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義太夫のノベライズ [『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 10 能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵』河出書房新社/2016]

いまリアルタイムで刊行されている古典の現代語訳本といえば、河出書房新社が出している池澤夏樹個人編集の「日本文学全集」が有名だと思う。正直このシリーズはプロモーションコメントが寒すぎて無理だと思っていたのだが(失礼)、謡曲・狂言・説経節・浄瑠璃の巻だけ拾い読みした。

浄瑠璃から掲載されているのは『曾根崎心中』『女殺油地獄』『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』で、それぞれいとうせいこう、桜庭一樹、三浦しをん、いしいしんじ、松井今朝子が訳している。
担当作家のカラーをいかした現代語訳という趣旨で企画されているため、いわゆる文学全集の対訳としての現代語訳とは異なり、古文の現代文小説化、ノベライズに近い。そういった特殊な現代語訳なので、各々の訳者からのコメントページでは、翻訳にあたってのコンセプトや留意点をセルフ解説している人が多い。翻訳コンセプトは訳者によってそれぞれ異なっているが、個人的に一番よかったのは松井今朝子の『仮名手本忠臣蔵』。

現代語訳の文章は、逐語訳をしたり、掛言葉等を読み解いて訳していると、どうしても原文より文章が長くなる。また、この全集の場合、注釈をつけず本文中ですべてを表現するという制約があるようで、現代語にない語彙は相当ひらたく言い換えがしてあるため(もちろん現代語自体にも難しい言葉は使えない)、全体的に文章が説明的で長くなっている。
そういう訳文だと、内容はよくわかってもどうしても文章がまわりくどくなり、物語の佇まいが大きく異なることになる。
何と比較しているかというと、実際の文楽の上演。拾い読みをしながら、読み解きの説明としてはいいけど、物語の印象が舞台とはあまりに違うなーと思うものが多かった。

しかし、松井今朝子訳の『仮名手本忠臣蔵』は、原文の義太夫としての演出意図を汲んで、舞台にかかったときの印象を文章構成に反映してあり、浄瑠璃が義太夫(劇音楽)であることをいかしていると感じた。読んだときの文章のリズムが、舞台で聞いたときの義太夫のリズムと近しい。義太夫のノベライズがあるとしたら、このような文章になるのだと思う。
松井訳には、名人の義太夫演奏や人形演技のように、浄瑠璃に一曲としての起伏がある。重厚に扱うところやたっぷりと間をもたせるところはじっくりとした文章、原文でさーっと流していくところはさーっと流して読める文章にされている。段全体の緩急設定から逆算して、義太夫がさっと流す箇所では煩雑な説明はカットして簡潔にとりまとめ、重く語るところが引き立つようバランス取りをしているように感じた。文章のテクニックとして、特に、さっと流す部分の文章を簡潔にすることにすぐれているのだと思う。


これがもっともわかりやすい七段目(祇園一力茶屋の段)を例に挙げてみる。
もともと浄瑠璃として特殊な構成になっている七段目を、松井訳では形式をそのままいかした翻訳になっている。
代表的なところでは、太夫一人一役の掛け合いの再現。由良助とおかるのセリフの掛け合いになるところは、訳文でも地の文を介さないセリフの応酬のみで、舞台にかかったときの不穏な緊張感が写し取られている。

二階ではお軽が鏡の光を隠して声をかけました。
「由良さんか」
「お軽か。お前はそこでなにをしておる」
「わたしゃあなたに酔いつぶされて、あんまり苦しいんで、酔い醒ましの風に当たってたのよ」
「ふうん、そうか……よくぞまあ風に当たってたもんだ……。いや、お軽、ちょっと話したいことがあるが、屋根越しだと天の川を挟んだようで、ここからは話せん。ちょっと下に降りてもらえんか」
「話たいというのは、何か頼みたいということなの?」
「まあ、そんなとこだ」
「なら階段のほうへそこに行きましょう」
「いやいや、階段のほうから降りたら、また仲居が見つけて酒を飲ますだろうし、さあどうするかなあ。ああ、これだ、これだ。幸いここに九段梯子がある。これを使って降りてくれ」
と一階の小屋根に梯子をかければ、
(以下略)


話が前後するが、この直前、由良助が釣灯籠のあかりで手紙を読んでいるとき、おかるが覗き見ていることに気づく場面も翻訳が面白い。ここは七段目でもっとも有名で大道具の特徴があらわれる特徴的かつ様式的なシーンだと思うが、浄瑠璃原文にない「斧九太夫が手紙の端をちぎり取る」という人形(役者)の演技を現代語訳で補足し、由良助・おかる・斧九太夫の三者の絡みを空間的・視覚的にイメージできるようにされている。文章から舞台の様子が聞こえ、見えてくるのが面白い。また、ここは舞台がゆったり進行するので、翻訳の文章もゆったりと綴られている。

 また物悲しい艶歌が流れて参りました。
 〽父よ、母よと泣く声聞けば、それは雌鳥を慕い鳴く鸚鵡の口真似なんやて。ええ、なんのこっちゃ、よしとくれよ……
 由良之助はあたりを見回しながら、軒にぶら下がった釣灯籠の明かりで先ほど力弥が持参した長い手紙を読み始めます。それは判官の奥方から敵の様子を細々と知らせた手紙なのですが、女性が書いたものは話の順序が逆だったり、丁寧語が多くて読むのがなかなか捗りません。
 二階で涼んでいたお軽はこれを他人の恋文かと見てうらやましく思いながら、上から見おろしておりましたが、夜でもあり、遠いこともあって文字の形がおぼろげなので、思いついて懐中鏡を取りだし、それに映して文章を読み取ります。
 一方、縁の下に潜んでいた九太夫は、下に繰り降ろされた手紙を月明かりに透かして読んでいますが、神様でもない由良之助がそれを知るはずはございません。
 ところがお軽の髪に挿した簪がゆるみ始めてポトンと下に落ちた瞬間、由良之助はハッと上を見上げて後ろ手に手紙を隠しました。縁の下では九太夫が由良之助の後ろ手から垂れ下がった手紙を、これ幸いと引きちぎってほくそ笑んでおります。
(以下、前項「二階ではお軽が……」に続く)


また、段切もセリフで終わる原文の特徴を活かし、地の文がなく由良助と平右衛門のセリフのやりとりで結んでいる。

これ(注:矢間十太郎らの誤解への詫び)を聞いた由良之助は意気揚々と命じました。
「それ、平右衛門、飲んで酔っ払ったその客(注:斧九太夫)に、賀茂川で、なあ……水雑炊ならぬ川水をたっぷり飲ませて成仏させろ」
「ははあ」
「行けっ!」



それの何がすごいの?と思われるかもしれないけど、翻訳コンセプトの違う三浦しをん訳の『菅原伝授手習鑑』「寺子屋の段」と比較すると、松井今朝子の意図がよくわかる。
三浦しをんは原文への忠実さやシチュエーションへの理解促進を重視しており、原文の行間まで詳しく解説した訳文にしているため、原文の緩急構成や義太夫演奏のメリハリとは関係なく、全体的に長文化している。

たとえば、千代が最初に小太郎を寺子屋へ連れてくるところで戸浪に手土産として重箱を渡すところ。
浄瑠璃原文では以下のような簡潔な文で描写されている。

と言わねど知れし蒸物煮しめ、我が子に世話を焼き豆腐、粒椎茸の入れたるは奔走子とこそ見へにけれ。

舞台でも義太夫はかなりさーっと演奏しているので観客はそこまで気に留めず、人形の演技も重箱はすぐよだれくりに取られて騒ぎが始まるので、重箱に意味があることがわかりづらくされている。これによって後半の重厚さや悲劇が際立つ設計なのだと思うが、三浦訳では

女(注:千代)は重箱の中身については説明しなかったが、赤飯や煮しめが入っているのだろうとうかがわれた。我が子の世話を焼いてもらうのだからと、焼き豆腐やら小粒の椎茸やらを重箱に詰めたのは、小太郎が粒選りの息子だからと大切にし、子どものためならどんなに奔走してもかまわないと、女が思っているからだ。その母心が、戸浪にも痛いほど伝わってきた。

のような長文となっており、とてもわかりやすいんだけど、文としてものすごい体積。あまりに長くて、読むのに時間が必要になってしまう。「けれ」の強調の意味まで訳しているのは丁重だが、千代が持ってきたものが伏線であることがバレて千代がこの段階で超激重女になっており、寺子屋の段を全文読んだときの前半と後半の重厚感のメリハリがなくなっている。
(これだけ書くと三浦しをんの翻訳が悪文のように思われてしまうので良い部分を書くと、地の文の敬語は翻訳しない等、丁寧解説がやりすぎにならないような対応をしている)



ほかの訳者で、訳文を朗読用として考え、原文で韻を踏んでいるところは訳文も韻を踏む、七五調のところは七五調にするなどしている人もいたが、松井今朝子の文は感覚的にそれよりもはるかに舞台演奏の印象に近い。この人、義太夫ノベライズのクオリティが異様だな、浄瑠璃があくまで義太夫であることに対して真剣だなと思ったら、松井今朝子って、松竹の歌舞伎制作経験者なんだ。知らなかったので驚いた。

ただ、義太夫をイメージして翻訳したというようなことがコメントに書いてあるわけではない。私がそう思ったというだけ。
コメントには、時代小説作家として、時代小説を書くときと古典現代語訳を書くときの違いについても書かれているのが興味深かった。時代小説では現代でも通用する古語(「そなた」など)を演出として使う、現代に共通する感情や行動へ意図的に古風な表現を用いる等をするが、古典の現代語訳にあたっては時代小説のセオリーでは出来ないと判断し、若い人向けの歌舞伎入門本を手がけたときのスタンスで臨んだという。時代小説と古典現代語訳は違うのか(書き手、需要層ともに)関心があったので、興味深かった。
このシリーズは、中高生や、古典から離れて久しい中高年層にも向けている企画だろうから、相当やさしい文章であることに注力して書いていると思うが、そのような制約がなければ、松井今朝子はどのような現代語訳を書くのだろうか?



このシリーズ、これを読んだからって古文原文を読むときに楽になるかといえばそうではなく、今後、原文を読むことがなく、古典に触れることもない人向けではと思う。
そういう人が、『菅原伝授手習鑑』なり『義経千本桜』を全五段読む必要があるかというとかなりアレで、逆に、浄瑠璃自体(古典自体)に興味がないのにあの長さを読み通せる人、まじすごいと思った。「『義経千本桜』ってなんか聞いたことある!名前がかっこいい!」程度では、普通はあの長さ、到底読めないよ。作家のよほどのファンじゃないと、厳しいと思う。その「よほどのファンの人」を見込んだ企画だと思うけど、そういう人たちが好きな作家にオリジナルじゃないものを書かせる企画をどれだけ喜ぶのか、不思議でもある。

それにしても、どの作家も全体的に文章がティーンズノベルというか、90 年代のヤングアダルト向け書籍な感じに寄っているのは、なぜ?
作家陣が旬の人かというとそういうわけではなく、微妙に古い人だから?
それとも、「わかりやすく書く」というと、こういう文章になってしまうという集合無意識的な何かがあるのか?
自分自身があまりエンタメ小説を読まないから、ああいう文体を不自然に感じるのかな?


文楽好きの人向けおまけ情報。

大阪弁の扱いについては、『女殺油地獄』以外は「基本的に身分が高い人のセリフは標準語、パンピーは大阪弁」という対応がしてあり、方言は役割語という扱いだった。(原文でもある意味ではそうだけど、ニュアンスが違う)
こう書くと「知的な工夫がしてある!」と思われるかもしれないけど、実は現代語訳で読むとかなり不自然。
というのも、その大阪弁がテレビで聞くような標準語話者向けの現代語大阪弁で、しかも原文以上にわざとらしく訛っているから。
いちばんやばいのが『義経千本桜』の三段目。すしやファミリー、奈良県在住なのに大阪弁を喋っていて、相当な違和感がある。原文や義太夫演奏だとどこの誰が大阪弁で喚き散らそうとなんとなく誤魔化されるが、写実的な現代文の文章だと、吉野住まいという設定と合わない大阪弁はかなり異様な印象だった。

あと、浄瑠璃によく出てくる「突然の卑猥な言葉」系、豪速球でそのまんま翻訳している訳者と、言葉を丸めている訳者に分かれていて、笑った。豪速球系の人は「突然道端でダイレクト猥語を叫ぶ痴女が登場(@道行旅路の嫁入)」状態になっているし、言葉丸める系の人は「突然官能小説のような独特の遠回し表現のオヤジが登場(@道行初音旅)」状態になっていて、「艶笑」的なセンスって、現代語には翻訳が難しいんだなと思った。


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『池澤夏樹=個人編集 日本文学全集 10 能・狂言/説経節/曾根崎心中/女殺油地獄/菅原伝授手習鑑/義経千本桜/仮名手本忠臣蔵』
河出書房新社/2016

・能・狂言(訳:岡田利規/監修・解題:宮本圭造)
 謡曲 松風/卒塔婆小町/邯鄲
 狂言 金津/木六駄/月見座頭
・説経節(訳:伊藤比呂美/監修・解題:阪口弘之)
 かるかや
・曾根崎心中(訳:いとうせいこう)
・女殺油地獄(訳:桜庭一樹)
・菅原伝授手習鑑(訳:三浦しをん)
・義経千本桜(訳:いしいしんじ)
・仮名手本忠臣蔵(訳:松井今朝子)
 (浄瑠璃すべて 監修・解題:内山美樹子)




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