見出し画像

愛と恋と性の話

男は(たぶん)自分の性欲をほんのりと憎んでいる

昔からよく考えているのだけど、男性の多くは自分の性欲をほんのりと恐れているというか憎んでいて、それを抱えながら暮らすのはけっこう苦しい。でもそのぶん、自分の性欲を「受け入れられた」と感じたときにものすごい快楽を感じる。たぶんそれは肉体的なものだけではない。

「男性の多くは」というのはもちろん僕の想像なんだけど、少なくとも僕にはそういう気持ちが強いな。「恋と性をセットにして考えるな!」というのが僕の主張なんだけど、僕自身はすぐ女の子に恋をしてしまい、しかもそこには性がセットになってしまって、それがいつもとても心苦しい。

「家でふたりきりになったり、一緒に旅行に行ったら、自動的に性的なことができると考えるのキモい」という意見には心から賛成する一方で、自分なら、やはり期待してしまうだろうなと思って苦しい。まぁ、期待するのが悪いということではなく、同意もとらず思い込むのが悪いという話なんだけど。
「下心があるかどうか」で言えば、僕は「下心がない」と断言することなどとてもできない。下心がないような顔するのは、自分に嘘をついているようで許せない。でもだからと言って下心むき出しで「そのために近づいた」と思われるのも悲しい。板挟みの感情。

ないものねだりだけど、だから、女性同士のやりとりがとてもうらやましく感じることがある。性欲や下心がなければもっとうまく親密になれるのに……とか。じゃあ男性と仲良くなればいい、とも思うけど男性同士はなんかまたぜんぜん質が違うんだよなぁ。それももちろん、ジェンダーバイアスなんだけど。

男性の性欲って、相手を傷つける可能性のあるもので、そういう意味で自分の体の中にいる獣のような存在だ。それをなくすことはできなくて、うまく飼い慣らすしかない。
僕は理性で生きたい人間だから、そういう暴力的にも似た存在が自分の中にいて、ずっと気を張って飼い慣らし続けなくちゃいけないことがたぶん、他の人より苦しく感じるのかもしれない。

性欲を受け入れられること=「獣」を慰められることかも

好きな人と「すけべな」やりとりをするの、僕にとっては大きな癒やしなんだよな。僕がどうしても自分で認めてあげられない部分を、認めてもらえているような気がして。でもそれができる相手、しても大丈夫な相手はとても限られる。だれにでもしてはいけない。

考えてみれば「相手に受け入れてもらえているときの性的な行為や感覚」はめちゃくちゃにしあわせなので、自分の性欲が嫌だ、なくなってほしい、というわけじゃないんだよな。むしろ性欲はこのためにあったのかぁ、と報われるような気持ちになる。

性的なことを完全に取り去った愛もあるよ。それはもちろんだよ。それもとても尊いよ。でも、もし本当にそれだけだったらきっと僕はとてもつらい。だから、受け入れてくれるおくさんと恋人がいることで僕は救われて、他の人に「性を取り去った愛」を向けることができるんだよな。
僕個人としてはそれでいいのだけど、社会の構造としては僕みたいなことは難しいので、男女間のトラブルが後を絶たないんだろうな。難しいことだけど、非独占愛はもしかしたら、少しでも希望になるのかも。

ときどき暴走する「男性の性欲」というやつは、生まれたときから嫌でも体の中に埋め込まれてしまっている自分の思い通りにはならない「獣」を、受け入れて慰めてほしいという欲望なのかもしれない。

純粋に相手のしあわせだけを願う「愛」が理想的だけど、恋や性だって悪いわけじゃない。人間だからね。でもそれを一方的に押しつけたり期待したりしているのはおたがいに不幸だから、探り合わずにちゃんと確認し合えるのがいい。

ソクラテスがエロスについて語る『饗宴』

ソクラテスが「性愛(エロス)」について語っていると言う、プラトンの「饗宴」を読んだ。
ソクラテス(の言葉を借りたプラトン)によれば、エロス(性愛)とは『よいものを追い求め、永遠に自分のものとし、その中で子を成そうとすること。それによって不死を得ようとすること。』(「子を成す」は体だけでなく心においても、と説明している)

古代ギリシャで言う「エロス」というのは、僕の考える「恋」にとても近い気がする。つまり、「乞い求める気持ち」。それを『饗宴』では、「美しいものを求め自分のものにしたい欲求」と説明する。自分のものにしたら「永遠に自分のものにすることを求める」。さらにその先は?と続く。

「その先」がおもしろい。美しいものを永遠に自分のものにしたら、次は「その中で子を成したい」と考えるのがエロスだ、という。この「子を成したい」は、「体の場合であっても心の場合であっても同様だ」という。「体」の場合は文字通りこどもをつくること、心の場合は知恵や徳、名を伝えること。
さらに、「なぜ子を成したいと求めるか」については「不死を求めるがゆえ」と説明する。いやぁ、すごい。古代ギリシャですでに、「人は生きた証として、遺伝子を残すかミームを残すかを求めるもの」ということを見抜いて、「その欲求こそがエロスなのだ」と言ってるなんて。

プラトン『饗宴』のエロス論について僕なりに解釈して短く表してみると、

人が「恋」をするのは、美しいものを永遠に自分自身のものにして、その中に「子を成し」(体であれ心であれ)、自分のかけらを未来に残すことで「不死」を得ようとするから。

「エロス」がこういう定義だとすると、やっぱり愛ではなく恋に近い気がするよね。美しいものを永遠に自分のものにしたい欲望。自分のかけらを残したい、不死を得たいというのもあくまでも「自分」が主体の欲望。 「恋=エロス=欲望」と定義できそうだな。

文章を読んでなにかを感じていただけたら、100円くらい「投げ銭」感覚でサポートしていただけると、すごくうれしいです。