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「坊っちゃん」解説【夏目漱石】

「坊っちゃん」は、単純な勧善懲悪物語ではありません。それなりに緻密で、それなりに教養豊かな物語です。時代的に万全の教養というわけにはいかないのですが、新知識を元にアグレッシブに表現探求しています。

あらすじ

親に死なれて遺産で物理学校を卒業した、江戸っ子の坊っちゃん。四国松山の学校に教師として赴任します。しかし教頭が気に食わない。殴って辞表を書いて東京に帰ります。(終わり)

漱石は深刻な「地方差別病」に罹患しています。治癒の見込みは0%です。今日の東京人もほとんどそうです。もっとも京都人だけは東京人に馬鹿にされません。東京人に馬鹿にされてもそれ以上の力で京都人が馬鹿にしかえすからです。奈良人だけはその京都人を馬鹿にします。「たかが桓武天皇以来のくせに」というのを聞いたことがあります。実に非生産的な争いです。

話戻って「坊っちゃん」の作中で、うらなり君が宮崎県延岡市に転勤になります。坊っちゃんは憤ります。「延岡といえば山の中も山の中も大変な山の中だ。(中略)猿と人とが半々に住んでいるような気がする。いかに聖人のうらなり君だって、好んで猿の相手になりたくないだろうに」

転勤の是非はさておいて、延岡市議会及び同市教育委員会は、この文章にたいしてなんらかのアクションを起こすべきだと思うのですがいかがでしょうか。山の中を三回も繰り返す必然性はないと思います。

坊っちゃんは本人なりに義憤にかられているのですが、地方出身の私は「なんでもいいからあんたはとっとと東京へ帰れ」としか思えません。実際最後は東京に帰ります。東京原理主義者が日本国土についての幅広い知見を得ることは、土台無理なのです。

構成

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全体は11章あります。
第1章は主人公「坊っちゃん」の生い立ち。事件は残り10章で描写されます。10章は前後対称構造になっています。これは「夢十夜」と同じ構造です。


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「夢十夜」解説【夏目漱石】
https://note.com/fufufufujitani/n/nf5ee082c9db3

こういう漱石の構造感覚、私はコンラッドから学んだと考えていましたが、どうも違いますね。ワンパターン過ぎます。漱石は若い頃建築家志望でした。米山保三郎という友人に、「どうせ西洋の大建築のようなものは日本では作れない。文学なら可能だ」と言われて転向しました。自分の中の建築的美意識を小説に反映させたのだろうと思います。

(ところが黒井マダラさんが決定的な読み解きをされました。上田秋成の「雨月物語」がこのような対称構造を持っているということです。

http://jaguchi975.seesaa.net/article/ugetsu.html


あれこれ考えてきましたが、これは決定的な意見かと思います。
漱石は上田を参照した可能性が、非常に高いですね)

(追記、しかし後に漱石作品色々研究しますと、社会問題扱ってもやはり対称構造です。となると上田を知っていたのは前提として、対称構造が漱石の好みと考えるほかありません)

東京原理主義者の漱石には、四国の田舎なんぞ魔境です。延岡が人間と猿が半々なら、松山も最善で人間8割猿2割になるはずです。そんな環境で自分の価値観を世間にぶつけます。最初は教壇に立っても生徒から信頼してもらえません。宿直したらいたずらされます。もっともいたずらはそんなに怒っていません。大人のいたずらへの対応が許せません。

最終的に中学と師範学校の喧嘩で体を張ることによって、生徒からは信頼されます。ケガした顔で教室に入ると、拍手が起きます。「先生万歳」とまで言われます。漱石はこういうところは死ぬほど真面目です。生徒に支持された、だから坊っちゃんは正しいというのがこの小説の結論です。もっとも実際の漱石がそこまで生徒から愛されたのかどうかはわかりませんが。

では正しくないのは誰か。文学博士にして教頭の赤シャツです。それと赤シャツにひっついている美術教師の野だです。赤シャツはうらなり君の許嫁、マドンナを奪います。うらなり君は延岡へ左遷です。邪魔者の排除です。

一方で赤シャツは芸者と遊んでいます。それを批判するような山嵐は策を弄して辞職させます。辞職に持ってゆくのに新聞社を使って世論喚起までします。山嵐の友人の坊っちゃんには分断作戦実行します。増給で誘惑してきます。教育者のくせにやりたい放題です。ってゆうか、なんぼなんでも教頭風情では不自然な政治力です。人間とは思えません。ほとんど悪魔です。

ファウスト

おそらく「坊っちゃん」の下敷きは、ゲーテの「ファウスト」です。当時森鴎外の翻訳はまだ発表されていません。でも漱石は英訳で読んでいたはずです。実際直後の作品「草枕」にも「ファウスト」という言葉が出てきます。むちゃくちゃ勉強したんですね。

「ファウスト」解説【ゲーテ】
https://note.com/fufufufujitani/n/n105415e6658f

もっとも漱石は内容そんなに理解できていません。

ファウストは
1、ペーパーマネー問題(通貨発行権問題)
2、時間問題
3、キリスト教問題
の3つを理解しなければ最低限の読み解きになりませんが、漱石は1、通貨発行権問題をうっすら理解しただけです。ほかはなんのこっちゃわからなかったのだろうと思います。日本語訳もない時代です。だれも研究していません。仕方がありません。いち早くペーパーマネーの問題に向き合えたのは偉いです。向き合った結果、結論は間違っていますけど。

ファウストへの誘い

ファウストに出てくる悪魔がメフィストフェレスです。赤シャツが該当します。メフィストのコンビはファウストですが、赤シャツのコンビは野だです。ファウストは美しいものが好きですから、美術教師野だ=ファウストというのはまずまず妥当な変換です。語尾が「~でゲス」となるペラペラ人間で、あまりにも品格がないのですが目をつぶりましょう。


ここで静かな風流人キャラを採用していたら、晩年の辛気臭い作品のようになってしまって、今日ほどの人気はなかったでしょう。野だは坊っちゃんと同じく江戸っ子です。坊っちゃんも下手をすれば野だになるのです。~でゲスと言うようになるのです。

最初に坊っちゃんはいかがわしい人物のところに下宿します。名前をいか銀といいます。いかにもいかがわしい人物の名前がいか銀、こういうネーミングセンスは他者の追随を許さぬ超一級です。

いか銀の女房は「まさにウィッチに似ている」とあります。ウィッチWitchの意味は魔女です。奥様は魔女なのです。魔女の厨にまんまと入ってしまった坊っちゃんは、当然ファウストになるべく勧誘を受けます。具体的には骨董の購入を持ちかけられます。日本風に地味な勧誘です。華山やら端渓やらをすすめられます。美に興味をもったら、そこがファウスト第一歩の始まりです。でも坊っちゃんは全然興味持ちません。

ファウストは女好きです。恋愛ドラマが「ファウスト」の全編を推進します。だからたとえ美術に興味がなくても、女好きなら脈あります。

ところが坊っちゃんは江戸の下女の清(きよ)が好きです。清は老婆です。熟女好きの究極形態です。マドンナにも芸者にも触手を伸ばしません。ファウストになる資格がありません。どっちが変態なのか正直よくわかりませんが。

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それで、仕方なしに女抜きでワルプルギスです。

1回めは宿直の夜の男子生徒のいたずらです。なぜイナゴが大量発生するのか。魔界と虫は相性良いからです。

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2回めは夜に開かれるうらなり君の送別会です。2回とも夜です。

送別会にはご丁寧に伊万里の焼き物や貫名海屋の書が据えられています。やや不自然に描写されます。つまり美術に誘っているのです。しかし依然として坊っちゃんは反応しません。ファウストたる野だは酔って狂ったようになっています。ふんどし一丁で踊っています。流石にファウストの資格十分です。しかし坊つちゃんは場の雰囲気に乗れません。馬鹿にして立ち去ります。

通貨発行権


魔境愛媛県松山市のメフィストたる赤シャツはお金を自由にできます。ペーパーマネーを編み出したメフィストフェレスそのまんまです。

実はこの小説はお金の描写はきっちりしています。坊っちゃんの先生としての月給は40円。さらにメフィスト赤シャツが増額を持ちかけます。坊っちゃんは考えて結局断ります。東京に帰って街鉄の技師をして月給25円。かなりのダウンです。それでもよいとしています。ファウストになりたくないからです。それと清といっしょにいたいからです。清貧というやつです。

子供の頃坊っちゃんは清から3円もらいます。紙幣です。財布に入れて便所に落とします。清が引き出して洗いますが臭いが残ります。臭う紙幣を持ってどこでどうごまかしたか、清は銀貨に替えてきます。ようするに、金銀を元にペーパーマネー発行するファウストの、逆の行動をするのです。ペーパーマネーを金銀にかえるのです。それをする清が、文字通り心の清い大事な人です。

この路線、つまり紙幣嫌悪、金属貨幣礼賛路線では当然通過発行量は減ってゆきます。所有金属量が通貨発行量だからです。デフレ化です。経済は停滞します。まるで緊縮派です。IMFです。財務省です。主流派経済学者です。

悪口が長くなりましたが、冷静に考えれば漱石は「文学に経済問題、特にその中心にある通貨発行問題をいち早く取り入れた」ことで讃えられるべきです。すくなくともゲーテの「ファウスト」が通貨発行問題を取り扱っていることは理解したのです。西洋で問題視されているから問題なのであろうと、自分の作品に取り入れて大量の好悪の感情とともに描きました。とにかく俊敏です。

本格的に論ずる力がないのは仕方がありません。問題は後輩の文学研究者たちがたちが「坊っちゃん」も「ファウスト」も読めずに、社会科学的知識をまるで持たないまま100年以上経過してしまったことです。

話戻しまして、坊っちゃんは一時期山嵐と険悪な状況になります。両者の間をカネが、一銭五輪が阻みます。しかし後に坊っちゃんが引っ込めて、両者は仲直りをします。たかが氷水代の一銭五輪を境界線として利用しています。上手い作家です。

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1回めのワルプルギス、すなわち宿直中の生徒のいたずらの最中で、唐突に夢の話が出ます。

坊っちゃんは十六七の時ダイヤモンドの夢を見ます。目を覚ましてそれが夢だったと気づかず、「今のダイヤモンドはどうした」と非常な勢いで尋ねて家族にしばらく笑われます。それくらい夢と現実が曖昧になる、だから今の騒動も夢だったのじゃないかと、生徒にいたずらされながら思います。

これは少し無理しながら、頑張ってワルプルギスしている文章です。ワルプルギスの夜の最中、ファウストは金の原石湧出を見るシーンがあるのです。ファウストの理屈上の消化が不十分なくせに、頑張ってそこそこ自然に描写できているのですから、漱石という人の文才は本物だったのでしょう。

2回目のワルプルギスでは、なんこを掴む、拳を打つシーンがあります。はし拳です。博打にもなります。おそらくこのシーンでは勝敗で酒の飲ませっこしていたはずで金銭移動があったかどうかは定かでありませんが、しかし頑張ってワルプルギスにしようとはしています。

かげま

作中山嵐と坊っちゃんがメフィスト赤シャツの悪口を言います。

「あんな弱虫は男じゃないよ。全く御殿女中の生まれ変わりかなんかだぜ。ことによると、あいつの親父は湯島のかげまかもしれない」
「湯島のかげま、たあなんだい」
「なんでも男らしくないもんだろう」

かげまとは男娼です。ひどい言いようです。作中もうひとり「おとこおんな」の役を与えられている人がいます。坊っちゃんの兄です。「この兄はやに色が白くって、芝居の真似をして女形になるのが好きだった」もちろん坊っちゃんは兄が嫌いです。この二人は坊っちゃんから見れば、似通ったキャラです。
坊っちゃんから見て似通ったキャラはもう一組あります。山嵐と清です。いずれも正義を追求、金額は違いますが坊っちゃんに奢ります。

清:元来由緒あるものだったそうだが、瓦解(幕府瓦解=明治維新)のときに零落して、つい奉公までするようになったのだと聞いている
山嵐:会津出身

この二人は賊軍の人で、坊っちゃんに味方します。つまり坊っちゃんは賊軍の人なのです。

スサノオ?

以下の考察は実は少々証拠不十分なのですが、勢いに乗って書きます。坊っちゃんは例えばナイフで指を切り刻みます。刃物を使うのです。(ちなみに山嵐も剣舞をしますし、二人で土佐の剣舞を見て関心します)あるいは人参畑を荒らしたり、井戸を塞いだりします。農耕の邪魔をします。喧嘩して相手は下に落っこちます。冒頭では二階から飛び降ります。これら属性合わせると、スサノオになります。

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ナイフ使いは、スサノオが八岐の大蛇を切り刻むこと、
農耕の邪魔は、スサノオが田んぼの畦をこわすこと、
相手を下に落とすのは、機織り場に馬を落とすこと
二階から飛び降りるのは、おそらくスサノオの天界追放を表しています。

おそらく漱石の頭の中では、スサノオ=武家というくくりだったのでしょう。となると、仲の悪い兄、およびメフィスト赤シャツはなにか。天皇です。アマテラス=天皇というくくりになります。この兄弟、というか姉弟は、早くに母を亡くすところも日本神話です。兄(姉?)が九州にゆくところも神話と整合的です。天孫降臨は九州ですから。

ゲーテの「ファウスト」は旧約聖書ヨブ記を下敷きにしていますから、ユダヤ=キリスト教の部分に日本神話を代入した漱石の戦略はなかなかクールです。しかし漱石、かなり危ない橋を渡っていますね。上記の読みを採用するならば、「坊っちゃん」は反天皇小説です。

負け犬の遠吠え

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実は日本近代文学は、賊軍系が多いです。表で青が賊軍系、濃い青は、濃い賊軍系です。だいたい賊軍系です。三島くらいになるともう遠い昔なのであまり関係なくなりますが。元来官軍のほうが少ないのですから、賊軍系が多いのもある意味当たり前です。負けた不満が中に込められるのもいたしかたありません。

漱石も遠祖は家康の家臣で、夏目家は江戸のかなり大きな名主でした。庄屋、つまり准家臣と考えて間違いありません。反天皇といっても、幕府への忠誠心を勘案すれば、情状酌量の余地はあります。ですが漱石、芥川のメインストリームで引かれ者の小唄的な、被害者意識満載なテイストだったのはやや問題だったかもしれません。実際に幕府は紙幣を表立っては発行していません。各大名は藩札発行していますが。不換紙幣発行したのは明治政府です。幕府は通貨発行戦争に負けたのです。幕府サイドの漱石も、それを理解していません。紙幣を銀貨に変換する清をよしとしています。だから負けたのに。まるで今日の日本です。三十年負け続けても、まだ負けたという自覚がありません。「坊っちゃん」を単純な勧善懲悪物語と理解しているくらいですから。

過ぎゆく人々

東京に戻った坊っちゃんは、清と世帯を持ちます。清は病気で死ぬ前、

「後生だから清が死んだら、坊っちゃんのお寺へ埋めてください。お墓のなかで坊っちゃんの来るのを楽しみに待っております」と言います。

「だから清の墓は小日向の養源寺にある」

小説「坊っちゃん」はこれで終わりです。批判も書きましたが美しい物語ですね。過ぎゆく時代の、過ぎゆく人々への尽くせぬ思いが込められています。

平家物語、太平記、本能寺、大阪夏の陣、いずれも滅びの物語ですが、どうも明治維新にはそのような物語が不足していたと思います。幕府サイドを美しく描けていない。だからこの作品が存在する必然性があった。そういう意味では忠臣蔵より抜本的な物語です。武士の時代そのものを追悼する内容になっています。
小日向の養源寺にあるお墓は清のものではなく、漱石に文学を勧めた米山保三郎のものです。米山は29歳で早逝しています。本作執筆時にはもちろん故人です。追悼と感謝の意味を込めて、物語の楽しさと、建築の構築性を合わせ持った作品の末尾に、漱石は「小日向の養源寺」と書き入れたのでしょう。米山の祖母が清という名前らしいです。








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