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DaiGoさんの騒動を通して考えるべき問題点について最初から最後まで解説してみました。

〈最初に)

DaiGoさんの騒動が話題となっている。


『ホームレスの命はどうでもいい』


この発言が問題だと感じる人は沢山いるだろう。

しかし
中にはこの発言が具体的にどういう問題なのか?
そこに答えられない人も
また、沢山いるように感じた。

今回のDaiGoさん(以下DAIGO)に対する糾弾は
多くの人が既に発言しているので
この記事では

「何が問題なのか?」

どのように向き合う問題なのか
書いていこうと考える。


問題動画

まずは↑の動画を確認して下さい。
今回の発言がどのように起きたのか?
切り取る形ではなく
まず、その背景も含めて確認していこう。


今回の動画の趣旨は
辛口で悩み相談に答える」
という企画の元DAIGOは発言している。


そのような企画の背景には
このような新刊に向けたPRやセルフブランディングの一貫として発言しているのは間違いない。


ーーー⚠️⚠️⚠️ーーー

一連の流れを理解してる人は
〈何が問題なのか〉から読んで下さい。


ーーー⚠️⚠️⚠️ーーー

〈相談〉

今悩んでいるのは幼い頃、親に言われた「お前のすること全て間違っている」という言葉に囚われているということです。そんな事ないと頑張っていますが、常に頭の片隅で行動にストップがかかってしまいます。忘れることは出来なくても、克服することは出来ないでしょうか?

この悩み相談についてDAIGOはこのように応える。

親が間違っていた(自分が正しかった)ことがあるのか確認しよう。

①自分が全て間違っていることを証明するには、過去全てのその子の行動が間違っていて、尚且つ親の判断が全て正しいことを証明する必要がある。

②(そんな証明されてないだろう)親が間違っていることも沢山あったと思うし(その親の発言はその時点で無効)そもそも幼い子どもにそのような発言すること自体が間違っている(だから親のその言葉はそもそも間違っている)

よって相談者ではなく親がおかしい


このように相手の発言を順序立てて否定している。

「その発言はそもそも正しくないんだよ」
「あなたの問題ではないんだよ」

これは恐らく
アドバイスとして有効だろう。

もう一つ

親の発言がどれぐらいトラウマになってるか分かりませんけど、そんなことないと分かってるのに頭の片隅に残っているのは、要するに相談者にとって

『テイのいい言い訳になってるから』



この指摘はアドラー心理学に通じる指摘となる。

人は過去に縛られているわけではない。
あなたの描く未来があなたを規定しているのだ。
過去の原因は解説になっても『解決』にならない


つまり

トラウマは存在しない
ということを伝えている。
このアドバイスは辛口と評せる内容だろう。

DAIGOはこの二つの観点のアドバイスを
このように締め括る。

親の言葉を理由に行動しないようにしてるか
本当にトラウマになってるどっちかだと思うので
それは別に普通に改善すればいいんじゃないですか


親の発言に対して

「発言自体が問題である」
「自己擁護の言い訳」

このように認知再評価させることを
即座に端的に伝えられるのは

DAIGOが社会的に評価される存在と言える。


ここまでは企画の趣旨としてもズレていないし
辛口アドバイスとして特に問題はないと考える。


しかし

ここからDAIGOは
アドバイスと逸脱した展開を始める…

〈頑張れない人間とは〉

「いじめられたから成功しない」という発言とかってあると思うけど、でも同じ条件で成功してる人なんていくらでもいるからね自分よりも遥かに厳しい環境で成功してる人もいるし、貧しい人でも、障害持ってる人でも成功してる人なんていくらでもいる。理由にならないと思う。「その中でどうするか」を考えるべきであって

言い訳に対する批判理由をここで挙げている。
要するに、「機会はあるはずだ」という
機会平等の思想観を持ち出す。

そして

この雲泥の差はなんで出来るのかというと

ハンデがあって行動しなくなる人
ハンデや制約がある中で工夫する人


に、分かれる。
言い訳にする人と工夫の種にする人がいる。

相談者に向けたアドバイスが、ハンデを軸にした
「頑張れる人間」「頑張れない人間」という
二つの属性をここで区分けするようになる。

それを自分で選べばいいと思うんだけどね。
言い訳に塗れてね、何も行動しない人生が
あってもいいと思うけどね。
日本だと生活保護貰って生きていけるんで。

DAIGOは
そのような行動しない人間は
「言い訳してるだけ」と切り捨てる。

その上で

ハンデがあって行動しなくなる人間
→生活保護で生きてる

という具体的な属性に落とし込む。


まとめると


当たり前であるが、
生活保護になる要因は様々である。
しかし、DAIGOは
生活保護者=言い訳塗れで頑張れなかった者
と、単純化させる。

この話の流れで
なぜ?生活保護を持ち出したのか?
その答えは次で触れられる。


ここで確認しておきたいのは
相談の流れから自身の別の問題意識
繋げているというところである。


〈生活保護と猫〉

僕は生活保護する人にお金を払って生きてない。
生活保護救うお金があるなら
僕は猫を救って欲しいと思うんで

つまり

自分の稼いだ税金の使い道に対する問題意識
生活保護の言及に飛躍させているのだ。

生活保護の人が生きてても僕は得しないけどさ
猫が生きてたら僕は得だからね

税金の使い道について
DAIGOの意識は
自分が得する存在=
自分が得しない存在=生活保護の人

という比較構造を用いて生活保護の価値を語る

猫が道端で伸びてたら可愛いけどさ
ホームレスが伸びてたらさ、なんでコイツ
我が物顔で寝てるんだろうな〜って思うもんね。


生活保護の人と猫を比較する上で
「道で寝てる時に可愛くないから問題」
「可愛いと感じるから価値がある」

みたいなピントのズレた土俵を用意して
生活保護を乏しめるのはどうなんだろうか…

伝えておきたいのは

「猫と生活保護を比べるな」という話ではない。

比較する上でその土俵で優劣を決めるのは
どうなんだ?という疑問である。

言い換えるなら
生活保護を受ける人はこのような論理で
価値がないと置くのは不適切である。


また、見逃されガチだが
DAIGOはここでホームレス
という言葉に転換している。

[生活保護を受ける者=ホームレス]


このように単純化させて
極めて不適切な論理を順序立てている。

僕は辛口なんで。ダークなんで。

少しだけ擁護しておくと
この一連の発言は必ずしもDAIGO本人の発言というよりDAIGOというキャラクターを演じている。
と言う点は注意が必要だ。

しかし

このような前置きがあるかといって
発言していい内容なのだろうか?

猫の命と人間の命なら
人間の命の方が重いなんて全く思ってないからね。
自分にとって必要のない命は軽いんでね。
ホームレスの命はどっちでもいい。

「猫の命を低く扱わない」
これ自体はとても大切な問題意義である。

ただし

「猫に対して税金をもっと使うべきだ」
「ホームレス(生活保護)は個人の選択の問題だから税金が税金で当てがうのは不当である」

という二つの問題意識(存在)
強引に結びつける問題性は拭えないだろう。

このように強引で奇妙な組み合わせを
順序立てて論理的に展開している。

これはDAIGOが相手を説得するため
多用するテクニックであるが

「道で寝転んでいて可愛いのはどちらか?」など

そもそも比べ方として
おかしな基準を持ち出して
自分の主張を正当化させてること

巧妙に仕掛けている。


ハッキリ伝えておくが、これを持って
「ホームレス(生活保護受ける者)は価値がない」
という主張は

中身のない主張である。


しかも

DAIGOはこの中身のない論理を元に
恐ろしい展開に繋げ始める。


〈生活保護は社会に必要か?〉

どちらかと言ったら
みんな思わない?ホームレスいない方が良くない?
言っちゃ悪いけど、本当に言っちゃ悪いけど
いないほうが良くない?


再三述べている
「今回は辛口なので」という意味は

辛口=本音をオブラートに包まない


つまり、これは本音であり
「実はみんな思ってるでしょ?」
(生活保護を受ける者は社会的な価値がない)

DAIGOは大真面目に
みんなそういう認識を持っていると
捉えているのだ。

みんな確かに命は大切だよ
人権もあるんだしさ。カタチ上は大切ですよ。
でも、いない方が良くない?

みんな“カタチ上”言わないだけで
本当は生活保護受ける存在なんて
いらないと思っている。

「みんなの本音を正直に」伝えているだけですよ。

個人の意見というのを前置きしつつ
どこかで「みんなの本音を代弁してるんだぞ」
という意識があるように感じる。


元々、人間は社会にそぐわない
群全体の利益にそぐわない人間を
処刑して生きてるんですよ。

犯罪者と同じですよ。
犯罪者が社会にいると問題だし、害があるでしょ?
だから殺すんです。同じですよ。


今まで行動できない存在に対して

言い訳してるだけの存在→生活保護→ホームレス

このような単純な属性化を展開してきたが

その最後の結びつきとして
「犯罪者として語りだす」

もちろん“イコール”ではないことをDAIGOは
重々、分かっているだろうし、
一種のブランディングもあるのだろう…
(むしろ、そうあってほしい)

しかし

利益がない存在として同列に扱い
そのような存在は過去も殺されてきたから
同じように殺されても仕方ないみたいな結論は

たとえ、言葉のアヤだとしても


ただ、ただ、悍ましく覚える、、、

今日は辛口だからですよ!!
あくまで今日は辛口だから言ってて
普段はもっと優しく言いますよ。


最後のこの発言にある
「もっと優しく言いますよ」
(オブラートに包みますよ)
という意味合いに対して

表現は悪いけど
このような価値観は持ってます。
そしてこの価値観こそ社会の本音ですよ。


という発言で悲しくも締め括られている。

〈何が問題なのか?〉

ダラダラと書き連ねてしまったが
おおよそこのような流れである。

冒頭にある
「何が問題なのか?」について

DAIGOの問題発言内容の問題
区分けして伝えようと思う。


【DAIGOの問題】

一連の流れを見た人は分かると思うが
1番の問題性はなんといっても
特定の社会属性を“単純化”させている点である。

そのような単純化させた属性は
当然、例外が多く含まれている。


生活保護=言い訳して頑張ってない
みたいな単一要因で片付けられる内容ではない。

少なくともそのような発言は
幼い子どもに「お前のすること全て間違っている」と言ってしまうぐらい根拠なき発言である。

冒頭の悩み相談のようにDAIGOは
物事を主張する時に順序立てて否定する方法を多用する。そのような「推論の積み重ね」が必ず問題ではないし、そうやって主張することは基本的に賢いと言える。

だからこそ陥ったとも言えるが

結論ありきで推論を積み重ねる時に
単純化した属性化を繰り返して
実態とかけ離れた主張にも関わらず
それを覆い隠すように強引な比較を使って
その主張が正しいように」見せかけている。

素朴な視聴者(DAIGOファンなど)は

生活保護とは
「言い訳して頑張らず生きているだけ」
「犯罪者みたいなものだ」

という単純な認識を与えかねない危険性には
警鐘を鳴らしたい。


しかも「個人的な」と述べながらも
共感を求めるような発言を伝えている。

一部の素朴な視聴者達がその共感を通して
「みんなそう思ってるんだ」
という観念形成を与えかねない。

ハッキリ言えば
この観念形成は現代の社会にとって
害しか生まない。



【発言内容の問題点】


今回の発言内容を雑にまとめるとこうなる。

生活保護=頑張れない弱者である。その理屈は同じ境遇でも成果を出してる存在がいる。つまり、成果が出ない者は機会がある筈なのに頑張れていないということになる。現代の日本社会において機会は平等に与えられているから、その機会を掴もうとしない者は頑張ってる者に支えられている。社会に有用性を与えない者も形式上守るが、本音(辛口に言うなら)は自分が頑張った成果をなぜそのような怠慢な者たちを守らなければいけないのか。生活保護は自己責任なんだから優先順位は低くていい。生物としてそのような弱者は排除されることは致し方ないと個人的に考える。

「弱者/強者を分断する社会構造の思想観」
「優生思想の危険性」

二つが大きくあると考える。


それでは

筆者が考える問題点について
記事で伝えたい本筋を説明していく。



【弱者/強者を分断する社会構造の思想観】

『機会平等を理屈にメリトクラシー構造(個人の持っている能力によってその地位が決まり、能力の高い者が統治する社会)を擁護する』このような思想観をDaiGoは持っている。

この問題に警鐘を鳴らしているのが
哲学者のマイケル・サンデルである。


まずはDAIGOの根底に抱えてるであろう
思想『能力主義』について
上記の書籍と共に確認してみよう。

能力主義が魅力的な理由は、いくつかある。そのうちの二つは、人を雇う際は能力に従うべきである論拠―【有効性と公正さ】を一般化したものだ。(有効性とは無能な者より有能な者に任せた方がいい結果をもたらすという素朴な観念。公正さとは人種や宗教的偏見を退ける、“能力に応じた”平等な尺度)努力、創造性、才能に報いる経済システムは、貢献にかかわらずあらゆる人に同じだけ支払うシステム、あるいは情実に基づいて望ましい社会的地位を分配するシステムよりも生産性が高い。

厳密に能力に基づいて人びとに報いることは、公正さという美徳も備えている。業績以外の基準で差別されることはないからだ。能力に報いる社会は、上昇志向という面でも魅力がある。効率を上げ、差別を絶つだけでなく、一定の自由概念を支持するからだ。つまり、自分の運命は自分の手中にある、自分の成功は自分に制御できない力によるものではない、成功は自分のおかげである、という考え方だ

能力主義自体は必ずしも悪い思想ではない。
むしろ現代で最も自然な思想観とも言えるだろう。

ただし、ここで書かれてる通り
「公正である」という美徳は同時に
能力なきものを公正の名の下に処するのだ。

心理学的な補足もしておくと
DAIGOは当然、経歴から言っても
努力してきた存在だと言える。
そして、社会的に評価されてる存在でもある。

自分の運命を不断の努力で
切り拓いていると言えるだろう。
頑張れば報われる”という信念は

そのような努力した成果を獲得してきたことで
認知バイアスが働きやすい状況だと言える。

このような信念は多かれ少なかれ
多くの人が持っている信念と言える。

だからこそ

「いじめられたから成功しない」という発言とかってあると思うけど、でも同じ条件で成功してる人なんていくらでもいるからね自分よりも遥かに厳しい環境で成功してる人もいるし、貧しい人でも、障害持ってる人でも成功してる人なんていくらでもいる。理由にならないと思う。

この信念は努力してる人程
感じてしまう信念であり、またその信念は
自身の成功体験を通して疑えない信念となるのだ。

人間の主体性に関する心躍る見解であり、道徳的に励みになる次のような結論と密接に関連している。すなわち、われわれは自分にふさわしいものを手に入れるのだ、と。私の成功が私の手柄、つまり才能と努力によって獲得した何かであるとすれば、私はそれを誇りにできるし、自分の業績がもたらしてくれる報酬を受け取るに値すると確信できる。

この信念は啓発的であり、救われる信念でもある。

だから、この信念は必ずしも否定しない。
しかし、その信念が正しくても
その信念を元にした逆の信念。

『報われていないのは頑張っていないだけ』

という影の側面は疑う必要があるのだ。

所得の不平等を人それぞれの功績の反映と考えれば、傷口に塩を塗ることになると的確に述べている。「高い所得は功績の証拠であり、低い所得は功績の欠如の証拠だと一般に考えられている社会では、地位や報酬は功績に一致するものと広く信じられている⋯⋯こうした社会はうだつの上がらない人たちにとって、功績と成功のあいだに必然的な結びつきはないことが率直に認められている社会とくらべ、おそらくはるかに耐えがたいものだろう」

この記事で詳しい議論は文量の関係で出来ないが

経済的功績と正義(善)を一致させること

社会に与える問題を本書では明確に指摘している。

同時に、この社会に与える問題は懸念ではなく
アメリカでは既に明確に生じていることも
ここでは述べておこう。

本書では、この能力主義の実態と
その中にある「より良い公正に向けて」
どうするのか一貫して論考している。

ここで伝えられる内容としては
能力主義という思想観は
既に手放しで賞賛できる代物ではないこと。

そして、、、
能力(功績)と道徳(価値)を
結びつけることは真っ向から否定されていること。

「納税しているから」
道徳価値の証拠にならないし、その量の差異から
より社会にとって美徳という理由にもならない。

人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。いったいなぜ、成功者が社会の恵まれないメンバーに負うものがあるというのだろうか?

その問いに答えるためには、われわれはどれほど頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸運のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなくてはならない

自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じれば、ある種の謙虚さが生まれ、こんなふうに思うのではないだろうか。「神の恩寵か、出自の偶然か、運命の神秘がなかったら、私もああなっていた」。そのような謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる。能力の専制を超えて、怨嵯の少ない、より寛容な公共生活へ向かわせてくれるのだ。

謙虚さがこれからの社会には必要不可欠だ。


【優生思想の危険性】

そもそもユダヤ人のホロコーストとは
歴史的にどのような実態なのか

1933年のヨーロッパにおけるユダヤ人の人口は900万人を超えていました。 そのほとんどは第二次世界大戦中にナチスドイツが占領した、あるいは影響を与えた国に住んでいました。 1945年までにドイツ軍とその協力者は、ヨーロッパのユダヤ人を殺害するというナチスの政策「最終的解決」の一環として、ヨーロッパ在住ユダヤ人の3人に2人を殺害したのです。 ドイツにとって最大の敵と見なされたユダヤ人がナチスの人種差別の主な犠牲者でしたが、その他の犠牲者には約20万人のロマ族(ジプシー)などがいました。 また、施設に収容されていた少なくとも20万人の精神障害者や身体障害者(ほとんどがドイツ人)が、安楽死プログラムの名のもとに殺害されました。

ナチスの圧政がヨーロッパ全土に広がるにつれて、ドイツ軍とその協力者による迫害や殺害の犠牲となったのは何百万人にも及びました。 200万人から300万人ものソビエト人捕虜が殺害され、または飢餓、病気、放置、虐待などで死亡しました。 ドイツ軍は非ユダヤ系ポーランド人の知識層も殺害の対象とし、数百万人のポーランド市民やソビエト市民をドイツや占領下ポーランドでの強制労働に送り込みました。これらの人々は悲惨な条件で働かされ、しばしば死に至りました。 ナチス政権の初期から、ドイツ当局は同性愛者やナチスの社会規範に一致しない行動を取る人々を迫害していました。 ドイツの警察官は数千人に及ぶ政治的敵対者(共産主義者、社会主義者、労働組合員など)や宗教的異分子(エホバの証人など)を検挙しました。 これらの多くは監禁と虐待のため死亡しました。
ホロコースト百科事典より


最初に伝えておくが
DAIGOはこのようなホロコーストを
擁護する立場ではないし、
あの発言を通して「ナチスと同じである」
みたいな結び付けは危険だと考える。

ただ、一つ言えるのは
「このような歴史を繰り返してはいけない」
ということについては
全員が同意する内容だと考える。


では、どのような点で
今回の発言内容は優生思想と結びつくのだろうか?
(ここで扱う優生思想の意味は広義的に障害者差別の文脈から「優れた人間が劣った人間よりも価値がある思想」と置く)

哲学者のハンナ・アーレントの
『全体主義の起源』で確認していこう。

「国民は領土・人民・国家を歴史的に共有することに基づいてる以上、帝国を建設することができない」征服を行った際は異質な住民を同化し、同意を強制するしかない。しかし、統合することは出来ず、また、正義と法の規準も当てはめられない。だから、圧政に陥りやすい形となっている。被征服民族には国民の意識と自治の要求を目覚めさせる必要があるけど、征服民は原理的に無防備である。その無根拠に根拠を与えるために新たなる政治装置が必要である。それが、人種思想(人間には人種があり優劣がある)である」

この内容自体はDAIGOの発言からは
幾ばくか飛躍した論理展開にはなる。
しかし、アーレントのこの発言は
今回の内容と非常にリンクする。

まず、前述した通り
能力主義を軸にした強者と弱者の
分類(分断)が生じている。

「圧政するべきだ」という根拠に
当時、打ってつけだったのが
優生思想という装置なのである。

DAIGOの[分断→排斥]の構造は
ナチスと類似する構造を抱えている。


改めて確認しよう。

この騒動は具体的にどういう問題なのか?
一人、一人がそれを知る手掛かりとして
書き綴ってきた。


言い換えるなら

なぜこのような残虐な犯罪に繋がったのか?
その歴史的事実を触れながら
残虐な歴史を繰り返さないことである。
残虐な歴史に繋がる芽を摘むことである。

最初に伝えておく。
ユダヤ人のホロコーストは
ヒトラーが一人で起こしたのではない。


大衆が支持した
結果招いているのだ。


ユダヤ人のホロコーストについて
我々が考えなきゃいけない点を確認していく

①その認識を支える科学的根拠
装置を装置として強化させていた。

ゴビノーは混交による人類の退化は避けられないと考えていたが、ダーウィン以後の人種主義者は、人間の歴史を生物学的な発展過程だととらえた。そして、人間世界に自然の摂理を復活させれば種の退化は防げると主張した。人間の遺伝的劣化を防止し、優れた遺伝形質を保護しようとする優生学は、こうした考えを背景として形成された。

詳細は省くが“科学的な正しさ”は
現代でも強力な正当性を帯びている。

科学を元にした正当化は有効に活用できる反面
その有効性が時に残虐な事件の正当化された事実も
重く受け止める必要がある。


②残虐な事件の時、大衆はどうしていたのか?

ユダヤ人財産の没収と競売、所有権の移転は、細部にいたるまで反ユダヤ法の規定にしたがって粛々と行われ、これに携わった国税庁・市役所などさまざまな部署の役人も良心の何責を感じることなく仕事を全うできるシステムができあがっていたのだ。ユダヤ人の排斥を支える国民的合意が形成されていたとはいえないにせよ、ユダヤ人の排斥を阻む民意は見られなかった

社会に“排斥”の思想観を植え付けるイメージとは
積極的な排斥活動を
植え付けることをイメージするかもしれない。
しかし、消極的な“排斥”というのがあって

別に排斥してほしいと思わないけど
理屈はなんとなく分かるし
自分からわざわざ反対するまでもないかな〜

このような認識が
社会をよからぬ方向に導くのだ。

『障がい者には6万マルクの負担がかかる』

このようなポスターを見て
皆さんはどう思うだろうか?

「非道徳的だけど事実だよなぁ」
という認識は根ざしていないだろうか?

ヒトラーは突撃隊員らの目に余る行動を「ユダヤ人への懲罰」を求める「民の怒り」とみなした。実際に暴力に訴えて反ユダヤ主義を煽る者は少数であるにもかかわらず、それを「国民の意志」の表れととらえ、これに呼応して政府がいっそう大胆な政策を打ちだすというパターンは、ヒトラーが全国の地方政治を統制下におく過程でも見られた。


今回の騒動を通して中には
「DAIGOの発言に過剰過ぎ。笑」という声もある。
(実際、今回の騒動を通してDAIGOをヒトラーと同じであるという安易な結びつけは危険である)

しかし、考えてほしい。
もしも積極的な

「ユダヤ人の排斥を阻む大きな民意があれば…」

この民意を表出する大切さと
無自覚に植え付けてしまう優生思想の危険性

この二つは改めて認識する必要が
あるのではないだろうか?


相互理解なき末路

なぜヒトラーは
そこまでユダヤ人虐殺に執着したのだろうか。

ヒトラーは、この戦争を「国家間の戦争」としてよりも、「人種間の戦争」として捉えていた。それは、国家より民族、民族より人種を重視するナチズムの思想が戦時下でたどり着いた必然的な帰結だった。(中略)そしてドイツを苦しめているのは、ユダヤ人だと信じて疑わなかった。ドイツの行く手を阻むものもユダヤ人だ。


特定の属性
の問題と落とし込んで
今の社会不安や問題はその属性の責任である。
反論する声があってもそのような声を疑わない

特定の思想観を持つことよりも
その思想観を疑えない盲目性こそ
最大の問題だと考える。

ヒトラーの演説は、すべて巧みな時事政談である。聴衆に応じて取り上げるテーマを変えたが、論じ方は同じだ。最初に暗澹たるドイツの現況を静かに論じ、やがてその原因がどこにあるのか、なぜそんな苦境に陥ったのか、どうすれば失った未来を取り戻せるのか、

世界を善悪二項対立のわかりやすい構図におきかえて情熱的に語った。聴衆の憤りは自ず悪に向かう。その悪の具現者こそユダヤ人、マルクス主義者、そしてヴァイマル共和国の議会政治家たちだ。

単純化された善悪二項対立など
分かりやすさ”に大衆は扇動されてしまう。
特に、苦境という不安時に誘惑されるのだ。

紛れもない事実として
そういう諸要因が合わさった時
大衆は疑えない信念へと変貌させるのだ。

サンデルもアーレントも通じるテーマであるが
自分とは違う存在に向けて
どのように理解しようとするのか
逆に言えば「理解する必要はない」
という断絶は、この先、何を生むのだろうか?

「アーレントが渡ろうとしてしまった橋を、シュタングネトは落とす。私たちはアイヒマンを「理解」すべきではない──しかしこうした捉え方は「人間が理解し合える可能性」を否定したアイヒマンの「民族主義的」世界観と、奇妙に照応してしまうともいえないか」ー橋爪大輝ー

この記事
紹介した書籍
SNSの様々な声


どのようにこの騒動やDAIGOと向き合うのか?


オルテガは『大衆の反逆』で記している。

自由主義とは無数の他者と折り合いつける社会制度
その面倒くささこそ、自由である(意訳)



みんな
で考えていく内容として捉えていきたい。
そう、筆者は考える。


〈謝罪〉


謝罪内容をまとめると

・発言した経緯
・正しい知識・認識をしていこうと行動しいく
・この動画の収益は全て寄付する
・批判しても仕方ない(黙って猫を寄付する)
・理解もしてない批判は反省するべき点


今回の問題点は謝れば済む話ではない。
何かしらの社会的責任を負うこともあるだろう。
この謝罪や責任の是非や問題は置いといて

まず、考えていきたいのは

繰り返すが、今回の騒動を通して
自分たちはどのように向き合うのか?
社会問題としてどのように社会と向き合うのか?

社会の幸福は、団結と連帯を土台とする。出世する機会だけでなく、高いレベルの文化、共通の利害の強い意識が存在することが不可欠だ⋯⋯個人が幸せになるためには、快適かつ栄誉ある新たな地位に自由に出世できる必要があるだけではない。出世しようがしまいが、尊厳と文化のある生活を送ることができなければならない。
『実力も運のうち 能力主義は正義か?』


この問題に目を向けるとは、
“社会の幸福”に目を向けていくことだと考える。



今回の騒動で否定されていた
生活保護やそれを受けてる親族から声を受け
自身の想像力の欠如に対して
繰り返し謝罪してる内容です。


自分と違う状況の他者と
どのように向き合うのか?
どのように理解していくのか?
記事にも書いてきたテーマだが、
改めて重く受け止める内容だと考えた。

〈最後に〉

長文であるにも関わらず
読んで頂きありがとうございます。

まだまだ未熟な内容となるため
修正や加筆を加えていきます。
よければ、今回の件を通して多くの人と
熟議していきたいと思います。

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