研究者の道をひらくこと

▼はじめに

 僕は考古学が専門分野で、現在の所属大学での仕事は博物館学の担当教員です。今年2021年の4月から大学教員になったばかりで、それまで21年間、地方自治体で文化財行政担当課や博物館の学芸員をしていました。でも、学芸員を目指していたわけではなかったし、子供の頃から遺跡や古墳好きだったわけでもありませんでした。
 長文で恐縮ですが、これから大学で勉強したい人や、人文系の学芸員・研究員・大学教員になりたいと思う人に、何か参考やきっかけになれば幸いです。

▼本ばかり読んでいた幼児・少年時代

 僕は幼児期に大きな病気を患い入退院を繰り返し、医師から絶対安静とされ運動することを一切禁止されていた。病気になる前から母はよく本の読み聞かせをしてくれ、入院生活になってからはますますそれが楽しみだった。それもあって、幼児期以来ずっと本を読むのが大好きだった。小学校の頃には家にあった小中学生向けの世界文学全集、大人向けの日本文学全集をほとんど全部読み、土日は図書館に両親と本を借りに行った。中学・高校時代も親がくれるお小遣いの大半は文庫本を買うのに使った。近所の本屋さんであてもなくいろんな本を見ているだけで何時間もいられた。
 外で走り回って遊べない幼児期だったので運動能力の発達が極端に遅く、小学生時代も外で遊ぶのは苦手だった。本は想像力や知識だけでなく、いろいろな世界の広さを知る視野を教えてくれた。そのなかでも、文学、小説、歴史など、文化関係のことに特に興味を惹かれた。文学や物語・小説を読んでいると、頭の中に自然と風景や場面が見えるように浮かんできた。想像するいろいろな国々や地域の姿にとてもわくわくした。とくに中国の文化や歴史や風景に興味をもった。漢字が大好きで、小学生のときも宿題の日記などを書くとき、何年も先でないと習わない漢字を自分で調べて書いていた。
 ちなみに、小学生の頃に将来なりたかった職業は薬剤師だったが、深い意味はなかった。薬屋さんにいくといろんな色や柄のパッケージの薬が並んでいてきれいだと思ったのがきっかけで、調剤薬局ではたくさんの種類の薬を調合して症状に合わせた薬を作れることがすごいとおもった。母が、薬屋さんは大学の薬学部で勉強して薬剤師という職業になった人だと教えてくれたので、じゃあそうしようかなと思った。

▼考古学を勉強しようとおもった

 中学2年のとき社会科の先生が授業中の雑談で、戦国時代なんかは文字史料がいっぱいある時代だからわかることも多いけど、その点古代はわからないことだらけだから、研究するなら古代が絶対おもしろい、と言った。自分が読んできた本を思い出すと、そう言われてみればそうだなとおもい、将来は大学でこれを勉強しようとおもった。薬剤師は、自分は数学が不得意だったので無理だなとおもったせいもある。
 高校生の頃には大学で考古学を勉強するつもりになっていたが、考古学の概説本も読んだことはないし、博物館にも学校行事以外では行ったことがなかった。当然、考古学がどんな学問なのかも、古代が対象で遺跡や出土品を扱うという程度の認識で、よく知らなかった。

▼考古学の専攻に入れなかったけど

 思い込みのまま考古学を勉強する前提で志望校を選んで大学受験をし、結果的に、東京にあるW大学に入学した。W大学は文学部という枠で入学し、2年生に進級する際に1年生のときの語学・一般教養の成績の良い人から自分が選んだ専攻に進める方式だった。当時の考古学専攻はとても小規模で狭き門だったが、たぶんなんとかなるんだとタカをくくってサークルや友達付き合いに熱中した。でも実は考古学専攻は成績が全部「優」であるぐらいじゃないと入れない専攻だった。当然、進級選考に落ちた。それで、子供の頃から中国の文化や歴史が好きだったのと、専攻の人数枠が大きく入りやすいという安易な気持ちで、中国文学専攻に進んだ。
 でも、考古学を勉強したいと思い込んでいたので、他専攻も履修できる共通選択科目の中から日本考古学や考古学概論を履修した。その初回授業が終わってすぐに教室で担当のO先生に突撃してお願いして、考古学研究室に出入りして「モグリ」で勉強させてもらえることになった。もちろん、自分の専攻の単位修得だけはちゃんとするように言われた。
 それから僕は、授業時間以外は、サークルの部室と考古学研究室で一日を過ごした。ぼんやりと中国の研究がしたかったけど、同級生や先輩に古墳時代を勉強する優秀な人が何人もいて、自分も興味があったので、とりあえず考古学の基礎を身につけるまで古墳時代を勉強することにした。
 中国文学専攻の指導教員は、文学の研究者ではあるけれど中国の考古学や古代文物に造詣の深いI先生だった。I先生は考古学専攻のO先生からも僕の話を聞いていたらしく、卒論を中国の考古学で書きたいと僕が言ったときも快諾してくれた。両先生のもとで、古代の中国や東アジアという現代の感覚を越えた宇宙観やグローバルな社会に対する感性や学問的好奇心を学んだ。I先生とO先生は今も恩師としてお付き合いくださっているが、両先生の懐の深さと視野の大きさ無しに今の僕は無いとおもう。
 大学2年のとき、僕が中学高校の頃にいつも我が家に入り浸っていた兄の親友が東京に遊びに来た。この兄の友人は関西のR大学の考古学専攻に在学していて、その紹介でR大学が毎年夏休みにやっている古墳の発掘調査に参加させてもらえることになった。そして、大学卒業後に大学院に行くとき、そのご縁でR大学の大学院に進むことができた。

▼東アジアと古墳時代にはまり研究者をめざす

 当時R大学の考古学専攻は、古墳時代研究の第一人者として知られたW先生が率い、教員の数も研究対象の時代幅も揃っており、特に古墳時代を研究するなら関西のO大学かR大学と言われるほどだった。W先生の指導を受けて、古墳の本質は何か、葬制・墓制、古墳時代をめぐる東アジアといったテーマがおもしろいとおもった。葬制・墓制は中国の伝承・神話や文学と深い関わりがあったし、古代の朝鮮半島に対する学識の豊富な先生方によってまた視野が広がった。同級生や先輩も、それぞれに自分の研究テーマで優秀な人たちばかりだった。研究室や居酒屋でいつも考古学の議論が絶えず、それが雑談の一部のようなものだった。それが楽しくもあり、自分が知らないことだらけで刺激とショックを受ける毎日だった。指導教員のW先生から「あなたのように他の分野から来た人は、どうしても考古学の基礎が考古学専攻出身の学生よりも弱い。」と言われた。
 僕はW先生の言葉を「だから自分の特色をもっと強化しなさい」という意味に受け止めた(先生の真意は違っていたかもしれない)。ここで、学部生のときに眠らせていた中国を研究したい気持ちがよみがえった。中国の論文や発掘調査報告を読み、古墳時代と比べたりして、当時の僕は同級生や先輩と考古学の話になると何かと中国、中国と言っていた。一方で、古墳の発掘調査に参加したり、古墳見学にもたくさん行ったが、修士論文で扱った資料は古墳の出土品だったが、論じたテーマはかなり東アジア寄りだった。
 修士課程修了後は博士課程に進み中国に留学して、本格的に中国考古学を勉強しようと考えていた。当時の考古学業界は自治体の採用がほぼ皆無で、就職がきわめて困難な暗黒時代だった。みんな就職に焦っているようすで、僕もいつもハッパをかけられていた。しかし、自分は役所の組織や決まりに縛られるのは性に合わないし研究が一番好きだったので、研究者としての進路を進むつもりだった。

▼なぜか地方自治体の学芸員になることに

 修士課程2年生の夏、N市が考古学の学芸員を募集していた。自分が在学するR大学がたまたまN市の地方受験会場になっており、研究室の同級生・先輩たち数人が受験すると聞いたので、安易な気持ちで僕も受けてみることにした。僕は完全に博士課程進学+中国留学のつもりで、このときは将来受けるかもしれない採用試験受験の練習という軽い気持ちでいたので、公務員試験の問題集や模擬試験などを一度も見たこともなかった。受かるはずがないし、受かる気もなかった。それなのに、フタを開けたら一次試験になぜか合格していた。かえって動揺し、どうしようと慌てた。結果、そのN市に学芸員として就職し、結果的にここで21年間を過ごすことになった。

▼博士の学位を取得した

 職制上は「事務職(学芸員)」の地方公務員とはいえ、僕は研究者として生きていく決意なので、職務上の仕事はちゃんとやりつつも、学界のなかで自分のポジションを固められるように学術的活動をしないといけないと自分に課した。学芸員の職務上の仕事をやっているだけで専門家然としたり研究者のような顔をするのはちょっと違うという思いがあるからだ。今後の時代の学芸員は研究者なり専門家なりとしての高度な能力と業績を持ち、その能力によって学芸員としての専門性が裏付けられるようでなくてはいけないとおもっている。
 そんなことを強く意識したちょうど30歳前後の頃、隣県のO市で文化財担当職員をされ、僕よりも10歳以上年上で僕にとって兄でも師でも研究仲間でも飲み友達でもあるNさんが、それまでの研究成果を著書にまとめ博士学位を取った。その著書の原稿準備に際して僕はその挿図作成をほんの少しだがお手伝いし、作業中の雑談のなかで、Nさんも僕と同じような思いを持っていることを知った。
 僕自身はこの頃、発掘調査現場に出る部署から市役所本庁の文化財行政部門に人事異動となり、古墳群の保存整備と国史跡指定の一大プロジェクトの主担当になった。当時は本庁に2人しか配置されない学芸員の1人だったが、ここではかなり大幅に僕に仕事を任せてもらえ、自分の専門知識を大いに発揮して腕を振るうことができた。
 たとえ所属自治体での職務や待遇には関係なくても、これからは地方自治体学芸員にも博士学位はやはり必要で、ましてや自分が将来に教育研究職を目指すなら不可欠だと意志を強くするようになった。О市のNさんからの後押しもあって、博士の学位を取ろうと決意していろいろ準備をした。学位を取ることだけが目的ではなく、アカデミックな環境に身を置く時間が欲しい気持ちがあったので、32歳のとき在職のまま母校の大学院の博士課程に入学した。それから博士課程在学の最大年限である6年間を費やしてようやく博士学位を取った。

▼自分がやりたいことと覚悟や責任感の間で

 博士課程在学中、また人事異動がありこんどは博物館に移った。博士学位を取得した頃には、年齢が30代後半になり職場でもある程度自分のやり方で仕事をしても文句を言われなくなったので、ここで顔の見えない一学芸員として働くのではなく、自分の研究者としての専門性や特色が見えるような仕事をしようと思った。それまではN市職員の学芸員という立場柄、職務上も日本の古墳時代、とくにN市域とその周辺地域の古墳時代に関する活動に徹してきた。しかしここからは、職務上の学芸業務も東アジアや中国に大きくシフトして展示や研究をすることにした。地域にこだわるあまりに視野が矮小化したり、自己実現や行政としての営業成績が重視になったりした博物館活動には賛成できなかった。自分がいるからこそできる、地域内外の人々に伝えられることや楽しんでもらえることを展開していこうとおもった。
 だからこそ、やっぱり研究者としての学芸員を目指さないといけないとおもい、館が所蔵する中国や東アジア関係の資料を、考古資料だけでなく、民間玩具や染織なども引っ張り出して研究し展示や講演をした。なかには館の学芸員が誰も手を着けなかったり、重要性に気づけなかった資料もあり、それらに光を当てたことで新聞記事に取り上げてもらったこともあった。
 また、以前にも増して国内の大学・研究機関に書類を提出し応募した。しかし全部、最初の書類選考の時点で落とされた。40歳のとき結婚しまもなく娘が生まれたし、妻自身もフルタイムの正社員として仕事をしていて容易な判断ではなかったはずだが、それでも僕の大学・研究機関への転職希望を理解し応援してくれた。僕は海外の学会にも参加するようになり知人も増え、国内外で中国魏晋南北朝考古学の研究者として露出に努め、アメリカやドイツに親しい知人ができた。2019年後半に文化庁の海外派遣プログラムに採択されて、中国で2ヶ月半の在外研究の機会を得た。
 そして昨年2020年。中国の先生方から直接・間接を問わず声掛けをいただいたり、自分で飛び込みのコンタクトを取ったりして、中国の大学から4件ほどオファーをもらった。どれも中国では特別な待遇で、日本の政令市の公務員や地方国立大学と同等の年収と充実した福利厚生が得られる条件だった。日本で大学教員になる機会はまったく期待できないし、自分の専門分野は中国なので、とても前向きに行く気満々だった。しかし、家族全員での移住は家族の不安が大きかったので、やむなく断った。秋ごろ、翌2021年度前半までの間にどこの大学にも転職が決まらなかったらN市を辞めて、研究者の道も断念しようと決心した。
 2021年1月初めにこれが最後という諦めを思いながら書類を提出した応募先から、2月末に採用内定の連絡をもらって、これが今の職場になった。今いる大学は、自由に研究や講義ができ、まじめで優秀な学生たちと接し、地域社会と関わる機会もある。とてもいい大学だから、新しいことに挑戦したい学生さんにぜひ来てほしい。

▼おわりに

 こうしてみると、僕はご縁と運に乗っかって楽観的に漂流したような経歴なのかもしれない。キャリアを考えて有利に運ぶように動いたことはなくて、どちらかといえば、順当なキャリアパスに乗っかるわけでもなく、自分が置かれたポジションに応じて自分のやりたいことをやりつつ、自分自身に課題を課しながら仕事と研究活動を楽しんできた。
 居場所の定まらない生き方だが、学生時代から今まで関西、東京、名古屋、南京、台北、九州で本当に多くの人に恵まれた。もしかしたら考古学を学ぶこともそれを仕事にすることもできなかったかもしれないところ、たくさんの人にお世話になったおかげで、今がある。日々、その方々への感謝の気持ちが僕の仕事や研究の原動力になっている。月並みな発言になってしまうが、研究者にせよ学芸員にせよ、人との出会いと繋がりは本当に大事だ。いわゆる人脈ではなく、血の通った温かい人間関係という意味で。
 人文科学(特に考古学)で専門家、研究者になるということは、ある意味ではそれほど難しくない。細かく専門分化した分野の中で何か一つを専攻して知識を深め、いくつかある特定のキャリアパス(成功パターン)に乗っかっていけば、学芸員や研究員になれるチャンスは少なくないし、大学教員になるチャンスもあるだろう。でも、それが自分の思い通りの職業や職場であるとは限らないし、その後の自分にとって良い居場所であるかどうかもわからない。
 僕は子供の頃から本を読んで、人が創造してきた文化や風景、歴史を知り、想像し、好きになった。それらの実物や未知の世界像について、今、自分自身が触れ、解明し、現在に表現する分野に携わっていることは、その世界のど真ん中に自分がいるかのような、ちょっとファンタジーにも似た感覚を覚える。その世界を最大限明らかにして、今と未来の時代の人々に対して具現化するためには、最短ルートではなくて、回り道をしてたくさんの物事に触れ経験するのでいいとおもう。一緒に勉強してくれる人に、僕がいる大学に来てほしい。

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