情熱をなくした看護師の話

失敗しても死なないから。

 よく何かに挑戦したりするときに言われるこの言葉。
 看護師…看護師じゃなくても医療に関わる人たちは死ぬ。看護師ではなく患者である相手が死んでしまう。
 そのため、看護師は天使と思ってる人に言わせていただきたいが、バリバリに病棟などで働いてる看護師は天使?いや戦闘民族でしょ?と思うほど、看護師としての看護感を持って仕事してる人が多い。
 何かしらの信念がなければ、あの戦場でフルタイムで夜勤もしながら働き続けるのなど無理だ。

 私はフリーターから看護学校に行き、看護師になった。看護師を目指した理由は、姉が看護師で看護師の仕事のことを聞くことがあり、どんな感じかわかったのと、尊敬もしてないババアの上司に馬鹿にされながら働くならば、同じ教養を身につけている人に馬鹿にされるほうがましと思ったからだ。
 あとは手に職をつけてお金を稼ぎたかった。
 今思うと、先輩や上司に馬鹿にされると考えていたのはやばい。
 だが、実際は命が関わる職場のため、指導は厳しく、すぐに戻ったが看護師1年目で10キロ痩せたため、その考えは正しかった。
 
 真剣に指導しなければ、患者が死ぬ。そのため、その熱の入った指導はわかったが看護は疲れる。疲れるし人手不足。そのため、パワハラまがいなこともあるのは事実だった。私がこんだけ苦労したんだからあなたたちも苦労して身につけなさい。みたいな指導が多かった。
 見たことない手技があれば、1年のくせに見に来ないの?となる。自分の受け持ちの患者の記録や清潔ケア、検査だしなどやることは数え切れないほどあるが、それでも見に行かなければならない。たしかに、次に受け持った患者にその手技をやるとなると後で困るのは自分だったため、見なければならない。
 また、ナースコールも新人が基本は出るという暗黙の了解があった。まあ、ナースコールは受け持ちのは基本出るというのもあったが、早く帰りたいため出ない人は出ない。
 3年目や4年目、5年目にナースコールのあった部屋に行くまでの途中の部屋でナースコールを無視して何人も記録している同僚たちを見た。
 あとは、清潔ケアやおむつ交換を行う必要があるのだが、これは共同業務でやっていた。この共同業務は時間で決まっていたのだが来ない人は来ない。入院を取ったり、検査で呼ばれたり、時間処置があるときは仕方がないがチームで回るのだが私しかいないとかもあった。
 ナースコールや手技、共同業務などで、受け持ちの記録は書けず残業になる。
 病棟で5年くらい勤務してて定時で帰れたことなど夜勤も合わせて、指で数える以下だ。定時は8時半から17時15分だったが、20時で早いと思った。1年目のときなど、0時近くだった。
 どんどんと気持ちはすり減って行った。
 
 それでも私は『患者さんがその人らしく生きられるように』とその手助けが、したくて看護師を辞めなかった。
 私が勤務してたのは内科病棟だったため、ほぼ治って退院はなかった。症状が改善したら退院し、悪化したら戻ってくる。そして入院をしていくごとに悪化していた。
 高齢者が多く最期を病院でとなる患者も多い。
 その人らしく過ごせればいいが、病院は治療する場だ。制限は多い。

 高齢で寝ている時間が長ければ、筋力は低下する。歩けなくなり車椅子になってしまうこともある。また、環境が変わると状況がわからなくなり、認知機能が低下することなどもある。点滴など必要な治療がわからず抜いてしまったり安静を守れず暴れることもある。その結果、仕方がなく拘束をする。そうするとさらに暴れ、興奮するから仕方がなく拘束が増え、寝たきりの時間が増えるという悪循環も起こる。
 良くなると思っていたのに歩けなくなって帰ってきたというのは、このような背景がある。

 癌の患者は、自宅退院を目指しても痛みや日常生活を自身で行えず、再入院する。
 病院で最期にその人の望みを叶えてあげたいが、病院ではできない。医療者は家族ではない。患者としてしかその人を見れない。
 看護師は患者の全体をみて、療養できるようにするが私が関わった医者は治療しか見ない医者が多かった。
 肝癌の末期の患者、入院する前は妻とバスで色々なところに旅行に行っていた人だった。一度、どうにか帰ったのだが、痛みで動けなくなり1週間くらいで帰ってきた。
 私はもう一度、家族で過ごせるようにしてあげたかった。まだ薬を飲むことができたため、医師に相談したがすぐに点滴での疼痛管理のための麻薬が処方された。
 その人の最期は、口から吐血し血だらけで吸引し続ける状況で痛みを聞いても返答はできなかった。疼痛に合わせて点滴の速度を変えるのだが、言葉で伝えられないため、表情や血圧の上がり脈拍でどうなのか確認するしかない。だが、麻薬が多くなれば呼吸抑制も起こりやすくなる。
 ずっと苦痛の表情だった。痛みの程度はわからず経過を見ていくしかなかった。仲のよかった妻は、血だらけの患者に近づけず視線も向けていなかった。数日後にその人は亡くなった。
 心不全の末期で入院した90代の女性。息子と2人暮らしだった。呼吸状態は換気できてたが、医者が人工呼吸器を使用した。しっかり検査して使用したものではなく、なくても呼吸苦はなかった。自宅で帰りたいという希望を伝えてきていた患者で、日常生活は自立していたため自身で身動きできなくなる処置は必要ないならしてほしくなかった。
 結果的に、この患者は寝たきりになり口数も減り頷くだけで病院で亡くなった。ケアマネは、患者の親戚で息子さんが1人で看れないとわかっていたため、病院の最期で良かったとのことだった。
 良かった?私はそうは思えなかった。人生を必死で生きてきた人の最期が、病院で制限されて終わるのだ。
 力不足に、気持ちは落ち込んでいった。

 良心と戦いながら、患者と接してた。
 人の命は誰しもが平等だが、優先しなければならないことはある。
 肺炎で吸引しなければ痰で詰まってしまう患者と、認知症で5分前にトイレに行った人のトイレコールなど、どちらを優先するかは明確だが患者にしてみれば看護師がナースコールを無視するとなる。理不尽なことで怒られたこともある。

 看護師同士でも、そのような現場だと意見が食い違い険悪な状況にもなる。
 私は夜勤で無視されてた男性の先輩看護師と急変時の胸骨圧迫の手技で言い争い、人生を考え直せばと言われ張り詰めていた気持ちが折れた。そのときに過呼吸にもなった。そいつは俺は勉強してて正しいと勘違いしてるやつなのだが、結局は私がやっていたことがあっていた。
 だが、そのようなことはどうでもよく、もう何もかも嫌になり病院を辞めようとした。
 そのときは、師長がその男性看護師が他の看護師と何人かとトラブルを起こしてるため、そいつが異動になった。
 だが、次の年に私もそいつと同じ部署に異動することになった。
 私は病院に限界を感じていて、在宅の現場で訪問看護師をしようと考えていたため辞めるつもりだった。そのときに、口だけの最悪やろうと同じ部署への異動だ。もともと、看護部は嫌いだったが、看護師の一人一人をコマとしか思っていないことにも嫌になった。

 私が転職したいと考えた訪問看護師は、看護師が家に行き必要な処置とケアを自宅で行う。最期を自宅で迎えたい人、施設ではなく自宅で過ごしたい人で医療者の観察や処置やケアが必要と医師が判断した人に訪問する。
 色々な知識と1人で訪問するため手技を獲得している必要がある。
 経験が少ない私は、何か武器になるものはないかと考えアロマセラピーを学び始めた。
 アロマセラピーは私自身も癒やされ、一応はマッサージの手技も獲得できた。
 看護で使うとなったときに、転職の際に訪問看護で使ってるという看護師のところに訪問に行ったが使ってなく、必要のないものみたいに言われた。
 あとは、転職として考えてた精神科特化の訪問看護ステーションに対してめちゃくちゃバカにされた。管理者をちゃんとした正看護師にしないところがあって私が指導で入ったみたいな自慢話をされ、この人と働くのは無理だなと思った。
 日本で看護技術でアロマセラピーを使うのはわかっていたが困難だった。一応、痛みの緩和や睡眠の補助や不安の改善でアロマを使うというのは習っていたが使い方は習っていなかった。
 精油は水に溶けないため、乳化剤を使用しないとならないが、足浴をするときなどそのままお湯に垂らしていた。消費期限があるのに、1年以上たったラベンダーもそのままだった。
 あとは、精油が高くコストの問題もあって医療現場で使われなかったのだと思う。
 
 そのため、訪問看護で使うのを諦め、副業としてアロママッサージをしようと思った。私も仕事で疲れていたし、疲れてる看護師を癒やしてあげたいと考えるようになった。
 アロマセラピーをする際に、問診をとりその人がどの理由でどのような症状が出ているから、その症状を緩和させるためにこの精油を使うと決め、ブレンドしてマッサージをする。
 この相手の話を聞いて精油をブレンドするのは楽しい。
 コミュニケーション能力が必要だなと思い、話すことで、ケアする精神科特化の訪問看護に転職して技術を磨こうとした。また、副業可能なところがあまりなくここなら行うのは可能だったからという理由もある。

 精神科は初で看護師では、嫌う人もいる。だが、私は楽しかった。色んな利用者さんがいた。自分の世界があり、その世界で生きにくそうだなと思った。その人たちの世界を壊さないように話しするのは、面白いとさえ思っていた。
 だが、会社が最悪だった。金儲けしか考えてないし、看護師の上司たちは本当に看護師ですか?と疑いたくなる知識や技術しかなかった。
 それでもお金をもらえて、利用者さんが喜んでくれるならいいかと続けていたが無理になってしまった。

 精神科上がりの看護師たちが無理だった。

 最初は精神科の経験が私にはなかったため、色々と教えてくださいと話をしていたが、一緒の看護師というのが恥ずかしいと思った。
 変なところに固執し、利用者によって差別をする。
 端末で記録をするのだが、記録をするのに必死で話を聞いておらず、適当な受け答えのせいで話がずれる。
 訪問中に寝る。
 夫婦で精神疾患の利用者に同情し、妻の話しか信じず近所の兄ちゃんのような意味のない受け答えをする。
 一番に呆れたのが、飲み忘れないように複数の薬を薬局が処方した際に袋に複数の薬を一緒に入れてくれるサービスがある。その際に、数日分が連なるのだが、それを切り離してわざわざホチキスで繋ぎ合わせていた。何のために?意味がわからなかった。何のために行っているのか聞いたが、紛失しないためと意味のわからない返答だった。ただの時間の無駄だ。
 よく考えると精神科の病院に入院するときは症状が、強くなってるときだ。
 点滴で眠らせ拘束する状況になる。そうなればコミュニケーションなど出来ない。
 他にも疲れることがたくさんあり、この人たちと一緒に仕事をするのが嫌になった。
 同じ看護師で病院で自身をすり減らしながら、患者のために走り回ってる人たちを知ってる。その人たちに申し訳なくなった。
 この精神科特化のところは、1年半くらいで辞めた。
 
 同じ看護師を癒やすためにアロマセラピーをしようと思ってたが、くそみたいな看護師もいることがわかり、マッサージもやる気がなくなり始めてたが、地元に戻るために、また転職をした。
 田舎は求人が少なく、副業できればどこでも良かったが、訪問看護のところしか副業ができるところがなかった。
 休日が120日あると言われ、勤め始めたが、実際はそんなに休めず。交代で、利用者に何かあれば訪問するコール番もあり、日曜日さえも訪問しなければならないところだった。
 系列の病院から訪問看護指示書が出ており、緊急の連絡をするのだが、事務を通して医師に報告するため話が通じないことが多い。
 疼痛に対しても、病院だとすぐに使える麻薬でのコントロールも時間がかかり、利用者が痛みに耐えるしかない状況もあった。

 私は在宅看護は何でもできる理想郷だと思ってしまっていた。

 理想郷はなかった。

 在宅でも制限は多く、家族の中に入るため、さらにケアは必要だった。
 手探りのような看護に疲れた。

 燃え上がるような情熱は、萎んでいった。

 その時に、今の夫に出会い現在は育休になっている。

 情熱は小さく小さく私の胸で燻っている。
 娘や夫に誇れる人でありたい。
 急変の対応や、落ちこんでる患者や利用者、その家族に私がケアして笑顔が戻った喜びも覚えている。

 その喜びが情熱をまた燃え上がらせてくれるかもしれない。

 愛おしいものができ、私の看護感が変容し情熱も燃え上がるかもしれない。

 今は私にしか守れない娘を守りながら燻っている炎を消しきってしまわないようにしたい。

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