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【ショートショート】右手がホタテになった日

 言いようのない不安と手に感じる強烈な違和感。それらに叩き起こされながら祐希ゆうきは目を覚ました。不安を体現したかのような額の汗を右手で拭おうとした瞬間、違和感の正体が視界に入る。

「ホタテ……?」

 右手がホタテになっていた。正確に言えば、手がすっぽり収まるほどの大層なホタテに。この不可解な状況を把握するため、祐希は起きたばかりの鈍い脳をどうにか回転させる。ひとつ分かったのは、手を握るたびに「カチッ」といい音が鳴るということ。

 学業やスポーツ、人間関係など、学生生活のあらゆる問題を自力で解決してきた祐希には「自分は出来るやつ」という自負があった。けれど、右手がホタテになるなんて、一介の高校生に解決できる範疇を超えている、家族に相談するべきか。そんな考えが頭をよぎったものの、賢明な判断とは思えず一蹴する。

――右手がホタテになるような育て方をした覚えはない。

 その程度の答えが関の山だろう。家族に見られることを避けるため、急いで身支度を済ませた祐希は、布でホタテを隠しながらひとまず学校へと向かった。

 幸か不幸か、右手の違和感は既に消えかかっていた。一方、体中にまとわりつく不安は足を一歩進めるたびに強くなっている。こんな不安を一人で抱えていては身が持たない。不安を取り除くため、祐希は考えを張り巡らせた。そうだ、付き合い始めた彼女に相談するのはどうだろうか。

――右手がホタテになった程度で弱音を吐く人とは思わなかった、別れましょう。

 悲しき結末になるイメージが祐希の脳内を占領する。それに振られるだけならまだしも、ホタテ男と付き合った魚介系女子というレッテルを彼女に貼るわけにもいかない。悩んだ挙句、祐希は問題が解決するまでホタテのことを彼女に黙っていることにした。

 それならば教師に相談するのはどうだろうか。多くの学生を教育してきた教師陣であれば、ホタテ学生の一人や二人くらいお手の物なはずだ。

――ホタテとはどういうことだ。キミは真面目な学生だから期待していたのに。
――なぜもっと早く相談しないんだ、ホタテになる兆候はあっただろう。

 相談すること自体に問題はない、むしろ相談するべきだろう。ただ、教師に対して積み上げてきた優秀な学生像をホタテごときに崩されるのは癪に障る。再び悩んだ挙句、祐希は教師に相談することを思いとどまった。

 どうする、どうする、どうする、どうする。

 不安だけが膨れ上がったまま、ついに学校へ辿り着いた。布で覆われたホタテを如何にも怪しく隠しながら周囲に目を配る。校門を通り過ぎる顔ぶれの中には親しい友人の姿を見つけることができたが、それは向こうも同じだった。友人は「それどうしたんだ」と布を凝視しながら祐希に近づく。

 たった一枚の布切れでは大層なホタテを隠し通すことは不可能だった。咄嗟の嘘でその場をごまかそうとする祐希だが、不安と焦りが相まって何一つ浮かばない。なにより事情があるとはいえ、親しい友人を騙すことに多少なりとも気が引けていた。

 不安に押しつぶされそうな状況が続くのならば、いっそのこと全てを話すべきか。たとえホタテ男と馬鹿にされ、人生が台無しになろうとも。

 何もかも観念した祐希は「実は……」と切り出し、友人に助けを求めた。すると、友人はこう答えた。

「右手がホタテって……よくあることだろ」

 そう言われた瞬間、一気に緊張が解けた。右手がホタテになる、どうやらこの世界ではよくあることらしい。祐希にとってそれは初めて知ることだった。

 気が付けば殻は破れ、何の不安もない、ただの手がそこにはあった。


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