日本版「民主主義の死に方」

レビツキ―、ジブラット『民主主義の死に方』から考えてみる 

民主主義の死に方』という本をご存知だろうか。ハーバード大学で教える二人の政治学者によるもので、昨年翻訳され、日本でも話題となった。その中で、現在、人権を保障する憲法の下で選挙が定期的に行われ、その選挙で選ばれた国民の代表者が政治を行い、複数のメディアも存在するような国家において、民主主義が後退し、さらに崩壊へと向かいつつあることが指摘されている。ようするに、民主主義をやめるのに、もはや戦車や戒厳令は必要ない、これまで普通の民主国家と考えられてきたところで民主主義が瓦解し始めている、少なくともその兆候があるということだ。

現在、世界を見渡せばそうした国家は、枚挙にいとまがない。この本が書かれたアメリカでも「民主主義が危機にあるのではないか」という疑念を笑い飛ばすことができなくなっている。近代民主主義の母国でさえそれはもはや冗談ではないのだ。

トランプ大統領がアメリカをそうさせたと多くの人は思うだろう。しかし、『民主主義の死に方』によれば、そうではない。その誕生は、1980年代以降にはじまる、アメリカにおける民主主義の衰退の帰結にすぎない。では、この衰退はどうして生じたのか。民主的な憲法や法律によって明文化されていないものの、民主主義を守るために不可欠な規範=ルールが破棄される中で、その衰退が生じた。これが著者たちの言い分だ。つまり、民主主義がうまく機能するには、憲法や裁判所だけでく、不文律の民主主義の規範が必要なのだが、それがなし崩し的に反故にされることで、今のアメリカの民主主義がおかしくなっているというわけだ。

もちろん、これはアメリカの話だ。では、日本の場合はどうだろうか。日本の民主主義の現状は、さらに悪いのではないか。平成最後の国会審議を虚心坦懐に見たら、間違いなくそう思うはずだ。

私たちの民主主義はどのように死につつあるのか

『民主主義の死に方』では、アメリカの民主主義における規範が二つ挙げられている。一つが「相互寛容」であり、もう一つは「組織的自制心」だ。

前者は、自分たちとは立場を異にする政治家や政党を、軽蔑し殲滅すべき「敵」としてではなく、ともに民主的な政治を担う正当なライバルとして認め、尊重する気構えのことを意味する。20世紀に確立される代表制民主主義は、競争的な政党政治の下で権力の循環=政権交代が実現されて初めて正常に機能する。この「相互寛容」がそれを可能にする条件であることは言うまでもない。

後者は、政治権力を掌握した政治家や政党がなりふり構わずあらゆる特権を用いてその権力を維持したり拡大したりすることを控える気構えを意味する。ようするに、たとえ可能だとしても――すなわち、合法であったとしても――、後先のことを考え、仕組み自体をぶっ壊さないよう強硬手段には打って出ないということだ。

相互に関連するこれらの規範が、アメリカの民主主義を支えてきた。ところが、80年代以降、主に共和党がこれらの規範を破り始めることによって、アメリカの民主主義の「ガードレール」は弱められ、結果として、反民主主義的な大統領が誕生することになった。ここで大切なのは、『民主主義の死に方』によると、アメリカ以外の多く国で民主主義が機能しない理由の一端もこれらの規範の消失ないし不在に見ることができる、ということだ。

さて、問題は日本だ。これらの規範は現在の日本の政治で守られているか。残念ながら、とっくにそんな規範は失われ、さらに深刻な事態になっているとも言える。

2012年に発足した第二次安倍政権を例に挙げよう。まず、この政権で公然と反故にされた規範は「組織的自制心」だ。安倍政権は、これまでの政策決定や国会運営において「禁じ手」とされてきた強硬手段をしばしば用いた。その最たる例が、安全保障関連法を憲法改正ではなく、解釈改憲によって成立させ、しかもそのために、内閣法制局長官の人事に異例な形で介入した件だ。また、いわゆる共謀罪もそうだ。反対する野党を出し抜き、「中間報告」という禁じ手によって参院本会での強行採決を行った。これも、そんな昔の話ではない。

では、もう一つの規範「相互寛容」はどうか。第二次安倍政権は、野党を与党と共に日本の代表制度を支える競合的なパートナーとして尊重する姿勢を著しく欠いているように見える。それは、「悪夢のような民主党政権」に代表される、安倍首相本人の数々の発言に如実に表れている。そうだとすれば、「組織的自制心」ほど明白ではないにせよ、この規範も無視されている状況にあるといってよいだろう。

ただ、現在の日本の民主主義の現状は、この二つの規範の反故に終わらないところにその深刻さがある。例えば、厚生労働省および総務省を中心にした統計不正問題。近代の民主国家におけるこの問題のヤバさは、以前にここで書いた通りだ。あるいは最近の例を挙げあるなら、3月6日の参議院予算委員会での内閣法制局長官の国会答弁だ。その答弁で横畠長官は、国会の行政監視機能に関して質問した野党議員の発言を揶揄した。「国民全体の奉仕者」であるべき官僚が、国会という「国権の最高機関」でなされた国民の代表者の発言を評価するなどという越権的な政治行為をしたことになる。

私物化による民主主義の死

これら最近の例からも、この国では民主主義の「ガードレール」の破壊以上のことが生じているといわざるをえない。では、何が起きているかといえば、それは政治の私物化である。

政治の私物化については、以前に少々詳しく説明した。政治の私物化あるいは私物化された政治は、端的に民主主義の否定である。なぜなら、民主主義は、政治の私物化を防ぐために生まれ、そのために試行錯誤を繰り返しつつ制度化されてきたからだ。それは、一部の人間たち――それが哲学者であろうが、金持ちであろうが、専門家であろうが――によるその他の人びとの支配を拒絶する。

一部の人間たちによる政治の支配、すなわち公権力の私物化を防ぐために、民主主義は、全員ないし多数の支配を理念として掲げる。共和主義の言葉を用いれば、それは反‐支配(anti-domination)としての民主主義だ。だから、近代の民主主義を基礎づける人民主権ないし国民主権――シェイエスからすると、それは「すべて」となる――は、誰にも支配されることなく、私物化されることのない政治の理想を表しているのだ。

先に挙げた二つの例を思い起こしてほしい。確かに、統計不正問題は、安倍政権だけ責任を押しつけることのできない、かなり根の深い問題だ。しかし、国会での追及をとおして次第に明らかになっている、毎日勤労統計の作為的な操作による実質賃金の嵩上げについては、少なくとも、安倍政権下での問題だ。かりにこれが事実だとするなら、それは、安倍政権による統計の私物化、統計にもとづいて作られる法律や行政、すなわち政治の私物化だといえよう。また、法制局長官の答弁にしても、現政権と一体化して驕り高ぶる官僚の国民主権への挑戦とも言える。いずれのケースをとってみても、現在の日本では政治の私物化が進んでいることが分かる。ようする、民主主義が、戦車や戒厳令なしに着実に破壊されているわけだ。

しかし、何でこんなことになったのか。それについては、拙著『平成の正体』にその原因の一つが書かれているから参照して欲しい。原因の話はともかく、誰が責任を取るのか。むろん、現政権を積極的にせよ消極的せよ支持し、私物化の蔓延に目を背け続けている国民だ。

民主主義の死に抗うには 

かなり末期的な症状だが、やはり、何もしないわけにはいかない。政治が腐りきっても、日本で暮らす人びとの生活は続く。まずは、政治を私物化する政府には退陣してもらう必要があるのは言うまでもない。

もちろん、安部政権はいずれ終わりを迎える。ただ、それですべてが解決されるわけではない。なぜなら、政治の私物化による民主主義の破壊は、何も安倍政権にはじまったわけではなく、徐々に進行してきたからだ。つまり、安倍政権は、「決められる政治」を目指し内閣に権限を集中させてきた平成の政治改革の帰結だからだ。

そうだとすれば、もっと根本からの変革が必要だ。それは、代表制度の改革に他ならない。現行の代表制度では政治の私物化をもはや防げない。これが私たちの時代の民主主義の不都合な事実であるように思われる。

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