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ヱリ子さん思考日記~2023年4月「思考の潮だまりと黄色い笑い袋」

 現実が目まぐるしく動くので、なかば上っ滑るように四月を過ごす。近年、東京の四月はすでに桜の季節ではない。葉桜のもと、大きな風船がぼああんと体に当たるようなまるい感覚の風を次第に孕みつつ、ぐいぐいと夏の気配を取り込んでゆく。私はジャケットやストールを脱いだり着たりしながら、海の波のように乱れくる天候をいつになくすいすいと泳いだ。一つ一つをじっくり反芻する暇もなく、今はたくさんの断片的なシーンが潮だまりの中に滞留した小石のように残っている。正確には小石か、あるいは貝殻か、あるいはプランクトンか、それはよくわからないのだけれど。それらの記憶は例えば、中学校の椅子の脚に埋め込まれていた古びたテニスボール(恐らくは床を養生するために)の整列とか、ダブルウィンッザ―ノットという結び方で初めてのネクタイを締める子孫の太い親指とか、長くなってきた友人の髪をまとめていた金色のバナナクリップとか、鍋からごとくに吹きこぼれた熱湯と細い信州蕎麦二本とか、ぐちゃぐちゃの洗い物の中からやっと見つけた水筒の蓋とか、もう行くことのない職場にあったNECのコピー機のボタン配列とか、子宮を取った友人が赤ちゃんを生む夢とか、本当にいろいろであって、あまり選択的な記憶ではなく、つまりはわたしの日常の構成成分そのものなんだろう。

 とりあえず全てをそのままぶち込んでおいたような感覚で、ずいぶん混沌として密度の高い記憶になってしまったけれど、選択的に何かを重んじて何かを置き去りにする、という事態に陥らなかったのは、めずらしくわたしの快挙だったと思う。優先順位をつけて整理整頓・不要なものは断捨離なんて賢いことをやると、たいてい後からうまくいかなくなってしまうのだ。
 それは特に人間関係において顕著で、考えや思想をパラレルで三十種類くらい抱いているのがわたしの常なのだけれど、それらをいちいち表出することはできないので、その相手にとって一番理解しやすくウケがいいと思われる部分だけを選択的に表現してしまう。その営みを繰り返しているうちに、相手がすっかり「気の合う仲良し」と思い始めた頃、もはや「わたし」という等身大の人間は一ミリも相手の目には映っていなかったりするわけだ。そうしてわたしは、窒息しそうなほどに孤独になったりする。望んでいたわけでもないのに、清潔な水槽にすすんで入ってしまったような感じ。でも、今年の四月はいい具合の潮だまりを作ることができた。潮だまりはきっとまた、大いなる波とひとつながりになってくれるだろう。

 さて、そんな多忙な時節を過ごしていると、起きている一日十六時間ほどのうちに思考が全てを済ませたがるのか、こんなときになぜ、と思うような考えにとらわれる頻度も増える。例えば、玄関で学校に行く子孫を見送りながら「鍵持ったよね?」といつもの台詞を吐いた瞬間、なぜか突如【何かの社会問題を諦めることは、誰かが死ぬことである】という考えに打たれて涙が止まらなくなった。そんなことを書くと無二の立派な精神の持ち主(ただし情緒がおかしい)のように聞こえるけれど、わたしは差別的思想を内包する反差別主義者であり、そういう不浄なからだで平気で人の死を悼んだりするまでだ。
 またある時は、ブロッコリーとほうれん草を並行で茹でながら排水溝にキッチンハイターを振りかけていたとき、【考えることと委ねることは背反する】という「考え」に打たれてしまった。室内プールを思わせるハイターの塩素のにおいに身を「委ね」ながら(まんざら嫌いでもないのだ)それは果たして本当なのかと思案し、しかし今わたしが「委ねて」いる部位と「考えて」いる部位は違うのだよな....などとぐるぐるやってしまう。
 こんな時にこんなことを考えていていいのか?という思考のTPOは、スマートフォンが普及する前にはまだかろうじてあったと思うのだけれど、今はもうその感覚を思い出せないでいる。

 思考のTPOと言えば、一番それを無視してくる存在として、わたしが頭の中に抱えている笑い袋がある。それはどぎついほどに濃い黄色の袋で、表面にはねっとりと細い目をした女のキャラクターがアップリケされている。そうして、カカカカと嘲笑的に笑いながら、馴染みのある声で「あんたって、ほんまあかんなあ」など、いくつかのパターンであまり嬉しくない大阪弁の台詞を吐くのだ。スタートボタンのようなものはなく、突如その音声が垂れ流される壊れた笑い袋なのだが、もう長い間あらゆる場所で不意に登場するから、半ば諦めている。
 それでも、四月の間は新しい記憶や思考が多すぎて、もはや再生する余地もなかったのか、この笑い袋の存在はずいぶんと弱まっていた。わたしはもう四十台で、そろそろこの笑い袋ともお別れしたいと思っているが、果たしてそれが可能なのかはわからない。ただ、気候が変動して、桜はいつのまにか四月ではなく三月の風物になったのだ。そんなふうに、何かの前提が変わって時節をいつの間にか抜けることは案外あるのかもしれない。あるいは、偶発的にうまく作られた潮だまりから海のかなたへ流れてしまう、とか。

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