ソーニャ「罪と罰」不幸と痩せと救い

昼ドラ「娼婦と淑女」で、いよいよ娼婦になった安達祐実を見ながら、ドストエフスキーの「罪と罰」について、考えた。
傲慢な正義感から殺人を犯した、主人公のラスコーリニコフは、貧しくも清らかな娼婦・ソーニャによって救われるが、彼女の体型は、まさに痩せ姫として設定されている。その理由について、分析してみようと、ネット巡りをするうち「ドストエフスキー作品の登場人物を、芸能人にたとえたら」というスレッドに遭遇。安倍なつみやら、菅野美穂やらに混じって、激痩せ時の宮沢りえ、を挙げている人がいて、ミョーに納得してしまった。
必ずしも好きな女優ではないけれど、彼女が今、ある程度の好感度を得られているのは、身を削るようにして、見る者にサービスしてきた、ソーニャ的な姿によるところが、大だと思う。

ソーニャはアル中の父と、ノイローゼで結核病みの義母、その義母が産んだ幼い弟妹という、家庭環境ゆえ、売春婦として働いている。そんな彼女は、その善良な無邪気さによって、殺人を犯した主人公を改心させる。
と、物語を軽くなぞってみたところで、下手をすれば、陳腐な印象を与えかねないわけだが……(実際、津島佑子は中高生の頃〝どんな境遇にあっても魂が清らかな少女なるイメージ〟への反発から、読まず嫌いになったという)気になる人には、とにかく読んでもらえばいいとして、ここで問題視したいのは、その容姿の設定と描写だ。

・・・それは痩せた、すっかり痩せひょろげた、蒼白い、眼鼻立ちのかなり整わない、尖った小さな鼻と頤(あご)を持った、どことなく尖った感じのする顔であった。彼女は、とても美人とはいえないくらいだったけれども、そのかわりに、碧い眼がいかにも明るくて、それが生き生きしてくると、誰しも惹きつけられないではいられないほどに、顔ぜんたいの表情が、言いようもなく善良な無邪気な感じを帯びてくるのだった。なおその上、彼女の顔には、いや、その容姿ぜんたいに、きわだった一つの特色があった。――それは、彼女が十八という年にもかかわらず、その年よりもずっと若く、まるでほんの小娘のように、子供のように見えることで、そしてそれがどうかすると、おかしいほどに彼女のある種の動作に現れることであった。・・・

(ドストエフスキー「罪と罰」より)

貧乏だから、痩せているのは当然とはいえ、ドストエフスキーは、貧乏じゃないヒロインも、痩せ姫として描くケースが目立ち、そこには何らかの記号的意味を託しているのだろう。
未成熟さをアピールすることで、子供らしさを強調しているとも、あるいは、死のエロスを醸し出そうとしているとも考えられる。

もちろん、太っていても、善良で無邪気な人はいくらでもいるわけで、それでも、彼がこだわったのは、やはり、こういう設定のほうが、有効だからなのではないか。
それこそ、太ったキリストが想像できないように、悲劇には、痩せが似合う。これはたぶん、種としての誕生以来、飢餓と闘い続け、肥満を豊かさの象徴としてきた、人類の宿命的な思い込み、かもしれない。
現代において、摂食障害の女性たちが、痩せを希求するのも、その精神性を悲劇化して表現することで、救済を願う、そんな無意識が働いているのでは、と思ったりもするのだ。

ちなみに「ドストエフスキーの天使たち」という評論のなかで、ソーニャが主人公の心を解きほぐせた理由について、著者・高橋康雄はこう書いている。
「不幸を知りつくした人間は人の痛みや傷を察知する力にめぐまれている」
これは、痩せているとか太っているとかの容姿に関係なく、当てはまる真理だろう。
「不幸」を抱える痩せ姫たちに、僕が惹かれるのは、そんな「力」を感じるから、でもある。


(初出「痩せ姫の光と影」2010年6月)




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