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かけっこがとくいなアリさん

 ある都会の住宅街の真ん中の小さな一軒家の、ネコのおでこほどの小さな庭。
 そこに、とってもかけっこの速いアリさんがいました。
 仲間のなかにはだれ一人、彼とかけっこをして勝てる者はおりませんでした。
 仲間たちは彼をうらやましがって口々に言います。
「君はいいなぁ。そんなに速くかけることができたら、きっと、とても遠くまでいけるだろうに。この広い草原のずっとずっと向こうまで見に行くことができるのだろうなぁ」
 みんなにほめられて、アリさんは得意になって言いました。
「へへっ、思いっきり走ったら、草原の果てまで行けるかもしれないな」
 その言葉を聞いて、仲間のアリたちは大よろこびで触角を鳴らしました。
「行ってみてよ、草原の果てに。それで、果てがどうだったか、僕たちに教えておくれよ」
 アリさんは、うれしくなって大きくうなずいて、すぐに走り出しました。ほれぼれするような、力強い走りでした。仲間のアリたちは、六本のあしをふみ鳴らしてアリさんを送り出しました。

 背の高い草の間をくぐり抜け快調に走るアリさんは、みるみるうちに草原の奥に入っていきました。アリさんはそれまで、自分の巣の周りのせまい範囲しか行ったことがありませんでしたから、こんな奥までやってきたのははじめてでした。
 はじめて来た草原の奥には、小さな赤い実をつけた細長い草や、アリさんたちの仲間とは少しちがう、赤い肌をした小さなアリや、そのほか、見たこともないものがたくさんありました。
「わぁ、こんなにすごい景色を見ることができるなんて、僕は本当に、足が速くてよかったなあ」
 うれしくなったアリさんは、そのまま、ずっと走り続けました。何日も何日も、走り続けました。どんどんと草原の奥に入っていって、見たこともない風景を見るのが、楽しくてしかたありませんでした。
 どれほど走ったでしょうか。ずっと走っていてさすがに少しつかれたアリさんは、ちょっと休憩しようと思って、手近な葉っぱの下に腰を下ろしました。
 ふうと息を吐いたアリさんが、細長い葉っぱの先についたしずくがきらきらと輝くのなどをながめていますと、ぴょんと視線をさえぎる影がありました。葉っぱと見間違えてしまいそうな、緑色の肌に細長いからだ。それにぴんとのびた長い足。アリさんは見たことがありませんでしたが、それはバッタでした。バッタのうちでもうんと足の速い精霊(しょうりょう)バッタが、お昼ごはんを求めて、やってきたのでした。
「やあやあ、アリさん。このへんじゃ見かけない顔だけど、どっから来たんだい?」
 細長い顔のバッタが、人なつっこそうにアリさんに話しかけてきました。
「これはこれははじめまして。僕はずっと遠くから、ここまで来たんです。僕は足が速いから、みんなが行くことができない遠くまで、こうして走ってきたんですよ」
 アリさんは、ほこらしげに言いました。それを聞いたバッタが、おかしそうに触角をふるわせてクスクスと笑います。
「遠くって? いったいどれほど遠くなんだい? 君が元いたところはどんなところか、教えちゃくれないかね?」
 アリさんは、バッタがなぜそんなふうに笑っているのか検討もつかなくて、首をかしげながら答えました。
「僕が来たのはうんと遠くだから、きっとあなたは知らないでしょうよ」
 アリさんがそう言うと、バッタは今度はからだじゅうをふるわせて笑いました。
「あっはっは。いいからどんなところか、教えておくれよ」
 相変わらずバッタが笑っているわけは分かりませんでしたが、気のいいアリさんは、自分のいたところがどんなところか、バッタに教えてあげることにしました。
「僕が来たところはね、タンポポがたくさん生えているんです。タンポポといっても、あなたは見たことがないでしょうから、わからないかな。タンポポってのは、黄色くておしゃべりな、恥ずかしがり屋の花のことです。今の時期なんかは、黄色い大きな花が、こそこそとおしゃべりしながら揺れていて、とっても楽しいんですよ」
 アリさんは得意げに話しました。バッタは、それを聞いて、ギイギイと、大きな声を立てて、笑いころげました。さすがの気のいいアリさんも、ちょっと気分が悪くなるような笑い方でした。
「あなたは、どうしてそんな風に笑っているのですか?」
 少しだけむっとした口調でアリさんがたずねると、バッタは、全身をふるわせながらこう言いました。
「そのタンポポは、オイラの今日の朝ごはんだったよ」
 バッタは、その長い足でぴょんぴょんと大きく跳び、アリさんが何日もかけてたどり着いた道のりを、ほんの数時間で行って帰ってきてしまったのでした。
 今まで自分の足の速さをほこらしく思っていたアリさんは、急に恥ずかしくなってうつむきました。
「で? アリさんはこれからどこへ行くつもりなんだい?」
 バッタは相変わらず笑いながら、がっかりしているアリさんに尋ねます。
「この草原の果てまで、行ってこようと思っていたんですけど」
 すっかり元気をなくしてしまったアリさんは、ため息をつきながら言いました。バッタがそれを聞いて、さもおかしそうに身体をふるわせます。
「草原の果て! やめておきなよ、アリさん。オイラは何度も草原の果てまで行っているけれど、あそこには何にもありゃしないよ。ただここと同じような風景が広がっているだけさ」
「ご忠告ありがとう。もう一度どうするか、考えてみますよ」
 元気のない声でアリさんが応えると、バッタは満足したように、ぴょん、と地面を蹴って去っていきました。
 なんてほれぼれするような、大きな大きなジャンプなんだろう。あれに比べたら、僕の足の速さなんてちっぽけなものにすぎないなぁ。アリさんはそう思って、ふうとため息をつきました。
「これからどうしようかな」
 途方にくれたアリさんが、ぽつりとつぶやきました。
「さっきの彼が言ってたみたいに、草原の果てに行ったところで、何にもないのかな」
 うすみどり色の、細長い葉っぱの下に腰を下ろしたまま、アリさんは一人で考えつづけます。
「このまま帰っちゃったほうが、いいのかな」
「アリさんアリさん、何を悩んでいるんだい?」
 不意に、アリさんの足元で声が聞こえました。それはちっちゃな、気を抜くと聞きもらしてしまいそうな風のような声でした。
 声の主は小さなアリさんよりももっと小さな、透きとおった緑色の肌のアオムシでした。
 アオムシは、アリさんの足元で、その小さな身体をいっぱいに動かしてちょっとずつちょっとずつ歩いていました。
「ねぇアリさん。何を悩んでいるの?」
 ゆっくりゆっくり一生懸命歩きながら、アオムシはアリさんにもう一度たずねました。
「こんにちは、アオムシさん。あのね、僕は草原の果てまで行こうと思っていたんです」
「草原の果て!」
 アオムシはびっくりして身体を伸びたり縮んだりさせました。
「それはそれは遠くまで行くんだねぇ。そうしたら、見たこともない風景が、うんと広がっているんだろうねぇ」
 アオムシが言うと、アリさんは悲しそうに首を横にふりました。
「僕もそう思ってたんです。でもバッタさんが言うには、草原の果てまで行ったって、何にもありゃしないって」
「何にもありゃしないだって? そんなことあるもんかい!」
 アオムシは、とんでもない、とばかりに細長い身体を震わせました。
「そんなに遠くまで行ったらば、さぞや新しい発見がたくさんあるに違いないさ」
 そういいながらもアオムシは、ゆっくりゆっくり一生懸命歩いています。アリさんも立ち上がって、アオムシの速度に合わせるようにゆっくりと歩き始めました。
「アオムシさんは、どこへ行くんです?」
 アリさんがたずねると、アオムシは待ってましたとばかりに得意げに体を伸ばしました。
「ボクもね、草原の果てまで行くつもりなんだよ」
「アオムシさんも?」
 その言葉にアリさんは、びっくり仰天してしまいました。
 だってアオムシはお世辞にも歩くのが早くありません。さっきからずっとがんばって体を動かしているけれど、進んだのはほんのちょっとだけ。これでは草原の果てに着くまでに、いったいどれだけ途方もない時間がかかるでしょうか。
「あっ!」
 急に、アオムシが立ち止まって大きな声を出しました。いや、アオムシの声はとてもちっちゃな、風のような声でしたから、大きな声と言ったってせいぜい、急に吹いた突風の音くらいの大きさです。でも、とにかくいつもよりは大きな声を出して、アオムシは立ち止まったのでした。
「どうしたんです?」
 アリさんが首をかしげてアオムシにたずねました。
「ほら! ほら! アリさん、ボクはまた、新しい発見をしたよ!」
 興奮した声に、アリさんは身を乗り出してアオムシが指差す方を覗き込みました。
 けれどそこにあったのは、何の変哲もない、まるい葉っぱをつけたクローバーでした。
「アオムシさん、残念だけど、これは新しい発見ではありませんよ。この葉っぱならこの辺りにはいくらでもあります。ほら、あっちにも」
「そうじゃないよ」
 顔を上げて周りを見回したアリさんの声をさえぎって、アオムシは目の前のクローバーをいとおしそうに見つめています。
「え?」
「ほら、よく見てごらんよ。このクローバーはね……」
 アオムシの言葉に誘われて、アリさんはもう一度、足元のクローバーを覗き込みました。
「あ、本当だ」
「ね?」
 納得したふうな顔になったアリさんに、アオムシが満足そうに微笑みました。
「このクローバー、葉っぱが4枚あるんだよ」
「僕、全然気がつきませんでした」
「ゆっくり歩いていないと、気がつかないものもあるんだ」
 アオムシがちょっとほこらしげに、透きとおった緑の体を伸ばして、アリさんに笑いかけました。
「さあ、アリさん。一緒に、草原の果てまで行ってみませんか?」
 アリさんは胸を張って、大きくうなずきました。
「ええ、もちろんですとも!」

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