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挫折が人を強くする…はずである【高校受験・後編】

さて、ニスイ高校を目指す私をはじめ、上位の高校を受験する生徒が併願する私立高といえば、星稜高校と相場が決まっていた。(かつての)甲子園常連校でメジャーリーガーも輩出した、あの高校である。県内での私立の雄で、スポーツなどの一芸で嘱望され推薦で入る生徒や中学から上がってくる生徒もいたが、やはり県立至上主義の社会では”滑り止め”の色合いも強かった。星稜は、悔し涙を飲み回生を期す生徒が集まる、マンモス校でもあった。

とはいえ、県内私立のトップ校、もしもということもある。私立の入試は公立より前の日程だから、万が一星稜に落ちるということになれば、県立のレベルを遥か下まで下げねばならない屈辱が待っている。が、私はそれでも、ただ漠然と、当たり前のように「星稜+二水」のセットで受けるつもりでいた。どちらも安心できる状態ではなかったが。

そんな折、母が私に声をかけた。

「もちろん、二水には行ってほしいよ。でも、もしもの時に、星稜みたいなマンモス校で埋もれてもいいんか? 英語が得意なんやから、ミッションの英語科受けたほうがいいんじゃない?」

ミッションとは、キリスト教系”お嬢様学校”・北陸学院のことだ。今でこそ共学の進学校になったが、当時は女子校で、昔から”お金持ちの○カ娘”や、時代によっては”○ンキーが集まる学校"とも言われていた。金沢最古の学校で伝統はあるものの、名門だという認識は当時の私にはなかった。小学校の時、友人のお母さんがミッションの卒業生だと知ってバカにしてしまったこともある(本当にごめんなさい)。

しかし、「ミッション、の、英語科」となれば話は別だった(厳密には普通科英語コース、通称「英語科」)。 かつての私のように「ミッション」と聞いて怪訝な表情を浮かべる人も、「の、英語科」と聞けば、一気に感心の色に変わった。偏差値的にも普通科とは一線を画する(英語科と普通科を併願して普通科しか受からない子もいた)。 長期・短期の海外留学制度も充実しているし、成績が良ければ県外の有名名門校の指定校推薦も受けられる。なにより、「私立のお嬢様学校」であることに変わりはない。のんびりおっとり、かつ規律のある校風である。しかも、制服が群を抜いて可愛い(セーラームーンを想像していただくとよい)。 そして、立地が良い。星稜がサクラと同じ郊外なのに対して、ミッションからは歩いてでもマチへ行けるのだ。


ミッションの英語科には無事受かり、全日制の高校生になれることは確定した。それで気が抜けてしまったのかもしれない。県立入試の直前、どこでもらってきたのか皆目見当もつかないが、「溶連菌感染症」なるものに感染した。後から占術の本を見たら、この頃から十数年間の不運期に入っていたらしかった。
当時流行っていた『スラムダンク』に激ハマりしてしまい、受験勉強するフリをして夜な夜な流川くんの勇姿を眺めていた日々による体力低下が一因であろうことには、大人になってから気づくという鈍さ加減だったのだが。それまでは受験生の妹を尻目にそんな楽しいものを買ってきた姉のせいにしていた(ゴメン)

見事な診断をしてくれたかかりつけの小児科医に無理を言って、出来る限りの注射や投薬をしてもらった。なんとか受験会場へは行けたが、朦朧としていたのか、苦手の数学の試験に必須のコンパスを忘れるという失態を犯し、応援に来てくれていた塾の先生にその事実を伝える勇気もなかった。さらには、休憩時間に同じ中学から来ていた女の子のお尻を見て動揺してしまった。というのも、当時のニスイは超オンボロ校舎で、トイレの鍵も閉まらない状況だったのである。建て替えは決まっていたが、自分たちの在学中には完成しないという事実を知っていたから、ニスイへのやる気はとっくにダダ下がりだったのかもしれない。しかも、私にお尻を見られた同級生も同じ結果になってしまったから、今でも思い出すと申し訳なく感じてしまう。

かくいうわけで、私は4月から全国でも指折りの可愛いセーラー服に身を包み、お嬢様の仲間入りをした。英語科は各学年に一クラスのみで、「他とは一緒にしないで」という空気がそこはかとなく漂っていたように思う。聞けば、イズミに落ちた、とか、フゾク(別格の国立・金沢大学附属)の上に行けなかった、とか、私と同じような生徒が同じクラスに集まっていた。(この時、どうせならダメ元でニスイより倍率の低いイズミを受けておけばよかった、とも思った) 社会人になってから「ニスイの併願にミッションなんて、そんなヤツいんの?笑」とバカにされたことがあったが、実際ここにいるし、いくら妹さんを進学させるためとはいえ男性でサクラの高卒ごときに言われたくないわ、と心の中で毒づいた。同僚に「ミッション~?笑」とこれまたバカにされたが、人の前職(学習塾勤務)まで意味なくバカにするようなニシキ→県立大学→ずっと非正規職員ふぜいの勘違いオメデタ女に言われたくないわ、とこれまた毒づいた。(各学校や各人の経歴自体を悪く思っているわけではありません。念のため)

高校当時は悔しさのあまりなるべく避けていたが、大人になってニスイ出身者が周囲に増えはじめ、そのたびに心の中で舌打ちをしたり実際に音が出てしまうことがあった気もする。でも、あのままニスイに入っていたら私はとっくに潰れていたと思うし、順風に難関大学に入っていたら、それこそ今よりはるかに嫌なオンナになっていたに違いない。

あの時、私は母から「鶏口となるも牛後となるなかれ」を教わった気がする。それを地で行くかのように、高校2年に上がる際に生徒会長に立候補した。20票差で負けたけれども。それでも「皆さん、”自由”の意味を履き違えてはなりません」ではじまり、全校生徒と先生方をシーンとさせた私の立候補演説に共感してくださった先輩方の推薦で、生徒会執行部のメンバーとして充実した高校ライフを送った。母の目は、正しかったのである。

この経験があったからこそ、できない生徒の気持ちがわかり、「先生の授業はわかりやすい」と言ってもらえる塾講師にもなれた。職場の後輩やボランティア仲間から「ふじこさんみたいになりたいので、色々教えてください!」と言われるようにもなった。

挫折は、人を強くする。 はずである。


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