写真_2019-12-07_14_01_55

古典芸能が現在でありつづけるために [台湾、街かどの人形劇]

ユーロスペースで『台湾、街かどの人形劇』を観た。
台湾の民間芸能の人形劇「布袋戯(ほていぎ)」の継承者、陳錫煌(チェン・シーホァン)を10年にわたって取材したドキュメンタリー映画。

布袋戯は、手を人形の胴体に突っ込むかたちで遣う片手一人遣いの人形劇。布袋戯の古典劇には奉納の意味があり、廟の境内(廟も「境内」というのだろうか?)において露天で上演されるのが基本だという。人形を遣っている人が語りも担い、物語は台湾語で語られる。現代では台湾語を理解できる人は少なくなり、古典そのままでの上演が難しくなってきているそうだ。
布袋戯は現代風にアレンジされたものがテレビで放送され人気を博し、日本でも最近話題なので安泰の芸能かと思いきや、どうも流派がいろいろとあるようで、陳錫煌師がやっているような古典的なものは断絶の危機にあるとのことだった。少なくとも、舞台だけでは食べていけないらしい(これの厳密な意味はよくわからなかった)。陳錫煌師は外国人の弟子を取ったり、学校や自治体でのワークショップを行ったり、現代的なアレンジを取り込んだりすることで、古典布袋戯の命脈を保とうとしている。

映画そのものは、おなじく布袋戯の“人間国宝”であった父・李天禄(リ・ティエンルー)と陳錫煌の父子の葛藤を踏まえたもので、家族のドラマのニュアンスが強く、古典芸能モノ、芸道モノには寄っていない。しかし、自分は文楽が好きなので、そこからの視点に左右され、文楽がこうなったらと思ってしまったので、ピュアな気持ちで観られなくなってしまった。
語弊があるのだが……、古典的な布袋戯が断絶寸前で、なりふり構っていられない状況に陥って疲弊しているさまを突きつけられたように感じて、見ていられなかった。

この映画を見ると、陳錫煌師は普及活動や継承活動に本当に必死で取り組んでいる。行政からの支援を受けるために自ら役所へ赴き、担当者と面談もしている。観た人によっては「大師匠なのに普及活動や継承活動を自分でやってるなんてすごい」ととる方もいらっしゃるかもしれないけど、文楽に置き換えると本当に怖い。そういう状況になった場合、技芸員が安心して技芸に打ちこめるとはとうてい思えない。

陳錫煌師は、布袋戯は台湾語でなければならないと語る。布袋戯で人形を見せることがメインになったのは近年のことで、本来は台湾語での「語り」(人形を遣っている人が自分で語る)が7割を占めるものだそうだ。これからの時代は人形をメインにしないとやっていけないという判断から人形が派手になったらしいが、それはおくとして、映画の最後に収録されていた演目が、語りなしのものだったことが衝撃的だった。台湾語でなければならないと言いながら、そういうことをやる状況にまでなっているのかと思って、胸が痛くなった。命脈が断絶手前までいってから対応しようとしたのではもう遅く、追い込まれたそのころには、すでに変質が起こっているのだと感じた。


文楽は、現状、また、その特性上、古典を上演することと芸能のアイデンティティが直結している。文楽が「なにを言っているかわからなくて、観客に伝わらないから」っていう理由で義太夫節で上演できなくなったらどうしよう。悲しすぎて、もう、観に行けなくなる。

文楽は現状、古典演目を興行の中心に据え、技芸員はそれに対して技芸を磨き、その状態で集客が成立している。文楽自体や技芸員さんが恵まれた環境にあるとはとても思えないけど、少なくとも文楽という芸能の本質を保持したままの興行を年間フルの状態で打てているのは、本当にありがたいことだと思った。芸術だから保護すればいいというだけのものではない。定期公演が打てなくなって、デモンストレーションの仕事しかなくなったら、芸能として成立しなくなってしまう。映画の中の、「見る人がいなくなった」という言葉がとても辛かった。

文楽はかつて松竹に放棄され、国に保護されて現在の状況に至っている。松竹に捨てられる直前は相当状況が悪かったようだ。当時の演劇雑誌を見ていると、たくさんの人が文楽の危機と窮状を悲しみ、国の財産としての恒久的保護を訴えた記事を書いている。あのとき国の保護を受けられていなかったらと思うと本当に怖い。文楽もこうなっていてもおかしくなかったし、今後こうならないとは限らない。

少なくとも認知率の低さは否めない。この映画のパンフに書かれていたある寄稿者のコメント、“日本の感覚だと、例えば文楽のように江戸時代の演目を当時そのままの形で行うのが「伝統を守る」ということだろう”という一文が、私にはショックだった。ある意味では正しいし、悪意で書いているわけではないことは承知しているが、伝統人形劇映画のパンフに識者枠で寄稿している人からですら、文楽はそう思われているんだなということが、悲しかった。
一般的にそう思われているのは事実だと思うし、私もそう思っていた。実はそうでないということが、私にとって、文楽現行上演最大の驚きでもあった。文楽がなぜ古典を上演し続けているのかと同時に、もっとこのことが知られて欲しいと思うのだが……。

今月も東京公演を観に行って、「今月の床、みんな一生懸命やってるのはわかるが、大丈夫かいな」と心配をしたり、「鑑賞教室の解説、頑張ってる人はほんと頑張ってる」と将来性を感じたりと、いろいろなことを思ったけど、技芸員のみなさんがのんのんと芸に精進できる環境を作るのは、観客側だなと感じた。
かわいそうだねとか、大変だねとか思っているだけでは、どうしようもない。あののんのんぶりが未来永劫続くよう、自分ができること、常にコミットしつづけることをしようと思った。たとえば劇場に通うとか、まわりの人に文楽を見たと話すとか、小さなことでも少しずつやっていこうと思う。技芸員側ができることもあるけど、観客側ができることもとても多いように感じる。


おまけ。

私が観た回は終映後にトークショーがあり、チャンチンホイさんという方(陳錫煌師の孫弟子にあたる)による古典布袋戯の実演があった。内容は人形が書道をするというもので、机に向き合った人形が硯に水を差して墨を擦り、文字を書いてハンコを押すというもの。人形は高さ25cm程度?しかないので、かなり微細な演技。人形の手は文楽でいう「かせ手」で、人さし指から小指までの4本の指がとても細く、長いのが印象的だった。最後にハンコをつかんだのにはびっくりしたが、親指にハンコの取っ手をひっかけてつかんだように見せているとのことだった。

終映後、ロビーにチャンチンホイさんがいらしたので、人形を見せていただいたり、ほかのお客さんと一緒にトークショーの質疑応答の続きをしていただいたりした。図々しくいろいろお伺いしたのに、すべて丁寧に答えていただいた。トークショーとロビー歓談で聞いたお話を少しメモしておく。

・古典布袋戯は古典といえど個人の裁量が大きく、自分で考えて「これが良い」と思ったなら、そのように演技を変更できる。稽古でも、完全に間違ったことでさえなければ、師匠は注意をしないようだ。個人の裁量というのは、たとえば李天禄と陳錫煌でも人形の歩き方が違うとのこと。陳錫煌師は人間のリアルな動作を人形の遣い方の基本に置いており、無駄に大げさな演技を嫌うという。

・古典布袋戯での「語り」とは、講談や落語に人形がついているようなもの。固定の台本があるわけではなく、入れ事などが入って、可変的。上演時間は20分にでも、5時間にでもできる。そのため、演者は字幕表示を嫌う。ただし、現状ではアクション要素の強い武侠物の上演が多い。

・人形はひとりの人が1体人形を片手で遣うこともあるし、両手それぞれに持って2体を遣うときもある(2体持ちは、文楽の『近頃河原の達引』の猿回しの猿と同じ感じ)。2人で1体ずつ持って遣うこともあるが、その場合、上手側にいる人形を遣っている人のほうが芸人として格上。その人が語りを行う。下手側にいる人形がしゃべっている設定のときはどうするかというと、上手側の人形が下手側の人形を指差すことで、下手の人形がしゃべっていることを示す。ただし、下手側の格下の人も、返事程度のセリフは言う。また、立ち回りがある場合は、加減がわからないので、戦う人形2体を別々の人が遣うということはせず、1人で2体を遣う。

・日々の稽古は、テレビを見ながら等の「ながら」でもできる。動かしているうちに、「どうすれば人形が意図している通りの動作に見えるか」という発見がある。(人形は個人所有のようでした)

・人形が「それらしく」見えるには、目線が大事。人と話しているシーンでは、かつては人形を観客側に向けていたが、現在ではよりそれらしく見せるため、向かい合って話す演技にされている。

・道化役の人形は頭(体)を非現実的に振って出てくる。これは京劇でも同様で、道化役は帽子にバネが仕込まれており、それを動かすための所作。

・男性、女性、悪役、道化、どんな役でもひとりでこなす。名人になると、5体人形が出ていても、声色をすべて変えて別々の人が喋っているように語ることができる。

・人形のかしらや小道具は、自分で作る人は自分で作る。陳錫煌師は自分で作る。チャンチンホイさんは職人さんに頼んで作ってもらう。衣装も自分で作る人は自分で作る。京劇のように「この役はこの衣装」という決まりごとはなく、比較的自由。街で見かけた綺麗な布で女性役用の衣装を作る人もいる。

・書道の演技は、実際の古典演目にはない。演技が細かすぎて、露天掛けの状況ではお客さんから見えない。このようなデモンストレーションで見せる用。

・実際に布袋戯を見る方法について。チャンチンホイさんご自身は、普段は横浜中華街のお茶屋さんの店内で芸を見せておられるようです。お茶代だけで観られるとのことでした。台湾で見る場合は、一応、専用の劇場を持っているところもあるようですが、つねに古典劇をやっているわけではないので、確認してから行ってくださいとのことでした(FBにスケジュールが載っているらしい)。露天掛けを探すのは素人にはレベル高そうな感じでした。

お話を伺って、演者個々の裁量の大きさと、目線が大事というのは文楽に通じる部分だなと思った。人形がちっちゃいぶん、お持ち帰りしていつも触っていられる、普段から触っていることが稽古になるというのはナルホドと思わされた。
チャンチンホイさんは芸歴11年くらいとのことだった。間近で人形の演技を見せていただいたが、結構細かい。かしらを繰る仕草などは文楽同様にかなり繊細でリアル。また、チャンチンホイさんはもともと北京で京劇を勉強していたそうで、そこから布袋戯に転向されたようだ。どうして転向されたのか気になったが、失礼かもと思ってお伺いできなかった。


撮らせていただいた写真。若い男性の人形。なにか特定の役というわけではないそうです。そして、自分では何もできないそうです。

人形のかしら下部にあいた穴に左手人差し指を差し込み、親指で人形の右手、中指・薬指・小指で人形の左手を動かす。指先から人形の手まで少し余裕があるのがポイントで、このすきまがより繊細な動きを生むらしい。この写真ではわかりづらいが、木でできた棒状の足が吊ってあり、人形を持っていないほうの手で足を突いて動かして歩くことができる。また、胴体内部に文楽人形でいうツキアゲのような棒(人形がちっこいので串サイズですが)が入っていて、それを使って人形の手の動きをより繊細に表現することができるとのことだった。
文楽を見慣れているせいか、左手に人形を持っていらっしゃることに全然違和感をおぼえなかったが、帰宅してから陳錫煌師の写真を見ると、人形1体のときは右手持ちが多い。好きなほうの手を使ってOKなのかな?


スケスケ服の人形。これで見ると、人形をどのように動かしているかが非常によくわかる。(動画でしか撮っていなかったので、そのスクショで申し訳ないですが……)



-------------

台湾、街かどの人形劇
原題:紅盒子 FATHER/2018/台湾
監督:楊力州/監修:侯孝賢/出演:陳錫煌
http://machikado2019.com


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?