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吉本隆明『詩歌の呼び声 岡井隆論集』対話ノート

時:深夜から夜明け

場所:あの世の果ての庵 仏間

主人:隠居、短歌が趣味、66歳

客:隠居の旧友、死者、享年28歳

『重要なものは隠れ、さり気ないものは現れる、たゆみない習練の果てだ。』本書 314頁 以下同じ

主「やはりびっくりしたね」

客「あの吉本隆明が、岡井隆について、これほど大量の文章を残していたとは。編者の松岡祥男の努力の賜物だろう」

主「感謝しなければ」

客「同感だ。松岡がいなければ、この書物は、この世に存在していない」

主「せっかく貴重な本が出版されたのだが、どこから紹介すればよいのかわからないんだ。それでわざわざ旧友の君を呼んだ。話しながら、道筋を探し出せないか」

客「問題は、吉本が、なぜこれほどに、岡井隆に興味と関心を抱き続けてきたかだな」

主「吉本の足跡を抜粋することで、岡井隆の魅力とともに、彼の存在が現代短歌に対して、なお問題を提起していることを、明らかにできればと思うんだ」

客「正直なところ心もとない。僕は、若い頃は短歌に興味がなかった。お互い吉本を読んでいたのは、大学生時代の話になる。それに僕は、レテ河の水を飲んでいるからなあ」

主「こっちも、同じようなものだ。物忘れが激しいよ。もう四十年以上の昔になるかあ。短歌も趣味の域を出ない。だが、敬しているふりをして、遠ざけるような真似はしたくない。なんとかやってみる」

客「それで、君はどう読んだんだ?君のことだから、どうせ腹案はあるんだろ?」

主「今夜は、六つの方向から考えてみたい。岡井の1/人柄、2/同世代、3/資質、4/言葉、5/姿勢、6/作品……」

客「まずは、人柄か」

主「吉本は次のような率直な回想をしている」

『僕は、岡井さんと激しい論争をしたことがあるんですが、それは定型・非定型みたいな問題のことなんです。僕は論争すると、たいてい口をきかねえとか、あいつとはもう一生あわねえというふうになっちゃうんですが、岡井さんというのはそうじゃなくて、気持ちが良かった唯一の論争相手だったんです。それで、僕には貴重な人だと考えて、ふだんはおつき合いがないんですが、岡井さんが作られた歌はできるだけ読むようにしてきました。』257~258頁

客「「唯一」という言葉が重いね。「貴重な人」か」

主「吉本は論争の人であったからなあ。この本の「定型と非定型ー岡井隆に応える」を読むと、若い読者は、ちょっと驚くだろう。言葉がきついから。よく二人の関係が続いたものだ。岡井隆のふところの深さが偲ばれるだろ」

客「吉本もだな。かかってくれば、いくらでも相手をする。そう明言している。関係を切ったわけではない。扉は開かれている。そして、敵であったとしても、岡井隆の実力を認めたんだ」

主「岡井隆も、吉本との対談で、こんなことまで言っているよ」

『人間というのは弱いもので、弱点だらけで、怠惰が大好きで、欲ということなら際限がない。病院なんかで長いあいだ毎日何十人とつきあっていくと、これが現実で、自分のなかを眺めると自分もまったく同じですから、自分をふくめたこういう人たちが世界をつくって生きているんだと、ぼくはいつでもそう思っているんです。』123頁

客「岡井の医師としての肉声がきこえる。この発言を自然にさせてしまう、吉本の人格の大きさも想定できる」

主「次は同世代ということ。吉本は1920年。岡井は1924年の生まれ。吉本は次のように述懐している」

『この作者ほど、真正面から歴史にかかわって過ごしてきたとは言えないが、軍国主義から左翼系まで体験として受け止め、経験の細部を削り落としてゆけば、残った本質は、ぴたりと一致する。』312頁

客「吉本は謙遜している。大切なのは、二人の本質が、ぴたりと一致するとまで、明言しているところだな」

主「同世代というのは、ありがたいものだ。互いに口で詳しく説明しなくとも、腹で分かり合えるところがある」

客「詠み慣れていない読者の感想を言わせてもらうと、岡井隆の短歌には、何か重要なところが隠されている気がするんだ。わかりにくいところがある。だが、個人的な経験を除外すれば、吉本には分ると言う実感があるようだ」

主「3番目は資質について。『神の仕事場』に次のような個所がある」

『歌人の体験の成熟や生活の経験と資質の働きの偶然の融合も含めて、言葉が稀にみるよい培養器のなかで育まれているせいかもしれない」302頁

客「そうなのだろうが、資質と言われてしまうと、岡井個人に帰せられてしまう。後世が簡単に真似られるところではない。君の現代短歌への影響を探るという目的からすると、あまり有効な視点とは思えないな。ところで、歌集『神の仕事場』(砂子屋書房 1994年)に関する文章が目立つね」

主「そうなんだ。「『神の仕事場をめぐって』」「『神の仕事場』と『献身』」「『神の仕事場』の特性」。それに対談「日本語の遺伝子をめぐって」も、同じ時期のものだ」

客「あるいは、吉本の岡井隆の仕事への再発見の機会だったのだろうか?」

主「そうかもしれない」

客「君の指摘した現代短歌につながる問題としてならば、4番目の言葉の問題の方が分かりやすくはないか」

主「それが、そうとも言えないんだ。次の部分は、比較的に納得しやすい点だろうか」

『岡井隆の近作を読んですぐに眼に付いたのは口語脈(というよりも街頭口語脈)を定型のなかに入れようとしている印象だ。」288頁

主「「街頭口語脈」は、都会などの通りでよく耳にする話言葉のことだろう。「脈」は、「脈絡」というときのあの「脈」かな。続いて耳にするということで。吉本の造語だろうか」

客「こういうところが、吉本は難しいね」

主「でも、渋谷の街角で、よく今どきの女子高生が使っている言葉などを、わざわざ特集するテレビ番組がある。あれを連想すればいいだろう」

客「いずれにしても瞬く間に流れ去ってしまう。水脈のようなものか。時代の流れを映してはいるんだが、長くは持たない言葉だ」

主「むしろ言葉という問題でより重要なのは、次のような発言だろうか」

『街頭の口語のように、永遠の場を断ち切って、現在(いま)を活性化しようと試みている』291頁

客「永遠よりも今なんだな。斎藤茂吉の写生のように生の根源を映すということとは違う」

主「ここまでは、用語の選択の問題なので、まあ、わかりやすいんだが、次のような指摘になると、より難しい」

『短歌的な言葉における音と意味の臨場感から、言葉の意味が意味のままメロディを発生する瞬間を表現として捕えた」299頁

客「いや『神の仕事場』を読み終わった後の実感としては、わかるところがあるよ。読んでいて気持ちがいいんだ。けれども、次の「日本語の遺伝子」は、さらに厄介だな」

『日本語の、伝統とは言いたくないので遺伝子といっておきますが、そうしたものを表現できるのは短歌だけで、日本語の遺伝子を摑まえることができるぎりぎりのところにいるのが短歌だという気がするんです』123~124頁

客「吉本が、そういう気がしても別にいいんだが、俺には関係ないよという人も、いることだろう」

主「それでいいんだよ。別に賛成するだけでなくて、反対する立場での読書があっていい。自分で調べていくことができる」

客「君としては、無視して通り過ぎることだけは、して欲しくないということなんだよな」

主「今回は、『言葉の呼び声 岡井隆論』を手に取ってもらいたいので、吉本が岡井のどのような短歌を引用しているか。6番目の問題とした具体的な作品例については、ここまでは挙げないできた。実際に、本文にあたってもらいたいからだ」

客「あくまで吉本からの、岡井短歌への感想のみを取り上げていくということか」

主「そうだ。次に5番目の岡井の姿勢についてに入ろう」

『現今の岡井隆は自己劇化よりも自己解体のわざで短歌(古典詩形)の延命を試みているようにおもえる。この試みが普遍性をもつ度合いで若い(後世代)歌人に影響を与えているのではないか。」315頁

主「『現代詩手帖』の2007年6月号に掲載されている文章だが、鋭い指摘だったと思う。十年以上の射程距離をもって、現代短歌の状況を照らし出している」

客「(古典詩形)の定義は、本書の「短歌的な表現の問題」で定義されている。若い世代を(後世代)と注記しているのは、若くなくても岡井の影響を受けている人たちがいると、吉本が知ったからだろうな」

主「岡井隆の姿勢についていえば、次の問題もある」

『短歌の表現を生活の地面の方に開くことで、どんなこの地面の変化にもついていけるようにするほかない。』295頁

主「「生活の地面」が難しい。『短歌的表現』というものを地べたにくっつけて、地べたに向かって開く』283頁ともいわれている」

客「いわゆる大衆社会現象と言われるもの。大衆が生活している場所。そのもっとも低いところ。地面の高さから歌うということかな。現代短歌は、けしてエリート(選ばれた一群の人々)だけのものではない。ここも、別に自分たちは、普通に生きているだけで、地べたを這いつくばって生きているわけではないという反対意見がありえるだろう。上から目線で見下ろすのはやめてくれということだな」

主「だが、ここは吉本が岡井の変化について指摘しているところだ。吉本の1960年の文章では、短歌状況を以下のように概観していた」

『若い世代の歌人たちは、現代の散文の課題とおなじように、意味転換の複雑化によって、意味の響きあいによる表現の価値の増殖をもとめ、短歌的喩の成立を極限にまでおいつめる試みをやっている」202頁

主「短歌的喩については「短歌的喩の展開」で論証がなされている」

客「本文を読んでもらうしかないな。僕たちには無理だ。この若い世代に、岡井隆や塚本邦雄も入っていたわけだ」

『短歌的な発想の原型は、形象的なイメージや具象的な自然物を表現するという地点から、現代短歌においては、形象をともなわない超感覚的なコトバや抽象的なコトバをつかって、思想的な意味を感覚的に重層化する方向へ移動していることは、ほぼ想定できるところである。」160頁

主「これも同じ1960年の短歌を概観したものだ」

客「いわゆる前衛短歌の作品の特質を捉えていると思えるが、この試行錯誤は、読者を選ぶ。もうそういう時代状況ではないということか」

主「そして『神の仕事場』の特徴を、以下のようにも、吉本は読む」

『短歌的な喩法が、作品のなかで構成的な意味の機能と、暗喩としての機能とを重複してもつところに特質がある』183頁

『喩の解体と同時に喩の収縮だという、このふたつを同時にやっちゃっているということ、このことが『神の仕事場』の大きな特徴ではないかなというふうに思いました。」265頁

客「後の喩の「解体」と「収縮」というには、正直なところ、何を言われているのか、僕には理解できない。勉強が必要だ。

主「ともかく岡井の仕事において、「神の仕事場」までは1960年から一貫する性質がある。だが、さらに異なる傾向へも広がりを示していると、吉本が見ている。そこまではわかるだろ?」

客「うむ……」

主「最後に。ここまでの方針には反するんだが、歌集『家常茶飯』(砂子屋書房 2007年)から6番目の作品について。短歌一首を挙げて、結びとしたい」

死者モマタ老ユルトイフカ亡キ父ノソソケ髪(カミ)フカク山河(サンガ)覆フハ

主「吉本は「絶唱」とまで言っている。「ソソケ」は「そそけ立つ」というように普通に使うね。「そそける」は紙や織物や髪が「ほづれて乱れること」」

『絶えず探求をつづけてきたこの歌人がとうとう到達した円熟の実作の賜物』311頁

客「すごいな。吉本は岡井と父親との関係についても、着目していたからなあ。吉本は岡井隆を通して、本書の題名にあるように詩歌の呼び声に耳を澄ましてきたのだろう。その果てに、こうした歌に巡り合うことができて、よかったと僕は思うんだ。かつては敵であったが、互いの力量を認め合う。生涯の友となる。熱い。君子の交わりは淡きこと水のごとしであったとしても、岡井隆は、吉本隆明の目を意識していただろう。

主「以上で、僕が本書から引用したかった部分は、すべて挙げたことになる。もうすぐ夜が明けてしまうね」

客「一人でもいいから、この本を手に取ってほしいなあ」

吉本隆明『詩歌の呼び声 岡井隆論集』論創社

2021年8月10日 初版第一刷発行

定価 本体2,400円 + 税

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