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“よい文”とはなにか [「滝沢カレンの物語の一歩先へ」好書好日/『作家と楽しむ古典』河出書房新社]

twitterで紹介されていた滝沢カレンの文章を読んだ。

朝日新聞の書評サイト「好書好日」に掲載されている、滝沢カレンが有名小説のタイトルからインスピレーションを受けて書いた、オリジナル短編小説の連載。

当初は、ああ、読書感想文の亜種としてよくある、物語の後日談とか別人視点でお話を書きましょうっていうやつね。ああいうのって、読書感想文そのものよりも中身がみんなおんなじで、薄っぺらくなりがちだよね。と思っていた。
実際、読み始めて、まあ、文章の訓練を受けていない人に書かせたらこうなるわなあという怪文書ぶりに、なんで朝日新聞の書評がわざわざこんなの載せてるんだろと思ったのだが、途中から感想が変わった。

これ、すごい。このツイートのリプライ欄にもあるんだけど、星新一のショートショート的な、いまは失われた不条理世界が展開している。文章そのものは最近の若者語彙・口語語彙で、相当解像度が低い文章なんだけど、そういった文体でレトロな不条理小説風の展開というのが衝撃的。挿絵はリアリスティックな絵柄のイラストレーターさんだけど、諸星大二郎に描いてもらったほうがよかったのでは……。テレビとか全然観ないから知らなかったけど、もともとこういう人なのかな。滝沢カレン、モデル・タレントという一見派手な仕事ながら、内面にこんな世界を秘めているとは、良い……。


この文章、はじめは下手だなーと思っていた。
『蟹工船』の回など、はじめの2文連続で日本語の構成としておかしいし。古文のように途中でいつの間にか主語や目的語が変化しているなど、文章の不自然さの傾向からすると、スマホ等で書いていて、直前の文ですら見返さずに思ったことをそのまま打っているのではないかと感じる。
しかし、よく読むと、「まるで〇〇のような」等の粗雑な比喩や、難しい言葉を使えばカッコいいとでもいうような修辞をだらだら続ける手法は使われておらず、平易な語句のみで異様な世界を表現している。これが一番すごいと思う。不条理感がマシマシに上昇する。これをテクニックで出そうとすると、相当の技量がないと書けないだろう。冒頭に紹介したtweetでは「SF」とジャンルにカテゴライズして紹介されているけど、文藝としてすごいと思うわ。藤枝静男を初めて読んだときのような衝撃。褒めすぎ? いや、もちろん、藤枝静男はまったくもって天然ではない文章ですが……。

もうすでに長く続いている連載らしく、最新の『復活の日』の回で連載第21回(月1掲載)とのことで、もう2年ほど文章を書き続けていることになるが、それだけ継続していたら(一般的な観念としての意味で)文章は上手くなるはずだが、元の文体が崩れていないのもある意味すごい。

というか、朝日新聞はこの文章をどう校正・校閲しているのだろう……。『人間椅子』の回だと文章がかなり整っているので、プロが手を入れている気配はあるが……。

たとえばこの「お取り引き様」という言葉、私も「取り引き先」の間違いだろうと思ったんだけど、実は、twitterで検索すると超どっさり出てくる。
どうも、メルカリ等の個人取引界隈で使われている言葉で、売買成立した取り引き相手のことを指しているらしい。「取引先」というビジネス用語を知らない人たちのあいだで独自に発生した「それっぽく丁寧に言い回した」フレーズらしく、まじ、本物の現代の未知の言語……。
こういう、(言い方悪いが)「文章を読む習慣がまったくなくて語彙の少ない人が独自に編み出した、一見誤っているとしか思えないけど、その界隈ではむしろ丁寧語だったりする独自の日本語」にすごく興味があるので、「おお……」と思った。やっぱり、言葉ひとつ取っても、世の中というのは、私が生きる世界とは違う世界が、同一時間、同一地域に多重的に存在して構成されているんだ……としみじみと実感した。

とにもかくにも、これを直さず掲載した朝日新聞がすごい。いわゆる「ちゃんとした文章」に直してしまうと、原文の持つ不条理感がなくなってしまう。滝沢カレンの文章、普通その文にその言葉は続かんだろっていう、文章そのものに奇想としか言いようがない独特のドライブ感があるんだよね。すごすぎてちょっと笑ってしまうというか。「健三リーチ」→「ドォーン」→「桜島も興奮なさっていなさる」的な、なんなんだよその畳み掛け! どれかひとつにしといてくれ! 的な。それを滝沢カレンが意図的にやっているのかどうかはわからないが、そのいびつさが最大の魅力なので、文法的に間違っているからといって安直に直すわけにはいかない。そもそも、編集者が滝沢カレンの才気にどうやって気づいたのかも気になるわ。



“よい文“とはなにかということに、関心がある。

私がイメージしている「よい」というのは、シンプルでスマートな文であるとか、ライティングのテクニックに秀ているといったことではなく、もうちょっと概念的なことで、いかに自分が伝えたいことを、最大限歪みなく、いかに相手に伝えられるかということ。自分がシンプルに考えていることやシンプルに伝えたいことは、シンプルに伝わる。自分が複雑に考えていることやそういった過程が必要なことは、複雑に伝わる、といった文が、はたして自分にも書けるのかに興味がある。そして逆に、自分が文章を受け取るときにもそれはどこまで可能なのか、あるいはどこかに歪みがある場合、それをどこまで察知できるのかにも。

ただ、自分にとっての“よい文”の「よい」のほうは、なかなか具体的な形として捉えられない。探すためにひたすら文章を読む。普段は講談社文芸文庫に収録されるような純文学系の作家、あるいは魂の雄叫び満載の昔の演劇雑誌などをセッセと読んで収穫に励んでいるが、まったく違うところから発見できて、面白かった。
しかし、こういう文章はそう簡単に見つからないわけで、まずは“よい文“を阻む要素をなくため、「これはないわ」という消去法をとれるようにすべく、「悪い」文を考えてみる。そのなかで自分が「かなり悪い」と思っているのが、粗雑な直喩と無駄な修辞。

「粗雑な直喩」でいうと、先日、ネトフリでやっている『日本沈没2020』のノベライズ版がヘタクソすぎだと、おちょくっておもしろがる記事が流れてきた。

『日本沈没2020』のノベライズにツッコミを入れてみた(ネタバレあり・長文)

————
(引用者略)
立て続けにガクン! と沈むような激しい縦揺れが襲う。
 グォーン! と間髪入れず横揺れが襲い、歩たちを仕留めにかかる。
「………」
 歩の瞳孔はカッと開き、戦慄で半笑いになった。
 巨人の振るシェイカーに入れられてしまったかように、皆がなす術なく上下左右に吹っ飛ぶ。
 ガシャン! ドバン! ギャバーン!
(引用者略)
————
本書の「描写」とはほぼこんな感じである。余震はゴゴゴゴッ……グワーン!で、メガフロートの爆発はバゴーン!で、安っぽい擬音のオンパレード。だいたい、ギャバーンとバゴーンって何だよ。宇宙刑事とカップ焼きそばか。

よくある、針小棒大なツッコミを入れておもしろがる形態の記事なのだが、個人的には、ここで小馬鹿にされている「安っぽい擬音のオンパレード」ということより、それと並行して使われてる「巨人の振るシェイカーに入れられてしまったかように」という粗雑な直喩表現のほうがはるかに気になった。直喩なのに実感のない例えなのが気になる。いや、『進撃の巨人』をイメージしているのはわかるんだけど、雑すぎるというか……。

というか、この記事自体の、評者が使っている「オンパレード」っていう言葉の古さと安さも相当気になるな……。そもそも、「ツッコミ」っていう手法も、正直、相当古い印象があるよね……。



“よい文”がらみで、もうひとつ。

以前記事にも書いた、河出書房新社の現代語訳版日本文学全集の、翻訳担当小説家の講演会をまとめた本、『作家と楽しむ古典 好色一代男 曾根崎心中 菅原伝授手習鑑 仮名手本忠臣蔵 春色梅児誉美』(河出書房新社/2018)を読んだ。

現代語訳を担当した小説家が翻訳にあたっての自分の考えを講演会形式で披露したものの書籍化のようだが、かなりの割合で、現代語訳にあたっての構想やその上でのライティングのテクニック等を語るというより、古典作品そのものへの独自の解釈披露をするという状態になっている。
この「独自の解釈」というのが、結構曲者。学術的な知識をもとにモラルを守った上で客観的に話しているわけではなく、いわゆる俗説を自分の考えと混同しながら話しているのではないかと思われる人もいるので、結構危ない。健康食品の広告の、「ご愛用者の声 ※個人の感想です」的なオーラがある。古典に対する「独自の解釈」というのがどこまで許されるのか、と思わされる。(少なくとも文楽技芸員ならこんなこと客前で言ったらアウトだな的な意味で)

そんな中、松井今朝子はヤバかった。
松井今朝子は、本編の『仮名手本忠臣蔵』の義太夫ノベライズのクオリティの高さに驚かされたが、講演会での発言を読み、改めて敬服した。ほかの訳者と着眼点や考えの整理の仕方が違うと感じた。特にヤバイのが、講演会に来た客に参考として聴かせた演奏が近代を代表する名人・山城少掾という点。おそらく浄瑠璃の内容を最大限精緻に演奏していると解釈して山城少掾を聞かせたのだと思うが、数十年前に逝去した、しかし現代文楽の礎としていまなお舞台上でその足跡が生き続ける山城少掾を選んだのが渋い。ほかの小説家は多分そこまでは考えていなくて、演者の例を話すときには現代の技芸員(たぶん、知り合いという観点)を引き合いに出していた。


松井今朝子は、『仮名手本忠臣蔵』の原文の簡潔さ、スピーディさ、それによる当時の浄瑠璃としての斬新さを繰り返し語っている。そのうえで、現代語訳をしたことによる十段目(天河屋の段)に対する考えの変化が語られているのが面白かった。

 先ほども述べたように、『仮名手本忠臣蔵』は、竹田出雲、三好松洛、並木宗輔の合作です。中で三好松洛が書いたとされる十段目はばかばかしいほどあざとい展開だし、同じ言葉をしつこく繰り返してだらだらした冗漫な文章が見受けられます。嫌だなあ、自分だったらこんなにくどくど書かないのになあ、と思いながら現代語訳をしました。

わかる……。
去年の文楽劇場の『仮名手本忠臣蔵』通し上演企画で、十段目を原作ママのフル上演をしていたけど、緊密に構成された道行旅路の嫁入〜九段目の流れに対して、あまりに安直で冗長すぎ、内容下らなさすぎだと思ったもん……。とにかく無駄にダラダラしているのと、ベタすぎる軽薄な内容なのがほんまツライ。技芸員さんたちがとても頑張っているのはわかったけど、九段目で帰ったほうが上演の印象はよっぽど上がるとしか思えなかった。こりゃもう今後も観なくていいな……。
と、私は単なる観客なのでそうとしか思えなかったのだが、訳者として全文をはしょらず訳さなければならなかった松井今朝子は、こう語る。

 そうして訳していきますと、十段目の見え方も少し変わってきました。松洛は決していい加減に書いたわけではない。自分の作品だってそんなに適当に書けないことを私は身に染みて知っています。ひょっとしたらこの十段目があったからこそ『仮名手本忠臣蔵』は庶民に受けたのかもしれない。今ではそう思っています。
 十段目は全体のストーリーの中でちょっと異質な、浮いている感じを受けます。なぜならここだけは完全に町人の話なのです。四十七人の義士たちの討ち入りを、身を挺して援助する天河屋義平は、自分も武士だったら討ち入りに加われたのに町人だからそれが叶わないことを訴え、その結果、屋号の「天」と「河」が討ち入りの合い言葉として受け容れられて、あたかも参加できるような夢を与えられる。それは町人が大半だった観客の思い入れを全開させる効果があったに違いありません。したがって、ばかばかしいようなあざとい展開も、文章のくどさも含めて、最も庶民感情に訴えるところが大きい段ではなかったか、と、現代語訳を通して私の中で十段目の解釈が変わりました。

実際の江戸時代の観客にどう受け入れられたかはわからないけど、現代を生きる訳者が感じたこととして、なるほどなと思わされた。
時代物の演目でも、世話がかった段は必ずどこかに入っている。世話物的な世界観の中に時代物の倫理観が持ち込まれることによって、いわゆる「普通の幸せな家庭」が崩壊するという話のパターンが多いと思う。その悲劇性が見所となるはずだが、この十段目だと、義平が覚悟を示すとは言ってもそこに異様さや極端感はなく、あくまで一般人として最大限頑張ってるっていう印象でしかなくて、さっきまでそれ以上の覚悟の話をし続けてきた由良助たちと同一世界に存在するには無理があるように思っていた。だけど、ここだけは現パロ、サービスシーンっていうことなら、わかる。

確かに、文楽の忠臣蔵で一番面白いのは九段目だと思うけど、内容的には十段目のほうがはるかに知名度が高い。また、先日『仮名手本忠臣蔵』を瀬戸物の世界に移した黄表紙『忠臣瀬戸物蔵』を読んだときも、冒頭の導入部は、十段目の内容を踏まえた内容になっていることで、その知名度を知らされた。そのときはなんでこんなしょうもない段を引き合いに出してるんだろって不思議だったんだけど、かつては十段目って、現代からは想像もできないほど、九段目までとは違った人気や評価があったのかなと思う。

商業的な文章のリアルタイムでの評価って、後からではどうしても追いかけにくい。しかし、純粋に娯楽に供される文章にもまた高いスキルと、なにより書き手のエゴの押さえ込みが必要になるので、生半可なことではないはず。いまとなっては何の意味があるのか全然わからないものが、当時どう捉えられて、楽しまれていたのか。とても興味深い要素である。

(なお、松井今朝子は現代語訳にあたっての構想やライティングのテクニックについても詳細なセルフ解説をしており、時代小説家が古典翻訳をするにあたっての思考の違いやその軌跡を知ることができて、かなり興味深い)






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