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らくがきヱリ子さん~『給餌』冒頭

物心ついたときから、瞼を閉じると、わたしの目の裏はいつも青かった。漆黒の水に点々と青の絵具を落とし、やがて混じり合ってひっそりと青を裏に隠しているような、そんな青さだ。夜、狭い部屋に置いた二段ベッドで、わたしと兄は寝入りざまに目の裏に見えている風景についてよく話をした。兄はとても「寡黙な子」ということになっていて、父と母の前で声を発することはほとんど無かったけれど、わたしと二人きりになると左唇の端に泡を溜め、時にはそこから涎を垂らしながらよく喋った。兄妹の目の裏にはいつも、見慣れた生き物たちがいた。だから兄の瞼の裏も、わたしと同じ青色をしていたのだと信じている。
「わたしは、ダニエル、それからノミエールたち、あとはフィオナの影」
わたしたち兄妹は、馴染みの生き物たちに名前を付けていた。兄とわたしはクスクス笑った。わたしの目の裏には、近頃は毎夜ダニエルが居るからだ。ダニエルは二年前にやってきたカワウソ、ノミエールは小水槽にいるクマノミだ。
「ケイは?ケイには誰が見える?」
わたしが両足をぴょんと跳ね上げながら乞うように問うと、下段で兄がそっと瞳を閉じなおす気配がして、少し間を置いてから兄は、
「アニス、ソニアの尾鰭、フィオナの影」
と答えた。アニスは雄のタツノオトシゴ、ソニアは第二水槽にいる大きなシマダイだ。実際には、兄の声は、口の中にティッシュを詰め込んで苦しげに息を漏らすような掠れ音だった。アニッ、スンアンれ、フィんげ、というように。わたしと兄はまたクスクス笑った。だって兄の目の裏には、しょっちゅうアニスが居るから。わたしたち兄妹は、それぞれのお気に入りの生き物が誰かを知っていて、それが時たま入れ替わるのを当てたり外したりするのを面白がった。そして何故か二人とも、フィオナの影を目の裏に描くことを忘れる夜はなかった。フィオナは、ホルマリン漬けになって専用の大きな水槽に漂っている鮫の死骸だった。わたしが産まれるよりも前に、近くの砂浜に打ち上げられ、お金のかからない展示物としてここで飾ることになったらしい。液体の中で、牙を剥いたまま死んでいるフィオナの表情はどこか兄に似ていた。わたしはそういう理由でフィオナが好きだったのだけれど、子ども心にもそれは言ってはいけないことのような気がして、逡巡を隠すように、フィオナのことは「フィオナの影」と言っていた。だから、厳密な目の裏の描画とはちょっと違っていた。兄がどうしてフィオナの影、と言っていたのかはわからない。きっと、兄には兄なりの理由があったんだろう。わたしとは別の理由が。
兄の喋り方は独特で、聞き慣れていない人にはうまく理解できなかったと思う。そして、兄の声を「聞き慣れている人」というのはつまり、父でも母でもなく妹のわたしだった。水族館の仕事で忙しい父母に代わって、兄は赤ん坊に毛の生えたような幼い頃から、わたしによく語りかけてくれていた。今でも覚えているのは、臥面の高いわたしのベビーベッドの脇で「ジェエ!」と叫びながらリズムよく頭を突き上げていた兄の姿だ。兄はトランポリンで遊んでいるかのように(本当にトランポリンで遊んでいたのかもしれないが)、何度もにこやかにわたしの斜め上にぴょこんと顔を出しては消えた。兄は文字通り日がな一日それをやり続けた。世界のどこに生まれた赤子でも喜ぶらしいその喪失と再会への普遍的な興奮を、兄はわたしに無限に与え続けてくれた。わたしがあのベッド柵から転げ落ち、ついに部屋全体へと活動を広げるまで、ほとんど兄だけがわたしが認識した唯一無二の存在だったと思う。もじゃもじゃの柔らかい髪を揺らし、艶やかなピンク色の両頬を持ち上げてパアっと大きな口を開け、涎を垂らして「ジェエ!」と叫ぶ兄の姿はどこまでも明るくて、わたしへの愛に満ちていた。学校へ通い始めた頃、「わたしのことは、ジェエと呼んで!」と親友のアイシャにだけはこっそり頼んだりした。
わたしたち一家は、斜陽の街とともに褪せゆく民営水族館の詰め所に住んでいた。かつて炭鉱街として栄えたのち観光業に賭けて敗れた、二十世紀後半の概ねの経緯を乱雑になぞったような寂れた街だ。わたしたちの住むあの水族館は、この地方の畜産業に深く入り込んでいる乳製品メーカーが、まだ売却せずに残している数少ない施設だった。一時はもっとたくさんの企業が関わっていて、この地方をドライブしながら二日ほどかけて巡れる一大観光地網があったらしいが、当時まだ運営が続いていたのはアイスクリームチェーンが一つとあの水族館だけだった。
今振り返ると、当時あの水族館が存続していたのは、ひとえに両親が恐ろしく働き者だったおかげだと思う。来る日も来る日も水槽を巡回し、パープルのウェットスーツを着て、水槽の内側にすぐに張り付いてしまう藻を取り除き、水を撒いてはデッキブラシで辺りを磨き、調達した餌類を生き物たちの体調に合わせて調合し、水温を慎重に見極めて小刻みにダイヤルを回した。客まわりの世話も父母がこなしていた。入場客はいつでもまばらだったが、十一時と十四時にはタッチコーナーを設けていたから、母はコーナーに訪れる子どもたちにヒトデやナマコの説明をしなくてはいけなかった。それに、水槽を乱暴に叩く子どもを注意したり、時には具合が悪くなった子どもの吐しゃ物を掃除したり、ちょっとした揉め事の仲裁をしなければならなかった。そういうことは(父、曰く)母の方がうまかったから、母がこなしていた。開館時と閉館時に旗(魚の腹に牛乳瓶と同じマークが描かれている)を上げ下げすること、よく詰まる券売機をうまく叩いて直すこと、それから、生き物の説明文を新しく張り替えることは、父の役目だった。夏場には、毎日十五時に両親二人でアイスキャンディを手売りした。父母の白い腕の裏側が見えると、むしろそれを食べたいくらいに肌が滑らかでアイスキャンディが見劣りする気がしたが、来場した子どもたちがどう思っていたのかわたしは遂に知らないままだ。母は聡明、父は物静かで、二人の皮膚は焼く前のパンケーキみたいな綺麗な白みをしていた。陽光に当たらない暮らしをしていたのだから、当然と言えば当然だった(ついでに言えば、わたしたち兄妹もまた、おおむねそういう肌色をしていた)。
水族館の生き物が餌を食べなかったり病気になったりしたときは、父と母は交代で昼夜問わず観察を続けた。
「生き物は言葉を話せないからね。それに、弱っているところを見せようとしない。弱った姿を見られると、敵に狙われて食べられてしまうから。だから、僕たちがよく観察して気づいてあげるしかないんだ」
父はわたしに、そう教えてくれた。
父と母があまりにも働き者だったせいか、わたしの知るかぎりでは、アルバイトなりで他のスタッフを雇っていたことはなかったと思う。父と母は、わたしたち兄妹よりもむしろ水族館そのものに同化していたから、彼らは水族館の生き物のファミリに属しているのだと、わたしたち兄妹はほとんど皮膚感覚で理解していたと思う。そんな父と母が、背中に牛乳瓶と同じロゴの入ったパープルのウェットスーツを着て水槽の中を泳ぐ姿を、わたし達兄妹は愛していた。正しくヒトのかたちのままなのに、本来の居場所に還ったかのようにしなやかに水を切り開いてゆく二人の姿は、まるで巨大なハナゴイのように美しくて、わたし達は時たま、忙しなく働く父母を水族館の展示物のように眺めた。父母の前世はハナゴイだったはずだと、わたしは今でも信じている。岩場に跳ね上げられ、ピチピチと撥ねて口々にわたしの名前を明るく呼ぶ父母の姿を、わたしは想像してみる。そんなとき、魚になった父母の笑顔は、いつだって幼かった兄の笑顔と重なっている。
水族館の生き物が死ぬと、父と母は素早く死骸を回収し、どこかの水族館から別の個体を取り寄せる手続きをしたり、地元の漁師に調達を頼んだり、時には父母どちらかが海に出たりして補充した(二人同時に水族館を離れるわけにはいかないのだ)。
一度だけ早朝に、海に出るために詰め所を後にする母を追って、幼かったわたしは砂浜に出た。母が、本来の住処である海に還ってしまうのではないかと、わたしの心の片隅が叫んでいたからだ。母はわたしを振り返って駆け寄り、わたしのこめかみの髪を人差し指と中指だけで丁寧に撫でながら、
「いい?水族館の生き物は資産なのよ。存続のためには、あまり予算は掛けずに補充したいの。大丈夫、すぐに帰ってくるから」
とにこやかに言った。わたしはベッドに戻り、なんだかひどく混乱して、そんぞくそんぞく、よさんよさんと口の中でもぞもぞと唱えた。水槽の中を泳いでいるときの母はあんなにも本物の魚のファミリみたいなのに、母の口から飛び出す言葉たちは水槽の外側にあるのっぴきならない仕組みを冷めた目で捉えていることが多くて、子どもだったわたしはよく戸惑っていたと思う。この世の中をうまく泳げる優秀なヒトというのは大抵そんな具合なのだと知るのは、わたしがもっと成長してからのことだ。
夕ご飯だけはたいてい、家族四人で食べた。毎日、夕方の六時になると、父と母が交代で食事をよそい、短い時間で配膳をした。電磁調理器で煮込めるシチュウやローストポークなんかが多かったと思う。時には、食事時間の間際に、父が白身の魚と浅利やあり合わせの野菜を白葡萄酒で浅く煮て出してくれることもあった。父の得意料理だ。父も母も恐ろしく手際がよく、給餌に慣れた職業人のそれだったから手伝う隙すらなかったのだが、バタ付きパンを用意することだけはわたしの仕事になっていた。父と母は、ヒトには成長にともなって仕事が必要だと考えていた。年齢を追うごとに、週に一回の裏庭の草むしりやトイレ掃除など、わたしの仕事は少しずつ増えていった。でも兄には、そう兄には、一度も仕事が与えられたことがなかった。パンを焼くときは、長い一本の雑穀パンをナイフで均等に切り分け、そこにバタを塗ってから小さなトースターで三回に分けてこんがり焼く必要があった。均等に切る、というのは子どもだったわたしにはわりあいに難しい作業だった。どれだけ集中しても、はじめは慎重に、半ばは大胆に、終わりは反省気味になった。毎夕に起こるわたしの小さな挫折に父と母は優しい笑みを湛えながら、けれど作業には成果を求めた。
「いいかいチエ、端と端の幅が同じになるように意識してごらん」
父は兄の皿に盛られたパンを二切れ手に取り、端同士を揃えて幅の違いがよくわかるようにわたしに見せた。母はにこやかに頷きながら、
「些細な分量の差でも、意識するべきなのよ」
などと言い、そこから話題は、その日にカワウソに与えた給餌の話に変わっていったりして、父と母は水の生き物に再び同化してゆくのが常だった。わたしは、全てをそういうものと思い、明日は気を付けてみようと、毎晩小さな決意をしながらバタ付きパンを一切れ食べた。父も母もわたしも、食べるバタ付きパンは一切れずつだった。それ以外は全部、兄が食べた。兄用の四角いプラスチック皿には、いつでもバタ付きパンがうず高く盛られ、父や母が作った料理が載ることはなかった。食事時の兄は、普段よりもずっと寡黙で、くちゃくちゃと音を立てながらパンを舌の上でゆっくり溶かし、口の中に唾が十分に溜まるのを待ってから飲み込んだ。兄の不思議な食べ方を見ていると、わたしは兄が急に「兄」というこの家のペットになった気分になった。兄はこの家の愛らしいペットで、父と母は、わたしを兄の優秀な給餌係に育てようとしている。それは、けっこう真剣なごっこ遊びのようで、わたしは夕食中の兄をいつもとは別の仕方で愛していた。愛玩した、と言ってもいいのかもしれない。わたしは兄の口の端からこぼれた溶けたバタを布巾で拭ってあげたり、全部食べ終えた兄の頭をそっと撫でてあげたりすることを楽しんだ。朝ごはんや昼ごはんをわたしと一緒に食べるとき、兄はベーコンエッグやホウレンソウの炒め物をわたしと分け合ったし、「チエ、これうまいね」などと言ったり(実際には、ジェエ、シイ!といった調子だったけれど)、場合によっては、「卵が固すぎ!」と文句を言ったりしていたから、兄もまた夕飯時だけの遊びをしているのだとわたしは疑いなく信じていた。兄は、父と母の前では声を忘れたかのように押し黙っていて、会話を交わすことはなかったし、互いに目を合わせることもなかった。父と母の瞳には、兄は透明に映っているのではないかと、ふと思うこともあった。けれど、パンはちゃんと兄の分も毎日用意するよう教えられていたから、父も母も少なくとも兄の存在を知っており、やはりごっこ遊びのようなものなんだと、わたしはあまり深く考えずに「兄」との夕食を楽しむことにしていた。ただ一つ、少なくとも父にも母にも、水槽の中の生き物たちのように注意深く兄を観察する気がないことだけは、よくわかっていた。
それが何故なのか、わたしはやがてその理由についてヒントを得るようになった。わたしが女の子で、兄が男の子だからだ。
わたしたち兄妹は昼間に退屈すると、詰め所の小さなリビングで繰り返し同じビデオを見た。それは、父と母のお気に入りのビデオで、深海に住むフットボールフィッシュの生態、とりわけその繁殖の瞬間を追うドキュメンタリーだった。内容への興味については、二人ともまんざらでもないという程度だったが、繰り返し見ていたのは、何しろそれが詰め所にある唯一のビデオだったからだ。父と母には夢があることを、わたしは知っていた。それは、いつの日にか深い海の中から生き物を捕獲し、まだ誰も成功させたことがない深海生物の繁殖を自らの手で成功させることであり、あのフットボールフィッシュのビデオもまた、その夢に寄り添うパーツの一つだったのだと思う。父と母はだから、ソンゾクやヨサンのことだけでなく、ハンショクやセイシやコウビについてもよく話をしていたし、話の中にはこのビデオの内容も含まれていた。ビデオのナレーターはわたしたちの知らない言語でフットボールフィッシュの生態について心地よい抑揚で語るにすぎなかったけれど、わたしは(恐らく兄も)不思議にその内容を理解した。とても深い海に住んでいること、ニッポンというその島国ではチョウチンアンコウと名付けられていること、ランプのように垂れ下がっている先端には発光する細菌が居て、その光で餌になる魚を誘い出すこと。父と母から得た断片的な知識のおかげで、わたしたちはビデオの内容に習熟していた。
わたしと兄はいつも、何故か定位置に座ってそれを見た。テレビの前には白と黒の幅が大胆に切り替わる縞模様のカーペットが敷かれていて、わたしは兄の左斜め後ろの太い黒の中に座り、兄は白が一番細くなるところに座っていた。わたしの位置からは、兄のもじゃもじゃ頭と、耳の後ろと、わずかな頬の膨らみと、アイスキャンディの残骸である肌色の棒の先端が見えていた。ビデオを見ているとき、部屋の空気はいつも細かな塵や埃で淀んでいたような気がするが、それは画面に映る深海の鈍い藍色がもたらしていたどこか隠微な空気のせいだったのかもしれない。
何より特筆すべきフットボールフィッシュの特徴は、メスとオスに酷く差があることだ。その秘密は、ドキュメンタリーの半ばに伝えられる。メスの八分の一ほどのサイズしかないオスたちはその嗅覚や瞳でメスの存在を捉えると、メスに噛みついて付着し、目や臓器はやがて退化してゆく。そして、精巣を雌の体に仕込むと、オスの個体はそのいぼ状の皮膚にいよいよ吸収されて融合し、やがては顔の形すらわからなくなってしまうのだ。形があるのはメスの個体で、オスはその腹部あたりに複数ある少し不自然な皮膚の起伏にすぎないことを、わたしと兄はビデオから学んだ。そして、メスというのは女の子のことで、つまりはわたしであり、オスというのは男の子のことで、それはつまり兄のことだった。毎日兄と遊び、家族四人で夕食を食べ、時たまこのビデオを見る。そして成長するほどに、わたしはどうやらヒトになることを望まれ、兄は透明になることを望まれている。その自然に在る日常に素朴な洞察を与えるなら、つまり、わたしと兄の間に流れる差は雌雄の差に他ならなかった。
兄がどんな表情であのビデオを見つめていたのか、今となってはもう永遠にわからない。どうして兄の左斜め後ろになんて座ったのだろうと思うと、わたしは時たま苦しくなる。けれど、今同じ場面に戻ることができても、わたしはそうしたのかもしれない。兄の表情が見えないあの位置に座ることは、偶然ではなく必然だったのかもしれないから。そのおかげで、雄である兄の顔が次第に形を崩し失われてゆくさまを、目の裏に浮かべようとしても難しい。ただ、じぶんの目の裏の色がやっぱり今でもあの頃の兄と同じように青いことを、わたしはあらためて知るだけだ


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