自由で楽しかったんでしょうね。生まれる時代が悪かったのかもしれないです」
すこし沈黙があったあと、おっさんが言った。
「俺が若い頃さ、運動会のバトンが2メートルあったんだ」
僕は冗談だと思って笑った。
おっさんも笑ったが、僕はその目を見てそれがただの冗談ではないことに気付いた。
「嫌な時代だったよ。世界中が疑いあってて、誰かの責任にしたがってた。分断を恐れる人、ただ祈る人、誰かを殴る人、いろんな形をした不安があった。息苦しかったのは、決してマスクをしてたせいだけじゃなかったと思う」
僕は言葉を探したけれど、少なくとも手の届く範囲にはなにも見当たらなかった。
「こんな話をされても、なんて言っていいかわからないよね。俺だっていまだに上手くまとめられない」
僕とおっさんの煙草は消えかかっていて、二人で一緒に灰皿に突っ込んで消した。
おっさんは言った。
「ただひとつ、昨日が来るのを待っているような生き方をしちゃいけないんだ」

それから僕は、おっさん改め社長の会社で働き始めた。
僕は命がけで大人にならなくちゃいけない。
いつかやってくる、誰かのプラグを掃除する日のために。

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