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街の記憶~記録のススメ

16年住んだ新潟から大阪へ引越して1週間が経過しました。
その辺の様子は別の記事に残しました

そして昨日は時間が空いたので、この1週間訪ねてなかったミナミ方面を散策してきまして。その時、戎橋の上で撮ったベタなパノラマ写真をこの記事の表紙にしたわけですが…。

他所からの友人を連れて歩いたりした事は有りましたが、街をじっくり見ながら散策したのは、多分30年ぶりくらいでした。以前住んでたのが天満付近で、仕事場も南森町とか神戸でしたから生活圏が完全にキタに偏向していて、貝塚の実家へ帰るにも関空快速一本だから、ミナミとは本当に縁遠かった訳です。

そんなわけで、数十年ぶりにミナミの街を観察すると…”あの頃”の記憶にある風景がほぼ全滅していました。写真の戎橋自体、橋の途中からスロープで川べりの遊歩道へ下りられる形に架け替えられていて…いや遊歩道自体、昔は無かったです。遊歩道へ下りても臭く無いし、中之島辺りを運行するような平たい観光船(それも屋根なしオープンの)が運航されていて…。ドン・キホーテにはベルト式の観覧車が巡っていたり…。戎橋から難波方向を見上げれば、数台の巨大なプロジェクターが動画を映し出しています。

普段からミナミで遊ぶ人にすれば「何を今更」な風景ですが…数十年のブランクですから(苦笑)。難波駅前には巨大なエディオン、丸井のビル、新歌舞伎座の上には唐破風とは不似合いな高層ビルが乗っかり、レトロな高島屋の建物の裏には近代的な高層ビルが数棟そびえています。千日前交差点の両側にはアムザとビックカメラ。見上げてきょろきょろばかりしていたので、傍目に見れば完全に観光客(おのぼりさん)に見えたでしょうね(苦笑)。

いや、変貌はミナミだけじゃないですね。キタもそう。阪急百貨店も阪神百貨店も巨大化していますし、アクティ大阪だった駅ビルは南側へ建て増ししていて、例の大屋根を挟んだ北側も大きな駅ビルが出来ています。まあ、この辺は以前も見ていた所も有りますが、今回の引越しでもまだ踏み込んでいない旧・梅田貨物駅エリアは訳が分からない発展ぶり(笑)。逆に、阪急三番街や新阪急ホテルが以前のままの風景で安心するくらいです。
ミナミの場合、その安心材料は…高島屋くらい?昔ながらの建物が正面だけは残っていますから。

■昭和の記憶を辿る

以前、新居の下見で大阪に来た際のこの記事の中にも記しましたが、幼少期はよくミナミも訪れていました。阪和線は天王寺止まりだったので、キタへ出るにもミナミへ行くにも、大阪環状線か地下鉄御堂筋線に乗り換えて行く必要があって、運賃と時間を鑑みると難波で下車してミナミに行くのは普通でした。

ダダンダダンと煩い地下鉄で天井の低い薄暗いなんば駅に着くと、いつもすごい人混み。南端がカーブになったプラットホームには駅員さんが上がるタワーみたいなブースが有りましたっけ。改札を抜けて、南海からの人波をかき分けて上に上がると広い駅前広場。高島屋を背に見上げると正面にはロードショー作品の看板がドンと掛けられた「南街会館」。左手に白壁に瓦屋根の唐破風が連なり見事な美しさの「新歌舞伎座」。正面右手には「えびす橋筋」の細いアーケードの入口が見えました。うちの家族がよく行ったのはその右手「南海通」のアーケードの方。信号を渡ってすぐ入るとモウモウとした煙。左手の暖簾の中から立ち上がる匂いに誘われるように多くの”おっちゃん”が吸い込まれます。結構大きな立ち飲み屋でした。その奥に「二見」の豚まん屋。右を向くと「なんば花月」。当時の子供のアイドル(?)奥目の八ちゃん(岡八郎)と京やん(花紀京)、木村進ら吉本新喜劇の似顔絵看板が子供心をそそります。千日前通との辻で入り乱れる人をかき分けて直進し、アーケードを抜けて「味園」ビルの手前、左手の長屋が連なる中、2階への細い階段を上がった所にあったのが、洋食屋の「キャッスル」でした。
「美味しいモン食べに行こう」とよく連れて行ってもらったお店。ジューシーなハンバーグステーキに掛かる少し酸味あるソース、付け合わせの人参のグラッセは…家ではまず食べられない甘い美味しさでした。それ以上に楽しみだったのが先に出てくるポタージュ。今にして思えば、どうって事無いポタージュですが、サクサクのクルトンが散らされた”あの”1皿こそ、子供心に御馳走の証しでした。

小学3年の正月…東映まんがまつり以外で初めて劇映画、それも洋画を見に連れてってもらったのが「国際劇場」。「シンドバット 虎の目大冒険」でした(ハリーハウゼンのコマ撮り特撮作品で、カクカク動く牛の怪物”ミナトン”は、それから暫く遊びのネタでしたっけ)。国際劇場の右隣には生卵が載った混ぜカレーでお馴染み「自由軒」が有りましたが、実際食べたのは大人になってからでしたね。左隣にはいわゆる”バッタ屋”。雑多な物(パチモン)を叩き売りする店で、いつもダミ声の”おっちゃん”が名調子で、囲むおっちゃんおばちゃんらを笑わせてました。
ミナミは昔ながらの映画館が多くて、国際劇場から千日前の信号を渡った先、レジャービルの上、エレベータで上がった所に「スバル座」、反対に南側へ行くと「東宝敷島」、南海通を横切って道具屋筋の真ん中にあった「千日前セントラル」そして難波駅前の「南街会館」。一番大きな南街劇場が洋画ロードショー館で「スターウォーズ(1作目=エピソード4)」もココで見ました。キタの北野劇場もそうでしたが客席がフラットだったので、子供には前の人の頭が邪魔で画面の下三分の一が見えなかったです。当時は字幕が画面横に出てくれてて有難かったものです(半分漢字の略字が読めませんでしたが…)。
難波駅前から真っすぐ北上する「えびす橋筋」を上がるとスグ左手に「北極」のアイスキャンデーの小さな店。「これ買うてえ」とおねだりすると「また帰りに買おな」と誤魔化されたり(笑)。一方右手には精華小学校が有りました。「ココに通う子らは、いつでも買い物出来てええなあ」と羨ましがったもんです(笑)。狭い戎橋筋、大人の人混みにウンザリした頃パッと空が開けた所が道頓堀。とにかくガチャガチャした街という記憶です。あとは芝居小屋。松竹座、角座、中座、朝日座など…。”花月”とは違うレトロな外観や赤い提灯、松竹のマーク、とぼけた寛美さんの似顔絵看板…特に中座は入りたかったですね。当時は週末になるとTVで松竹新喜劇や寄席中継の番組が有りましたから。左を見上げると「かに道楽」の巨大カニ看板、右の方には「くいだおれ」のくいだおれ太郎のチンドン人形。街自体がテーマパークみたいでした。そういえば「えび道楽」の縦に長い動くエビ看板もありましたっけ。
ADの当時(90年代前半)あの辺はB級グルメタウンで、ラーメンは金龍派と神座(かむくら)派があったり。相合橋のたもとにはたこ焼き屋台が並んでて行列がすごかったり。そんな中、ラーメンは三津寺筋の細い路地奥にあった台湾ラーメン「味仙(あじせん)」、たこ焼きは三角公園の「甲賀流」が好きだったり…。

ミナミだけでも記憶の宝庫。ちなみに今無いスポットが太字の部分です。

折角の機会なので、阿倍野の記憶も記しておきます。
大学受験を失敗、一浪した時に通っていたのが”天予備”でしたから。
天王寺駅で下りて東改札を出て”あびこ筋”を渡ると新宿ごちそうビルの脇を通り近鉄阿部野橋駅のコンコースを突っ切ったら細い南北の道。3分ほど行った左手に予備校がありました。予備校の手前右手にボロい中華屋があって、よくそこで中華丼を食いましたっけ。予備校前の東西の路地、坂道を上がったらあべのプール跡地があって曲がったマンションの1Fには熊本ラーメンの店もありましたね。ラブホの横を抜けてあべの筋に出ると阪堺電車が通ってて、道を渡ると旭屋書店、道の手前側にはユーゴ―書店。確かユーゴ―書店の裏口から出た路地には紅帽(あかんぼ)という珉珉系列の町中華も有りました。床が油でべちゃべちゃでね(苦笑)。オープンカウンターの大きな厨房は中国語が飛び交ってましたっけ。旭屋側には鰻の双葉とか。裏路地に回ると洋食のグリルマルヨシ。その手前にも、小さなトンカツ屋さんがありました。両親から、昔・職場が天王寺にあった頃に時々通ったと聞いて何度か行きました。路地から商店街に抜ける角にはピンク映画専門の「あべの地下」という映画館も有りました(笑)。全部再開発で無くなったりビル内(キューズモール)に移転したそうで。

■記憶の記録

別に回顧主義という訳では無いです。ただ、ココまでスクラップ&ビルドが激しいと、歳を取った今、自身が生きてきた証しが街から消えるというのは、それを消去されるようで勿体ないと思います。
ブラタモリが好きで毎週見ると、太古の昔からの変遷に思いを馳せたりするのを見るにつけ、その歴史を記しておく大切さを実感する訳です。
勿論、ずっと愛され続ける老舗は今も生き残っていますが、阿倍野の例があるように移転したり、21世紀の今に合うように改良されたりして”あの時”そのままには残らない物です。
クルマも10年以上経つと1年車検になり維持費が嵩むように、あの頃のままではお店もビルも劇場もやっていける筈は無く、負担が高く掛かる訳で、今の時代に合わせて街も変遷してゆくのは自然な流れです。
そんな中で自身の歩んだ道のりをキープするには、限りある記憶の引き出しを引っ掛かり無く滑り良く開く事が出来るようにメンテナンスしておく事が大事になります。それには「記録」する事です。
今のように文章で記しておくのも良いでしょうし、一番良いのは写真や映像でしょう。どこかに出かけた時、自分を写し込む自撮りや記念撮影でなくても、ふと立ち止まった時、何気ない街の風景を撮っておく癖を付けておくと、もしかするとそれが貴重な”街の歴史”を語る資料(史料)になる事も出てくると思います。

新潟を発つ夜、ふと思い立って散策した時、パシャパシャと夜景写真を撮りまくりました。今になって思うと…現在進行中の新潟駅高架事業やアパの高層ホテル&マンションの建設は2,3年後には完成するはずです。そうすると、新潟駅万代口、万代シテイ周辺の風景も今とは全く違うものになるでしょう。バスターミナルの大屋根も、万代口の駅前広場自体も、全く変わります。今のうちに記録しておくのが大事なんです。
iPhoneは良い機能を付けてくれました。パノラマ写真で撮ると、その場に居るみたいにスマホ画面を動かすとその風景をグルっと残す事が出来ます。
若い人たちはピンと来ないと思いますが、実感するのは数十年後でしょう。
今のうちに”記録”癖を付けておく事をお勧めしますよ。

子供の頃から年末に手帳を購入しても、しっかり日記を付けるのは2月半ば位まで…というズボラだった自分を顧みると、もっと毎日日記を付けておく癖を付けていたら、今がもっと違ったかもなあ…とも思ったりします。
人間の記憶には限りが有りますから。

■記憶が未来を創る

そうやって記録された記憶というのは…多くの人から集められたら、それが最大公約数になります。多くの人の心に残る物が何だったのか?が分かる事で、新しい街を創る時、採り入れられれば…将来へ向けても素敵なスポットになると思います。
人の動線、集客の為の心理、見た目のスッキリ感やインパクト、渋滞防止…などの効率化で創られた街は…味気ないものです。
ずっと眺めていたい、しばらく座って落ち着きたい、何度も訪れたい…
そういう”魅力”というのは、数値で現わせ無いし、論理的では無いでしょう。でも”そこはかとなく”人の心を掴む”何か”が在るわけです。
新居の近く、空堀商店街周辺は昔ながらのお店や路地が残る地域です。
いろいろ調べたら、この街をずっと残したい人たちの集まりがあるようです。

地域住民のみでなく、他所からやってきて活動する人も少なくないとか。
魅力ある街は人を惹きつける…その証でしょう。

完成した時は行列が出来るほど人が集まるのに数年後には閑古鳥が鳴き、ゴーストタウン化した…という地域、新潟でも見た事が有ります。どんどん大型店が撤退して週末も人通りが少ない商店街も有ります。
将来の為…今出来る事、まだ有ると思いますよ。
(了)


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