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「市民ケーン」解説【オーソン・ウェルズ】

有名作品ですのであらすじは省略します。

「闇の奥」と「短刀を忍ばせ微笑む者」

役者オーソン・ウェルズは映画を作ろうと思いました。最初に検討したのはコンラッドの小説「闇の奥」です。しかし検討するとどうも予算が2倍くらいかかりそうです。断念してニコラス・ブレイクの冒険小説「短刀を忍ばせ微笑む者」にしようと考えました。女性が大活躍して反政府組織をつぶす話なのですが、ヒロイン候補の女優に断られます。これも断念して、最終的に新聞王ハーストをモデルにした、「市民ケーン」を作りました。

当初の案のコンラッド「闇の奥」は、アフリカ植民地での残虐行為を描いた作品です。こってりとした重層的な物語です。

のちにF・コッポラがベトナムに舞台を変えて映画化しました。「地獄の黙示録」です。

これも同じく重層的でして、戦争の狂気を描いているように見せながら、アメリカの八百長戦争を批判しています。
次の候補だった「短刀を忍ばせ微笑む者」は普通の冒険活劇です。

しかし中で使われているトリックがいちいち重層的です。例えば女主人公たちが秘密のカジノクラブに潜入しようとします。押し入ったところは普通のレストランの支配人部屋です。でも変な取っ手を押すと扉が開き、秘密の部屋に入れます。その時女主人公は、支配人がこっそり机の下のボタンを押しているのを見ます。いざ秘密の部屋に入ってみると、中の人々が一斉にこちらを振り向きます。部屋の真ん中にはルーレットがあります。今まさに玉が回転盤を動いているところでした。やはり秘密のカジノだったのです。
しかしその後、女主人公は推理します。あそこは秘密のカジノではなく、彼らはルーレットをやっていたのではなかった。なぜならば、普通賭け事に熱中している人は、扉から人が入ってきても、そんなことには見向きもしない。ルーレットの玉だけに集中しているものだ。だが彼らは一斉にこちらを振り向いた。つまり彼らは賭け事に集中していなかった。支配人はどうも机の下のボタンを押していた。警報音が部屋で鳴ったはずだ。部屋の中の人々は、その警報音を聞いて、ルーレットをしているふりをした。つまり彼らはルーレット以外のことをあの部屋の中でやっていたはずだ。
その推理は正しかったのですが、「短刀を」は全編この調子の裏読みの連続です。オーソン・ウェルズはマジック好きの人ですので、こういう作品を好むのですね。では「市民ケーン」の重層性はどのへんにあるのでしょうか。

新聞とニュース映画

映画の中でニュース映画記者は、ケーンの最後の言葉の「バラのつぼみ」の意味を探りますが、結局わかりません。真相には到達できないのです。過去の、個人的な問題だからです。ニュース映画の限界です。マスコミの限界とも言えます。
しかし調べられる方のケーンも新聞社を経営していて、たくさん記者を使っていた。ケーンの新聞は真相に到達していたのでしょうか? もちろんしていません。実際米西戦争はケーンの新聞が煽って実現したようなもので、新聞の都合で現実をねじまげていただけで、現実を正しく認識できたわけではないのです。無責任新聞の主が、最後に無責任報道の罰をくらうのです。

そして視聴者が鑑賞するのは、「市民ケーン」というニュース映画会社の調査の記録です。これが表層になります。

第二層も第三層も、まるであてにならない情報でした。では表層はあてになるのか。無論なりません。しかし視聴者は、第二層、第三層があてにならない情報だということだけは認識できるのです。なにか裏がありそうだ。ルーレット部屋をみつけた、中の人が一斉にこちらを振り向いた、そういう状態です。

時系列

作品の構成は、

となります。新聞王ケーンが死にました。そのニュース映画の試写がまずは流れます。しかし内容が不十分です。おそらく最重要と思われる、死去直前の最後の言葉、「バラのつぼみ」の意味が分かりません。映画の記者は故人の知り合いを次々と訪ねますが、記者たちは真相は明らかにできません。しかし視聴者は、子どものころの橇に描かれていたのがバラのつぼみだと認識できます。記者が立ち去った後、最後に火に投げ入れられますから。

映画では時系列はぐちゃぐちゃなのですが、類推含めてケーンの一生を並べるとこうなります。

赤の西暦だけは映画内データーに依拠した確実情報です。白の西暦は不確実です。年齢はプラスマイナス2年程度の誤差が発生します。イベントの前後順序はだいたいあてにできます。要するに私の推定が不確かなのですが、十分な情報が無いので仕方がありません。でも作品の主旨は把握できます。

本作の重層性を見る上で最重要箇所は、青の部分です。議会での告発です。

1871年、ケーンの母親から鉱山の権利証を預かる代償として、銀行家サッチャーはケーンを引き取り、寄宿舎に入れて教育を施します。権利証は宿代のカタに老人からもらったもので、もらった1868年当時はろくに価値がないとみなされていました。その真価をいち早く見抜いたのですから、銀行家サッチャーは恐るべき慧眼です。雪だるまをつくったり、橇に乗っていたりしていた少年は、両親と引き離されて単身都会に連れてゆかれます。

しかしケーンは(サッチャーの見方によれば)投資の価値がわからないお馬鹿さんで、新聞社経営のようなろくでもないことばかりやっています。段々仲が悪くなってくる。1925年、銀行家サッチャーはアメリカ議会で、「ケーンは共産主義者だ」と証言します。書いてある声明を読み上げるスタイルです。事実上の告発です。

「Mr. Charles Foster Kane,in every essence of his social beliefs and by the dangerous manner,he has persistently attacked American traditions of private property initiative and opportunity for advancement is, in fact, nothing more or less than a communist」

4年後、大恐慌が襲ってきます。ケーンは新聞社、関連会社を手放します。相談役として影響力は維持できますが、銀行家サッチャーから年金もらう生活になります。早く言えば飼い殺しです。つまりケーンは、サッチャーに敗けた。サッチャーは「恐慌は一時的だ、まだチャンスはある」とおためごかしを言いますが、ケーンは「あんたみたいな人になりたくなかった」と最後まで敵対的です。

バラのつぼみとガラスのボール

1871年、両親から引き取るときから、ケーンはサッチャーに敵対的でした。そのことは世間が知っていました。

上述の1925年のアメリカ議会で、出席者の一人が発言します。
「(ケーンとあなたとの)確執の原因はあなたを橇で殴ったことですか?」

列席している議員たちは笑います。つまり、議会のみんながサッチャーとケーンの不仲を知っています。昔の出会いの時のエピソードを、なぜか全員知っているのです。なぜなのかは作品中で説明されていません。サッチャーがどこかでもらした話が、政界に拡がっていたと解釈できます。その席でサッチャーは「ケーンは共産主義者だ」と告発します。つまりこの時、議会の皆がサッチャーの味方、ケーンの敵なのです。ケーンは金融界のみならず、政界も完全に敵に回してしまったのです。4年後のケーンの敗北、破産には、単に大恐慌の影響というだけではなく、サッチャーを含む巨大な権力の意志が背景にあったことを想像させます。この議員の笑いが、本作最大のポイントになります。短く、非常にわかりにくいのですが。

1871年のケーンとサッチャーの出会いの時、ケーンは両親の元を、特に母親の元を離れたくなくて、抵抗します。サッチャーを橇で殴りつけます。議会の人々が知っている通りです。

その橇に描かれていたのが「Rose Bud」、バラのつぼみです。

ケーンは確認されているだけでも2回「バラのつぼみ」という言葉を口走ります。一度は二回目の妻、スーザンが出ていった時、二度目は死ぬ直前です。両方ともガラスのスノーボールを手に持っています。スノーボールには家が、つまりケーンが両親と生活していた時の風景が入っています。

「バラのつぼみ」という言葉とガラスのボールはセットです。このセットは母の愛情の象徴であると同時に、そこから自分を引き剥がす資本への反抗の象徴です。

ガラスのボールは元来スーザンに家にあったものです。ケーンは母の遺品を見にゆこうとしている途中ではじめてスーザンに出会います。会話の中でスーザンは「(スーザンの)母は私をオペラ歌手にしたかったみたい」と言います。だからケーンはスーザンをオペラで成功させようと必死になります。結果は失敗なのですが、その時スーザンに家に置いてあるのがガラスのスノーボールです。

スーザンとの生活はつまり、ケーンにとって母との生活のやり直しだったのです。だからスーザンが家を出てゆく時、ケーンは年甲斐もなく涙を流して引き止めます。母との二度目の別れだからです。でもスーザンは出てゆきます。ケーンはガラスのボールを握りしめて、「バラのつぼみ」とつぶやきます。

はじめてサッチャーに会った時から戦い続けてきたケーンは、完全に資本に敗北したのです。本作は人間の愛が資本に敗北する物語なのです。

鉱山

ケーンの母が権利証を入手した鉱山は、金鉱山です。世界三位の産出量です。ケーンはそのゴールドを元手に、新聞を刷ります。新聞業としては大成功をします。でも投資がわからず、資本をジリジリ食いつぶして最終的には全てをサッチャーに奪われます。なんのことはない鵜飼いの鵜です。ケーンは新聞のかわりに、ゴールドを元手に紙幣なり有価証券なりを刷ればよかったのです。
新聞の山が

美術品の山になる映画ですが、

紙幣を刷っていれば美術品のかわりにビル街が存在したでしょう。でも意図としては特定の新聞王を馬鹿にしているのではないのです。ウェルズは社会全体、システム全体を批判しています。

本作は「ニーベルングの指環作品群」に含まれます。

「闇の奥」の代わりの企画だから当然ですね。巨大邸宅は指環とギャツビーの影響。スーザンがオペラをするのは、「指環」まんまです。「指環」でヴォータンは自分の地位を守るために英雄の霊を収集します。ケーンの彫刻収集はそれの反映です。「闇の奥」クルツの象牙収集も下敷きになっています。

ギャツビーのごとく、結局愛を取り戻せずにケーンは敗北します。「ニーベルングの指環」を所有するものは、全ての愛を諦めなければいけないのです。ケーンもいやなものを所有してしまったものですね。

本作は長いこと良いプリントがなく、劣悪な状態のものを鑑賞しなければならなかったのですが、最近になってようやくまともな画質で見れるようになりました。一方で映画としての評価は以前からきわめて高かった。そしてそんな高い評価にもかかわらず、オーソン・ウェルズは映画人として成功していません。多分ウェルズは、踏んではいけない虎の尾を踏んだのだと思います。そしてそれゆえに、やけに映画人に愛される作品になったのではないでしょうか。第四層は映画人にとっても、重要な、気になる存在ですから。

技術

映像技術は充実しています。だから名作と呼ばれます。

ここの割れたガラス天井の下の部屋は、

「ニーベルングの指環」のラインの水底を暗示していまして、離婚したスーザンは水底に居ます。そこは愛を諦めなくても良い場所、貨幣経済の呪縛力が及ばない場所です。この着想はのちに「パルプ・フィクション」でも使われます。

当時としては素晴らしい映像技術のオンパレードですが、現在の映画好きですと全て見たことがある撮影方法だと思います。興奮はしにくい。撮影そのものでは7年後の「上海から来た女」のほうが出来はよいです。こちらは現代人でも楽しめます。いいカメラです。

しかし「史上最高の映画ランキング」では本作と「ゴッドファーザー」が大抵一位を争います。私は「ゴッドファーザー」のほうが遥かに上だと思います。なんで互角の扱いなのかわからない。「市民ケーン」は時系列グチャグチャ系だから評価が高いのかもしれませんが、それなら「パルプ・フィクション」のほうが上手くいっていると思います。そもそもなんで時系列錯綜だけで評価が上がりがちになるのか納得していません。錯綜する物語は、自然な盛り上がりに欠けると思っています。

しかし気になる情報ありまして、言語学の本によれば、

疑問文でのS、V倒置(Is this a pen?)は西洋語の特徴であり、特に強く現れるのが英語とイタリア語だそうです。物語における時系列倒置となにか関係ありそうです。私の感触でも英語系とイタリア系に、時系列倒置作品が多いです。

無論タランティーノはイタリア系。「ニーベルングの指環作品群」ではないですが、同じイタリア系のコッポラの

も時系列錯綜します。「市民ケーン」やこれらの作品は、英語圏、イタリア語圏の人々は日本人よりも自然に楽しめるのかもしれません。残念ながら私は純然たる日本人で、かつ英語が苦手なものでして。


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