分人創作エッセイ『笛宮に遭った』シリーズ~「ひつじ折り師」

(約1800字)
 三角形の右側を線の位置に合わせて上に折り、折り目をつける。もう一度開いて右の角を内側へ入れ込むように折ってから、右に倒す。左も同じように折り、左右対称にする。これはひつじの耳になる。細く整えた紙の先が、指先で寸分の狂いもなく目的どおりの鋭角を作るとき、斗真はいつも恍惚となる。顎骨にあたる部分を中折れにすれば、ひつじは完成する。これまでに、きっと数千匹は折っている。いや、ひょっとすると、数万匹の単位に及んでいるかもしれない。四畳半ほどのこの部屋には、空っぽになった亡き祖母の着物箪笥が二竿置かれていて、抽斗の中には丁寧に折り上げられたひつじたちが犇めいている。小学校四年生の秋から十六歳になる現在まで、こつこつと折り溜めた彩豊かなひつじたちは、遠目に見れば美しい着物のように見えなくもない。少なくとも、工芸の域には達しているだろうと斗真は自負している。その一方で、未だ訪れないその時を、斗真は待ち侘びている。
「大丈夫、斗真くんにもいつかできるわ、こんなにいい指を持っているのなら」
そう言ってあの日、あの女は斗真の右手の人差し指を、じぶんの人差し指の爪の先でつつつつつうっと撫でた。笛宮トオルの母親だ。斗真はその時から、この遊びをやめられないでいる。

 四年生の秋、風邪で学校を休んだ笛宮トオルの家に、斗真は放課後、連絡帳とお便り類を届けに寄った。トオルにそっくりの目、そう、確かに焦点が合っていても実際のところどこを見ているのかよくわからない目をして、その女はふふふふとひらがなでそのまま書いたように笑い、「せっかくだから、少し寄っていくといいわ」と言った。トオルは自室で眠っているのか、リビングにはその女以外誰も居なくて、テーブルの上には脱ぎ散らかした着物みたいに、折り紙が散乱していた。
「ごめんなさいね」
トオルの母親は言葉とはうらはらに、折り紙を片づけるでもなく、さも当然というように藍色の一枚を手に取り、まるで楽器でも弾くように紙と指先を自在に動かして異様な速さで折り上げ、完成品を右のてのひらに載せて見せた。斗真は、即座に騙されたと感じた。「少し寄っていくといい。」そんなよくある言葉に騙されて、取り返しのつかない隠微な時間に強引に引き込まれてしまった。きっとはなから、斗真の平常を奪う気だったのだ。
「これ、なあんだ」
トオルの母は、わざと母音を伸ばすようなねばっこいひらがなで聞いた。斗真は咄嗟に顔を顰めた。最悪なおばさんだと思った。
「ひつじ」
そう答える以外、斗真に何ができただろう。流れに逆らうのは怖かった。
「せいかいいいい」
とあの女が言うと、藍色のひつじは息吹きを得た。あの女が、指先を橋のようにして机の端にくっつけると、ひつじは自らの意思でその指を渡り、散らばった折り紙の上をカサコソと歩いた。
「いっぴきいいいいい、」
とあの女は言い、いいいいと伸ばしている間に、二匹目を折り上げてまた机の上に放った。にひきいいいいい、さんびきいいいい。女が「よ」と言いかけた瞬間に、斗真は悲鳴を上げて失禁した。

 トオルの母親は、トオルの古い服を貸してくれ、斗真の服を丁寧に水洗いしてほぼ完璧に乾かした。その間斗真は、トオルの部屋のカーペットに敷かれた布団に寝かされていた。目が覚めて、斗真はトオルのベッドを覗き込んでみた。トオルは心の底から安らかな表情で、静かに胸を上下させていた。風邪なんか引いていなかった。そして斗真は、トオルがこのまま目覚めることはないのだと理解した。心の中で、あの女がひつじを数える声が反響していた。
 そうして帰りに、玄関先であの女は斗真の手を取って言ったのだ。ダイジョウブ、トウマクンニモイツカデキルワ、コンナニイイユビヲモッテイルノナラ。斗真は呆けたようにじぶんの指を見つめていた。

 あれから、斗真はひつじを折り続けている。イツカデキルとあの女は言ったが、いっこうにひつじは動き出さない。だいたい、イツカデキルからと言ってやらなくてはいけないというわけでもない。まったく、なぜこんなことになってしまったのか。しかし斗真は、ひつじ折りにいまだ飽きることがない。自身の指先と、そこから作られたものの造形美が交わる瞬間。斗真自身の勘所によれば、それはちょうど刀鍛冶が精緻に研ぎ澄まされた刃先を仕上げる瞬間に似た、職工的なエクスタシーである。はっきり言って、病みつきなのだ。
 笛宮トオルは、あれ以来学校には一度も行っていないらしい。らしい、というのは、斗真も一度も行っていないから、本当のところは知らない。

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