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地獄の黙示録 解説【ワルキューレの騎行】

「ワルキューレの騎行」を聞くと、地獄の黙示録を思い出します。オペラ「ワルキューレ」を思い出す人はあまり居ないはずです。実際にオペラ「ワルキューレ」の舞台を見ると、あまりのショボさに呆然とします。歌手が数人歩きまわるだけです。ヘリコプターも飛ばないし、ナパーム弾も炸裂しないのです。

映画史上最高の戦闘シーン

「地獄の黙示録」の魅力の90%は、ヘリ部隊による空襲シーンです。暁の空に浮かぶヘリの戦隊、高らかに鳴るワーグナー作曲「ワルキューレの騎行」、編集の切れ味、音楽と映像の最高の結びつきが見れます。映画に興味がある人ならば、かならず見なければならないシーンです。

1979年製作です。ありえません。絶妙です。最初の学校の校庭が、無残な姿に変容してゆきます。予算をかけた映画は、その後沢山出ました。しかしワーグナーを使う格調の高さは他に得られないものです。もしもコッポラの作品がこの戦闘シーンのみだったとしても、映画史上に名を残したでしょう。

このシーンのみ編集終わったら、黒澤明に見せに行ったらしいです。見た黒澤は褒めてくれたらしいです。コッポラ大喜びです。黒澤も偉いですね。

撮影はヴィットリオ・ストラーロ、イタリア人です。ベルトリッチの「暗殺の森」など撮影しています。逆光の美しさは特筆ものです。名人芸です。

しかし、全体としてはつまらない

全体としては面白くありません。ストーリーがわかりにくく、感情移入できず、意味不明です。どこが問題だったのでしょうか? 実は問題は多すぎて、地獄で黙示録読んでるような気分になります。しかしおおまかにでも解明してゆきましょう。

(原題はApocalypse Now、現代黙示録という意味です。Apocalypseというのは、覆っていたものを明らかにするという意味で、「黙示録ではなく明示録が正しい翻訳ではないのか」という説もあり、探求しだすと収拾つかなくなりますが、それはさておきこの難解な作品の覆いをとりはずしてみましょう)

俳優が問題

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主演のマーティン・シーン 存在感がありません。とてもよい人です。環境適応能力が高く、ジャングルでのロケ撮影では心強かったようです。でも存在感が無いのです。役柄は「殺し屋」です。殺し屋業界ではおそらく最高レベルの善人と思われます。見ていると幸せになりますが、迫力はゼロです。

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助演のマーロン・ブランド。天才です。でもゴッドファーザーの時のようなやる気がありません。ゴッドファーザーで十分儲けてしまって慢心したのでしょう、物凄く太って現場に現れました。撮影に困ったそうです。
撮影しにくいのですから、存在感があるはずありません。プクプクとしてお相撲取りのような体です。役柄は苦悩するストイックな戦士です。無茶にもほどがあります。

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ビル・キルゴア中佐訳のロバート・デュパルは素晴らしいです。「ゴッドファーザー」のトム・ヘーゲンと同一人物とは思えません。身勝手で、攻撃的で、気が強く、子供っぽい役です。しかしキャラが立ちすぎて、主演、助演を食っています。結果映画のバランスが悪くなっています。彼が主役だったら良い映画になっていたと思います。配役って難しいですね。

デュパルがダメなら、デニーロを主役に使えばよかったと思いますけどね。

実際には主役が決まらず大変な経過を辿っています。アル・パチーノ、ロバート・レッドフォード、スティーブ・マックイーン、ジャック・ニコルソンと交渉不成立、起用したハーヴェイ・カイテルの演技が気に入らなくて降板させました。地獄の交渉録です。結局マーティン・シーンが主役になりました。そして存在感が足りなくて、物足りない映画になりました。難しいですね。

原作が問題

原作はポーランド生まれのイギリスの作家、コンラッドの代表作の一つ「闇の奥」です。「地獄の黙示録」と同じく、川をさかのぼり、自分の心の中をさかのぼります。

まともに解説した文章が見当たらないので、自力で細かく読み解いてみましたが、面白くありません。密度がむやみに高いだけです。

仕事に疲れて帰ってきて冷蔵庫を開けます。冷蔵庫の中は満杯で、ぎゅうぎゅう詰めすぎて、食品を取り出すことが出来ません。そんな感じの小説です。みなさまに一読を勧めて良いのか悪いのかさえ私にはわかりません。

ともかく基本構造は「闇の奥」そのままです。

「闇の奥」のさらに下敷きはワーグナーの「ニーベルングの指環」です。「ワルキューレ」はその中の二番目の作品です。だからコッポラはこの映画で「ワルキューレの騎行」を使ったのです。こういうところは必然的で良いです。

読んで普通に面白い原作なら、映画も面白くなる可能性があります。しかし「闇の奥」は面白くありません。難解で知られる作品です。

脚本が問題

ジョン・ミリアスという人の脚本です。実際にはコッポラが編集でいじりまくっていますが、なんとなく原型を想像することは出来ます。闇の奥をかなり忠実に再現しています。そして、その時点で敗北が確定しています。その後いくらいじっても無駄です。

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カーツ大佐(闇の奥ではクルツという社員)が目的地に居るのですが、闇の奥同様、それまでに出会う人々の属性が合体した存在です。こんなとこ忠実に踏襲して、エンタテイメントになるはずありません。文学史上稀なマニアックな書法です。上級者向け、なんてものじゃありません。

細かく分析せずに、一度見ただけで「闇の奥」なり「地獄の黙示録」なりを面白いと思う人、本当に居るんですかね。ほとんど居ないと思います。コンラッドは有名作家ですし、コッポラも有名です。ネームバリューに押されて、なんとなく納得しているだけじゃ無いんですかね。

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参照として、一応原作の「闇の奥」の登場人物表も置いておきます。「クルツ」という人物を描くのに、それまでの登場人物すべての属性を、クルツにかぶせる、という奇抜で徹底した手法を取っています。

実は私が読んだ解説のすべてが、この「闇の奥」の構成読み解けていませんでした。手間がかかりましたが自力で読み解きました。だから「地獄の黙示録」の構成も、誰も読み解けていない確率高いです。「闇の奥」よりは解読しやすいですが、、、

貨幣はどこ?

「ニーベルングの指環」の存在意義は、珍しく貨幣を問題にしているところです。貨幣というか、通貨発行権を問題にしています。通貨発行権と王権のからみがドラマをうごかします。「闇の奥」ではそれが矮小化されて、象牙、つまり高価な商品だが、武器のようでもある物になります。そして「地獄の黙示録」は、王権、軍事権のみの世界です。現代社会の最大の問題である通貨発行権が消え去っています。
カーツ大佐が西郷札のようなものでも発行してくれればもう少し話が深くなったのですが。

仏教はどこ?

元来「ニーベルングの指環」はキリスト教から少し外れた、仏教的なニュアンスがあります。「闇の奥」にもそれは若干反映されていて、冒頭と末尾の語りは仏陀の姿勢ですし、途中では脇腹に槍が刺さります。そこからクルツとの出会いがあるのですが、これは仏陀の誕生を、叡智の誕生を暗示しています。

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ところが「地獄の黙示録」では、投槍は脇腹ではなく背中に刺さります。「闇の奥」の良さが全くなくなっています。「ニーベルングの指環」に先祖返りしています。

ミリアスとコッポラ、おそらくこの「仏教的叡智」というコンラッドの意図、読めてなかったと思います。結果物語が薄くなっています。

聖書はどこ?

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「ニーベルングの指環」では、旧約聖書の「命の木の実」と「知恵の木の実」が、物語中に分配されています。

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「闇の奥」には該当するアイテムはありません。「地獄の黙示録」では「命の木の実」が牛肉に、「知恵の木の実」がドラッグになっています。そこは上手に対応させました。しかしストーリー上の必然性はあまりありません。「ニーベルングの指環」を知っている人がニヤリとするだけです。意味がありません。

という風に、政治経済、宗教の重要な要素が脱落してしまっています。

理解不十分仮説

以上見てきたように、ミリアスもコッポラも、「ニーベルングの指環」および「闇の奥」の読み込みが、どうも不十分であったようです。理解不十分なまま映画製作にとりかかってしまったのです。

読み込み不十分な箇所は、上記のほかにもあります。原作「闇の奥」のクルツは最後に恐怖を悟れて、「恐怖だ、恐怖だ」と言うのですが、「地獄の黙示録」では、主人公がカーツに出会った時には既にカーツは恐怖のなんたるかを把握しています。

クルツの人格が複合体である、ということは読み取れています。ストーリーがそうなっていますから。しかし他の要素については、なんとなくの直感で理解していたようです。不十分な理解ですから応用も効いていませんし、内容が上記二作に比べて薄いものになっています。

もっともたとえそうでも面白ければ良いのです。しかし製作者の原作の消化が不十分で面白くなる確率は、非常に低いです。この場合、映画の神は高い確率のほうを選択しました。

トドメで日本語翻訳の間違い

間違いあるいは誤訳と言うと言いすぎかもしれませんが、題名が違います。「地獄の黙示録」ではなく「現代黙示録」です。そしてカーツ大佐の最後の言葉も、「地獄だ、地獄の恐怖だ」ではありません。「The horror! The horror」ですから、「恐怖だ、恐怖だ」のはずです。

おそらく事情はこうです。コンラッド「闇の奥」の翻訳で、中野好夫が「The horror! The horror」を「地獄だ、地獄だ」と翻訳しました。中野は「闇の奥」が「ニーベルングの指環」を下敷きにしていること、クルツ(カーツ大佐)がジークフリート役であること、ジークフリートはそもそも恐怖を知らず、恐怖を知るために大蛇(「闇の奥」でのコンゴ川」)に挑んだことを読み取れませんでした。それで「恐怖だ、恐怖だ」と翻訳するべきを「地獄だ、地獄だ」と訳しました。

映画「Apocalypse Now」の翻訳者は、「闇の奥」が下敷きになっていことは分かりましたので、中野訳を参照しました。そして中野と同じく、背後に「ニーベルングの指環」があることが読み取れませんでした。それで最後の言葉も「地獄だ、地獄の恐怖だ」になったし、題名もそれに引っ張られて「地獄の黙示録」になりました。

「闇の奥」は文明社会による未開社会の植民地搾取の偽善を告発した作品でした。それを翻案したこの映画は、「ベトナム戦争はアメリカの偽善による八百長戦争だ」と告発しているのです。しかし米軍の協力を得ている撮影なのではっきりとは言えない。だから最終盤でのブランドの台詞がわかりにくくなっています。
朝鮮戦争、ベトナム戦争などがアメリカの八百長戦争であるとの認識は、今日では一般的になっています。監督のコッポラはそれをいち早く指摘しました。そういう意味では優れた映画です。


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