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小説:クロムレイン 【2000字ジャスト】

夏が始まろうとしていたけれど、私はすでに夏の終わりのことを考えていた。
なぜなのかはわからない。
いつからなのかも思い出せない。
とはいえ、皆と楽しげに夏の過ごし方について話すことはできる。
それどころか、誰よりも楽しげにわくわくすることすらできる。
友人たちの間では、私はオプティミストとして認識されていた。
誰も私の中で鳴いているヒグラシのことなんて知らずに。

ときどき、どうしようもなく眠れない夜がある。
不安も苛立ちもない。
昼寝をしすぎたわけでもない。
カフェインを摂り過ぎたわけでもない。
なにかを忘れているような気持ちだけがある。
そんな夜に、私はただ「明日はぼーっとしてしまうんだろうな」とだけ思う。

小さな頃、私にとって夏は永遠だった。
毎日がハレであり、毎日が祭だった。
強い日差しが作り出すコントラストは現実感を奪い、シンシンとした耳鳴りがいつまでも耳の奥で続いていた。
その多幸感は、永遠に続くべきものだった。

どこかで電話のベルが鳴った。
それが現実なのか夢なのか、寝不足の頭では判断ができなかった。
どちらにしろ、出るつもりはなかった。
良い知らせで電話が鳴ったことなんて、ただの一度もないから。
時計を見ると、そろそろアルバイトに行かなければいけない時間だった。

一雨ごとにというのは春だったかな、と思いながら、私は鉛色の空を見上げた。
傘が必要かどうかは迷うけれど、上着は確かに必要そうな気温だった。
「あれ?今日シフト入ってた?」と、事務所に入るなり先輩が言った。
「えっあたしやっちゃいました?」と、私は壁のシフト表に目をやった。
「お、やってんねぇ」と、先輩がシフトを確認しながら言った。
「ほんとだ…うわぁ…」
「あたしがシフト組んだから、なんとなくは覚えてたんだよね」
「へこむ…寒い思いしながら来たのに…」
「今日寒いよね。なんか飲んで帰る?それとも仕事してく?」
「うーん…帰ります。寝不足なんで」
「寝不足なのに来たのか。休んでもいいのに」
「いやぁ」
「身内に不幸がありまくったとか言えば上もなんも言わないっしょ」
身内に不幸?と私は思った。
なぜだかその言葉の意味が、一瞬では理解できなかった。

店内の空席で先輩が淹れてくれたカプチーノを飲みながら、私は今朝の電話のことを考えていた。
あれは電子音ではなかった。
物理的なベルが鳴る音だった。
ならばなおさら電話に出る必要なんてない。
うちには固定電話も、ましてや黒電話なんてものも無いのだから。
あれは断片的な夢のようなものだったのだろう。
どこかでヒグラシが鳴いていた。

「気を付けて帰りなね」と先輩が言った。
「ごちそうさまでした」と私は言った。
「迷子にならないようにね」と先輩は言った。
冗談だったのだろうけれど、私はうまく答えられなかった。

私はアルバイト先からアパートへ向かって歩きながら、また電話のことを考えていた。
あの電話が夢だったと証明することはできるだろうか。
今が夢でないと証明できるだろうか。
頬をつねって痛ければ現実だと言うけれど、その痛みを認識しているのは夢を見ているのと同じ脳なのだ。
痛みと夢はなにが違うのだろう。
気が付くと私は夕暮れの田んぼ道を歩いていて、目の前には少女がいた。

少女は、私を警戒していた。
夕暮れの田んぼ道で見知らぬ女に鉢合わせたら、私でも警戒するだろうと思った。
ましてやその女は、頬をつねりながら歩いてきたのだ。
「どうしたの?」と声をかけようかと思ったけれど、どうしたのと聞きたいのは少女のほうなのではないかと思い、「こんにちは」と声をかけてみた。
「こんにちは」と少女は答えた。

私は少女と草の上に腰掛けた。
耳鳴りのようなヒグラシの鳴き声の中で、その子はぽつりぽつりと話し始めた。
「家にいたくないんだ」
「でもお父さんとお母さん、心配してるんじゃないかな」
「知らない」
「好きじゃないの?」
「違う」
「違う?」
「おばあちゃんが死んだの」
「そっか」
「ずーっと生きてるって言ったのに」
「そっか」
「家にいるの、なんかこわい」
「うん」
「おばあちゃん、病院から帰ってくるって言ったのに」
「うん」
「あーあ」
「死んじゃったんだね」
「そうなんだって」
「そっか」
「電話で言ってた」
「うん」
「おばあちゃんのスイカ、もう食べれないんだな」
「おばあちゃんのスイカ、おいしかったね」

気が付くと、私はアスファルトの上に立ち尽くしていた。
雨が降っていた。
雨が降ってよかった。
顔を拭う必要がない。

あの子はずっと夕暮れの田んぼ道に立っていたのだろうか。
これからもずっと、長い影に追われながらとぼとぼと歩き続けるのだろうか。
夏の終わりも、祖母の死も受け入れられないままで。
「あなたもいつか誰かのおばあちゃんになるよ」と言ってあげればよかっただろうか。
私は鉛色の空を見上げた。
もっと雨が降ればいいと思った。

金属のように、冷たく、硬い雨に打たれながら、
私はあの子の行く空が晴れていることを願った。

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