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紅蓮の炎、群青の月 第五話

12

「でかした」
 雉子牟田の報告を聞いて、桃太郎は満足げに微笑んだ。
「苦労しました。土御門や倉橋には伝わっておらず、野に潜んでおるとは」
「鏡もそこにあるのか」
「そこまではなかなか。鏡自体が姿を消したのが桃太郎さまと同時、つい先だってのことですので。しかし、安倍家代々に伝わるという珠がございます。おそらくはそれが手掛かりになるかと」
「行くぞ。鏡の行方はいかようにもなる。安倍が知らずとも、頼光一味が血眼になって探すだろう。目の前でさらうか、奪い取ればよいのだ。それまでは放っておいてもよい。見張りだけは怠るな」
「は」
「ともあれ、安倍じゃ。どれほどの力が受け継がれておるかは知らぬが、安倍に依らねば我らの力も取り戻せぬ。このままでは鏡がなくても鬼の餌食じゃ」
 雉子牟田は離れの狗美と猿田を呼んだ。安倍晴明の道統を継ぐ子孫が京都市の郊外にいること、秘術が伝承されていれば強大な力を手に入れられることを説明して、四名は雉子牟田の用意した大きなリムジンに乗って京都に向かった。
 京都市北区鷹峯(たかみね)。古くは京都から丹波、若狹へ抜ける鯖街道の南端に位置することから交易の拠点として栄えた。江戸期には本阿弥光悦が居住して一村を構え、御典医藤林氏が広大な薬草園を開くなど、流通面や文化の蓄積、本草学の面からも、安倍氏が洛中を離れて隠棲するには適した地であったと言える。
 京都市内とは思えない開けた丘陵地をリムジンは走っていた。
「これが京都市内?」
 あまりに長閑(のどか)な里山の風景に狗美が声を上げた。
「行政区では京都市だが、洛外だからな。洛中の旦那衆は人が住むところとは思っとらんよ」
 雉子牟田が皮肉っぽい調子で答えた。
 リムジンはやがて、広い田畑に囲まれた大きな農家の門前に停まった。陽はすでに傾いており、夕日に照らされた表札には安倍とあった。門の奥には御幣(ごへい)が一本立ててあり、めざす家と知れた。
「ここのようだな」
 四人は車を降りた。
「お気をつけて」
 猿田はそう言うと、先頭に立った。門をくぐって奥に立つモダンな外観の家に向かったが、御幣の前で立ち止まった。振り返った。
「進めません」
 桃太郎は舌打ちした。
「蹴倒せ。いや、危ないな。猿で押し包んで引き抜いてしまえ」
「承知」
 猿田は髪を一本抜いて、口をすぼめて吹き飛ばした。
 たちまちあたりに三十匹の異形の猿が現れた。一斉に鳴き声を上げて御幣に飛び掛かった。前栽の真ん中に、たちまち猿の山ができた。
 バリバリーン!
 大地を引き裂くような炸裂音とともに、目も眩む光の柱が猿の山を直撃した。そばに立っていた猿田は門の下まで吹き飛ばされた。まさに青天の霹靂である。
 あたりには黒焦げになった猿が散らばり、燻って黒い煙を上げていた。御幣はまだ立っていたが、紙垂は半ば燃え尽きていた。
 煙の向こうで玄関の開く音がした。
「なんだなんだどうしたどうした」
 若い女の子の声が重なり合って聞こえた。
 煙がゆっくりと晴れると、御幣の向こうに同一人物としか思えない少女が二人、腰に手を当てた同じポーズで立っていた。
「妖しのものを」
「寄せぬため」
「立てた御幣の数百年」
「いま初めての稲妻に」
「こりゃこりゃほんに」
「驚いたわいな~」
 二人の少女は、歌舞伎口調の台詞を交互に言うや、最後は口吻を揃えて見得を切った。
「なんだあれは」
 門の手前で桃太郎があきれたようにつぶやいた。
「ひとまず話を聞きましょうか」
 四人は並んで門をくぐった。
「ねえねえ、あんたたち、この家の子? お父さんかお母さんいる?」
 まず狗美が話しかけた。
 二人は腕組みをしてすっくと立っていた。
「そもそもそっちがどちら様? 名乗りもせずに失礼だとは思わないの?」
「だいたいが、いきなりわらわらと変なの出して、人んちの御幣を壊そうとして、あいさつもなし?」
「今どき人んち訪ねるのに、事前の連絡もないわ、手ぶらだわってどういうこと」
「それでなに、その後ろの薄気味悪い人」
「うちの商売わかって来てる? なら何の用事?」
「八卦見? 風水? お祓い? 御祈祷? 結婚式? 吉日判定?」
「まともな用事じゃないわよね。警護の結界に弾かれるなんて、生身の人間じゃないってことでしょ」
「魑魅魍魎、化生の類、鬼か物怪、妖怪変化でもなきゃ、稲妻なんて食らわないぞ」
 二人は甲高い声で交互に一行を責め立てた。
「わかったわかった、ちょっと待った」
 雉子牟田が言葉の奔流に割って入った。
「単刀直入、正直に言うからちょっと黙れ。こちらの方は桃太郎さまだ。我らは犬猿雉。千年ぶりに会いに来た」
 二人の少女は目を見開いて黙り込んだ。「鳩が豆鉄砲を食らったような」としか言いようのない表情だった。
「だから、お父さんかお母さんに取り次いでくれないかな。おじいちゃんでもいい」
 少女たちは深呼吸をひとつした。表情が急に大人びたものになった。二人は完全にシンクロした動作で九字を切った。半分焦げた御幣の先端に火花が上がった。
 再び交互に話し出した。
「私は安倍晴美」
「私は安倍明美」
「父は安倍吉成」
「桃太郎の話は聞いたことがある」
「我らに期待するな」
「千年前とは違う」
「結界は蘇った」
「二度と来るな」
 二人は唐突に踵(きびす)を返して、家の中に消えた。
「困りましたな」
 雉子牟田が頭を掻いた。
「何を困ることがある、あんな棒切れ一本」
 桃太郎はあたりを見回した。
「狗美、向こうで畑をいじってる婆さんを呼んで来い。人間なら屁でもないだろう。俺は車で待ってる」
 狗美は、怪訝な顔の老婆を、手を引くようにして連れて来た。
 老婆は安倍家の人間とも懇意のようだったが、狗美の頼みと一万円札のご威光で、こともなげに御幣を引き抜いた。
「それはそこへ立てかけておいて。おばちゃんありがとうね」
 狗美は心から感謝するような表情で老婆を送り出し、遠くへ去ったのを確かめたところで桃太郎を呼んだ。

 四人は並んで安倍家の玄関に向かった。
「とはいうものの、今回我らは頼みごとに来たのだ。腰を低くしておればよい」
 雉子牟田が玄関を開けて、大きな声で来訪を告げた。
 娘たちに話を聞いて警戒していたのだろう。家の奥から険しい顔の安倍吉成が現れた。
「桃太郎と聞いたが」
「後ろの方が桃太郎様だ。私は雉子牟田喜十郎。今日は頼みごとがあって来た」
「さて、そちらが本当の桃太郎さんなら、今さら私たち引き受けるようなことは何もないが」
 吉成は雉子牟田の目をじっと見返した。ピリピリと空気が帯電するような緊張感が走った。
 雉子牟田の脇に狗美が立った。
「私たちがお願いするのです。そちらに拒否権はありません」
「これはまた勝手な物言いをされる。我が家には晴明より伝わる、世間の伝承や歴史とは異なる伝説があります。あなた方を見るに、おそらくそちらが真実なのでしょう。だとすれば、今さらなんで我々が桃太郎に力を貸すと思われる」
 雉牟田と狗美を押しのけるように桃太郎が前へ出た。
「すまんな。千年前、渡辺綱と道満に封印されるとき、力の大方を奪われたのだ。安倍の力で戻してもらいたい」
 桃太郎は両眼に異様な光を浮かべて、吉成の目をのぞき込んだ。吉成は瞬きもせず目の回りを紅潮させて、桃太郎の目を見つめ返した。
「その力は残っているのか。残念ながら、心縛絶神の法は安倍のものには通じぬ。千年経とうが陰陽師は陰陽師だ」
 桃太郎は目をそらした。
「なるほどな。頭と心がそのままなせいか、人の心を操るほかに、不死の力や馗毘虫を操る力は残っておる。しかし、ただの力が尽く失われたのだ。このままでは、鬼の前に飛び出しても、器用な鼠みたいなものだ。簡単にひねり潰される」
 桃太郎は再び吉成の目を見つめた。
「だから、あらためて金剛乗得の法を施してもらいたい。断るという顔をしておるが、ではこれならばどうか」
 桃太郎は背後の猿田を振り返った。
「猿」
 猿田は体毛を引き抜いて吹き飛ばした。たちまち何十匹という短躯異形の化け物が現れた。
「殺すな。ステイ」
 猿田が言うと、猿の群れは動きを止め、安倍父娘を取り囲んでは、それぞれ牙を剥き爪を閃かせて、三人を威嚇しはじめた。
「おかしなことをすれば、この猿どもが貴様らを八つ裂きにしてくれる」
 吉成が上着のポケットから一枚のお札を出した。
 桃太郎は遮るような手つきをした。
「おっと、式神を出すのも結構だが、すべての猿を同時に殺せるのかな。その瞬間に、貴様か娘のどちらかが死ぬだろうな」
 吉成はお札をポケットに戻した。ここでどんな術を使おうと、無傷ではすまない。
「桃太郎なんてものは、そもそも千年も前のおとぎ話だ。金剛なんとかと言うが、そんな法は失われたと言ったら」
「問題ない。本当に不可能なら、今ここで全員殺すだけだ。そんな役立たずの陰陽師に用はない。それから土御門でも訪ねるよ。同じような力が得られるなら、それこそ密教でも西洋魔術でもよい。綱どもが力を得る前にと思っていたが、それをあきらめれば時間はある。じっくりさがすよ」
 桃太郎は肩をすくめたと思ったら、残忍そうな笑みを浮かべた。
「なら、まずどちらの娘から行く? なあお父様よ」
 吉成は二人の娘を背後にかばった。ここで断れば、桃太郎はためらいなく自分たちを殺すだろう。術に失敗しても同じことだ。であれば、金剛乗得の法を行うしかない。しかしそれでいいのか。強化された桃太郎は人外の能力を身につける。人に害、この世に害しかもたらさない。我ら三人の死でそれを防げるとしたら。
 吉成は完全に進退窮まっていた。
 明美が父の袖を引いた。顔を寄せた父親に耳元で囁く。
「仕方ないよ、お父さん」
 晴美も囁く。
「あとでやっつけよう」
 吉成はそこで思い当たった。綱か。桃太郎は、自分を強化できることがわかったら、我々を殺すまい。そのあとで綱を探し出して手を貸す。力が不足するなら術を施そう。千年前とは違って、今は邪魔立てする藤原道長もいない。
 吉成はいかにも苦渋に満ちた表情で、桃太郎に告げた。
「よしわかった。金剛乗得の法をお望みなら、ここで授けよう」
 桃太郎は満足げにうなずいた。そして、吉成の心を見透かしたように言った。
「ありがたい。ただし、手抜きしようなどとは考えんことだ。金剛乗得の法は、もちろんこの目でもこの体でも覚えている。妙な真似はさせぬよ」
「心配するな。私だけではなく、娘たちにも手伝わせる。この娘たちは天才だ。三人で勤めれば晴明を超えるかも知れんよ」
「今からできるのか」
「それは無理だ。斎戒沐浴も祭壇の準備もいる。明日の正午に行うゆえ、その前に来い」
「逃げるなよ」
 吉成が返事をする前に、雉牟田が答えた。
「逃がしません。この家の上に雉を飛ばせておきます」
 吉成は舌打ちをした。

 翌日、安倍家の広い前栽に、真っ白な白布を掛けた祭壇が設えられた。栗、昆布、橙、裏白などとともに、翡翠や瑪瑙で象られた神像や神獣の置物が並べられている。頭上に張り渡した綱には清浄な紙垂が下げられ、祭壇の両脇には立派な真榊が金箔で安倍家の家紋が入った花入れに立てられていた。
 祭壇に向かって、古式ゆかしい陰陽師の装束に身を包んだ安倍吉成と晴美明美の双子の娘が、円座を敷いて静かに座っていた。
 その後ろに桃太郎と犬猿雉の四名が畏まって座っていた。
 金剛乗得の法の祈祷は長く続いた。雷鳴もなく、白煙が立つこともなかったが、祭壇の周りに小さな金剛力士が数多く現れて、次々と後ろの四人の鼻や耳に吸い込まれていった。
 日が少し傾き始めたころ、両脇の真榊はすっかり萎れ、紙垂も黄ばんで千切れかけていた。
 呪法終了の印を結んで、吉成が一人で桃太郎たちの方へ向き直った。金剛乗得の法など、吉成にとっても勤めることはおろか、見たこともなかった呪法である。振り向いた吉成は、桃太郎たちのあまりの変化を目の当たりにして声を上げそうになった。
「終わりだ。これで十分だろう。すぐにお引き取りを願いたい」
 桃太郎たちは祈祷の間に、それぞれの異能を極限までに高められていた。
 桃太郎は筋肉の量だけでも以前に倍するような屈強な巨体に生まれ変わっていた。そればかりか、筋肉の塊のような腕が四本に増えていた。
「なつかしい、なつかしいぞ! そうだ、この体で数多の鬼どもを血祭りに上げたのだ!」
 牙の伸びた大きな口を開けて、高らかに哄笑した。
 双子の少女も振り返って桃太郎を睨みつけた。
「おのれ、桃太郎」
「このままでは置かぬ」
  もちろん桃太郎は意に介さない。
「小娘どももよくやった。殺しはせぬから安心せよ。お前たちにはまだまだ役に立ってもらわないとならんからな」
 庭先では犬猿雉もグロテスクな正体を露わにしていた。
 猿田は手足の長い、不自然なバランスのゴリラのようだ、
「あははは見ろこれ、力があふれてくらあ」
 ほぼ予備動作もなくジャンプして、屋根の上にひらりと飛び上がった。脇腹の毛を抜いて吹き飛ばすと、わらわらと異形の猿が現れた。以前に出したものとは体躯の厚みも迫力も段違いだった。ずらりと並んで牙を剥いた。
「おお、そいつらもとんでもなく強えぞ。こないだまでのとは大違いだ」
 猿田が手を叩くと、猿たちは一斉に消えた。
 雉牟田はもちろん鳥人の姿に変じていた。ばさりと羽ばたいて遙か高みへ舞い上がった。ゆっくりと優雅に弧を描いて降りて来る。
「これはよい。自由自在に飛べるぞ。しかもじゃ、この羽の力を見よ」
 大きく体をひねって羽をあおった。ばさりと言う羽音とともに突風が巻き起こり、庭にあった石灯籠を吹き飛ばした。バラバラになった灯籠は激しい勢いで築地塀に叩きつけられて、土塀を押し崩した。
 犬飼狗美は美しい女のまま、変わらぬ姿で立っていた。ハイブランドのシックなスーツのままである。豊かな胸は相変わらずブラウスを押し上げ、胸のボタンがはじけそうだ。短いタイトスカートは、丸くて大きな尻とストッキングで包まれた太腿を覆っている。
「私が得た力を見せると、ちょっと大事になりそうです」
「かまわん。ここは広い。人目もない」
「では、失礼して」
 犬飼狗美が体を揺すると、地鳴りのような音がして巨大な猛獣が現れた。体高だけでも見上げるほどで、観光バス並みの大きさの犬が現れた。しかも頭部が三つある。先日の横浜で見せた姿とは、サイズも迫力も桁違いだ。
「これはたいしたものだ。ケルベロスか」
 雉牟田が羽を広げてつぶやいた。
 狗美が三つの頭で同時に咆哮を上げた。あたりを圧する音圧の咆吼は、はるか遠くの山並みにまで届くのではと思せた。大きく開かれた三つの口は、それぞれ人の脚ほどもありそうな犬歯を日差しに燦めかせた。
 三人の姿を見た桃太郎は上機嫌に見えた。
「これは千年前以上かも知れんな。安倍も腕を上げたか。礼を言うぞ吉成」
 吉成は唇を噛み、晴海と明美は眦を決して桃太郎を睨みつけていた。少女たちは涙ぐんでいるようにも見えた。
「私たちを脅したことは許さない」
「お前たちはいつかあたしらが倒す」
 桃太郎は嗤った。
「好きにすればいい。じきに我々が世界を地獄にたたき落としてやろう。そうなればもう手遅れだ。安倍の力でも世界は救えぬ」
「我々には我々のやり方がある」
「じきにお前たちの終わりの日が来る」
 桃太郎は底意地の悪い笑みを頬に貼りつけたままだ。
「悪いが、あとひとつ用事がある。土御門にも伊勢にも伝わってはおらなんだ、陰陽寮に伝わる宝珠をいただこう」
「馬鹿な」
「なぜそれを」
「必要なんでね。珠と剣と鏡。鬼の手になる三種の神器があれば、世界は思いのままだ。そして、我々が摑んでおかなければ、綱だの頼光だのに再び封印されぬとも限らない」
「貴様」
「あれは家宝だ」
「お前たちを皆殺しにしてから、その家をゆっくり探してもいいんだが」
 吉成は、噛みしめた唇から絞り出すようにつぶやいた。
「地下のお文庫だ。四隅を鋼で補強した桐の箱に入っている。赤漆で塗られているのですぐ見つかるだろう。地下室に入ると、一番奥に神棚がある。その下の船箪笥にある」
 そこまで聞いて、屋根の上の猿田は、瓦を数枚めくって屋敷に飛び込んだ。屋根板の破れる音がした。
「乱暴者め」
「珠まで」
 少女たちの声が終わらぬうちに、猿田はすぐに玄関から飛び出してきた。鳥籠ほどの大きさの箱を抱えていた。
「ありました」
 桃太郎の前で漆塗りの箱を開いた。箱の中には、水晶とも翡翠とも見える不思議な色合いの石でできた球体が納められていた。大きさはソフトボールくらいか。
 箱の下部には抽斗がついており、開けると美しい錦繍の袋が入っていた。桃太郎はその袋に珠を入れて、雉牟田に投げて寄越した。
「首から提げられるようにしておけ。俺が持つ」
 桃太郎は安倍家の三人に顔を向けた。
「邪魔したな」
 手下の三人はすでに人の姿に戻っていた。
「邪魔どころじゃねえ」
「絶対ぶっ潰す」
 桃太郎は背を向けたまま肩をすくめた。
「おおこわ。ま、いつでも来るがいいさ。今度は手強いよ。君らのおかげでね」
 からからと笑って車に乗り込んだ。
 桃太郎はリムジンの後部座席に乗り込むと、たちまち厳しい表情になった。こめかみに血管が浮いている。
「急げ。綱どもはまだ力を取り戻していないはずだ」
 リムジンは高速道路を西へと向かった。雉牟田の指し示す通りに飛ばしに飛ばして、日が暮れる前に蘆屋道舜と満の住まう古刹に着いた。門前には坂田の街宣車が停まっていた。

13

 敦たちは、庫裏の座敷で車座になって道舜を説得しようとしていた。しかし道舜は、生まれる力の巨大さが測りきれず、頼光たちに対して信用はしきれず、眉間に深く皺を刻んで沈黙を貫いてた。
「来ました。桃太郎です」
 姫夜叉が不意につぶやいた。
「今度の連中は今までの比ではありません。千年前の怪物に戻ったようです」
「なんと」
 道舜は一瞬大きく目を見開いて、すぐに瞑目した。瞼の裏に桃太郎の姿を捉えようとしたのか。何かを諦めたような表情にも見えた。
「満、五龍萬勢祭だ。用意できるか」
「じいちゃん、ぼくを誰だと思ってるんだい」
 満は立ち上がって本堂に続く渡り廊下の方へ駆け去った。
 そのとき、門の外に車の近づく音が聞こえた。敦たちは揃って本堂の入り口の向こうの山門を眺めた。
「来ました。山門前です」
「それは見りゃわかる。桃太郎がリムジンに
乗るのか。えらい時代だな」
 坂田が言葉を返した。
 リムジンから降りた桃太郎一行は、横一列に並んで山門を入ってきた。中央の桃太郎のみ、腕が四本ある怪物の姿をしている。
「あれが桃太郎か」
 道舜が感極まったようにつぶやいた。
「綱はおるか」
 桃太郎の濁った声が本堂に響き渡った。

 蘆屋満は、寺の本堂に祭壇を用意していた。陰陽師としての大がかりな祭祀は年に幾度もないが、必要なものは須弥壇の下に収納してあった。
 祭壇を設え、子どもながら陰陽師の装束に着替えると、満の表情は急に大人びて見えた。
 五龍萬勢祭は、蘆屋道満より千年にわたって伝わる陰陽道の秘法である。陰陽師が雨乞いのために呼び出す五大龍神を人の身に降ろすことができる。かつて道満が源頼光と四天王にその術を施し、桃太郎を圧倒する力を与えたという。
 四天王の子孫を名乗る者たちは、綱を先頭に庫裏から本堂に駆け込んできた。
 満は落ち着いた声で四人に告げた。
「大急ぎで五龍萬勢祭を行います。みなさんはそこに座ってください」
「しかし表に」
「とんでもねえ連中が」
 満は手の幣帛で本堂の床を指した。
「ですからそこへ座って。目を閉じて黙っていてください」
 満の圧力に押されたように四人は祭壇の前に正座した。
 声変わりもまだらしい満の幼さを残した声が、本堂に響き渡った。

 轟天丸は巨大な魔獣に向き合っていた。全身に力を籠め、髪の毛を逆立てて炎嶽を構えた。握った手から闘気が流れ込み、金棒は灼熱していた。
立ちはだかる赤鬼に向かって、魔獣は咆哮した。三つの首がそれぞれ大きな口を開けて、あたりを揺るがすような吠え声を轟かせた。
「やかましい!」
 轟天丸が中央の犬の頭に炎嶽を叩きつけた。
「ギャイン」
 中央の頭は痛そうに鳴いたが、すかさず両脇の首が襲ってきた。轟天丸は下がらずに腹の下に飛び込んだ。前足の膝を横から金棒でぶっ叩く。
「轟ちゃん!」
 姫夜叉は望月を手に、無数の猿を相手にしていた。姫夜叉は長大な槍を振るって、群がる猿を次から次へと薙ぎ払い突き殺ししていたが、先に出会った猿とは頑丈さも凶悪さも比較にならない相手に苦戦していた。
「ひゃっほぅ! 猿ども、青い姉ちゃんをやっちまいな!」
 木の上で不格好なゴリラのような猿田が囃し立てた。ときおり頭や脇から毛を抜いて吹き飛ばしてくる。その度にわらわらと新たな猿が現れた。猿田は枝の上で楽しそうに飛び跳ね、木から木へとめまぐるしく飛び移った。

 敦たちは、祭壇の前で歯を食い縛って瞑目していた。本堂の扉は内側から閉めきられ、大人の太腿ほどもある閂が掛けられていたが、扉にバンバンと何かがぶつかる音が響いた。
「満! まだか!」
 本堂に駆け込んできた道舜が叫んだ。
「無茶言わないでー、ちょっと待ってー」
 露台龍王を招請する咒言の合間に、満の悲鳴のような声が聞こえてきた。

 轟天丸は大きく跳躍して魔獣の背に飛び乗った。背の上に立ち上がって、三つの首の根元に炎嶽を渾身の力を込めて数発叩きつけた。次に先端を下にして縦に叩き込む。魔獣は遠吠えでもするように、三つの首を持ち上げて吠え声を上げた。右側の首をひねって轟天丸を襲った。轟天丸は振り落とされまいと、首筋の毛を固く握っていたのが一瞬の判断を遅らせた。魔獣の首は轟天丸の右腕をがっちり咥え込んだ。背から引きはがして人形のように振り回した。
 轟天丸は宙を舞いながら左手の炎嶽で鼻面を打つが、手先の打撃ではダメージは与えられない。
 ガチン!
 魔獣の牙が噛み合う音がした。右腕の先から血を吹き出しながら、轟天丸の体が吹っ飛んだ。肘から先がなくなっていた。
 姫夜叉は全身に猿の血を浴びて、赤鬼と見まがうほど体を真っ赤に染めていた。今は長槍を双刀に持ち替えて、猿の群れの中で華麗に舞うように戦っていた。くるくると身を翻し、刀を握った両の腕を回すたびに、猿の首が飛び、袈裟に斬られた猿が斃れた。しかし、数限りない猿を相手にして、表情には疲労の色が濃い。
 一匹の猿が姫夜叉の刃をかいくぐって背に飛びついた。羽交い絞めにするように抱きついて首筋にかみついた。
「がっ!」
 姫夜叉の口から呼気の塊が飛び出した。思わず片膝を突く。
「下弦!」
 姫夜叉の手に鎖鎌が握られた。背後の猿の首を引っかけるようにして掻き落とした。しかし、この隙を見逃す猿の群れではない。姫夜叉の姿は山のような猿の間に埋もれた。
「姫!」
 片腕の轟天丸が、炎嶽で猿の山を薙ぎ払った。下から血まみれの姫夜叉が現れた。美しい顔の反面に深い爪痕が走っていた。
「ありがとう。左目やられちゃった」
 二人は立ち上がって、背中を合わせるようにして敵に相対した。左には巨大な三つ首の魔獣、右には無数の異形の猿。
「さすがに本物は手強いな」
「四天王はまだかな」
 二人は肩で息をしていた。
「ちょっとやばいな。逃げるわけにもいかんし」
「来たよ」
 巨大な魔獣と猿の群れが一斉に襲い掛かってきた。
 その瞬間、本堂の扉が開け放たれた。
 扉の奥から三筋の光芒が走って、魔獣の頭を襲った。それぞれの首は正確に右目を貫かれていた。魔獣は悲鳴を上げて跳び退った。
「すっごいな、この弓。大砲みたーい」
 はしゃぐような季美の声が聞こえた。
 扉から三人の鎧武者が飛び出してきた。巨大な鉞を風車のように振り回す男は、猿の群れに飛び込むやいなや、あっという間にすべての猿を蹴散らした。大きな鎌を持った一人は魔獣を追って、脇へ抜けるなり大鎌を一閃した。魔獣は脇腹を切り裂かれて、逃げるように山門を飛び越えた。向こうに飛び降りた時には人の姿に戻っていた。犬飼狗美は山門の下で仁王立ちになって戦いを眺めていた桃太郎の陰に隠れた。
「なんだこいつら。マジかよ俺の猿たちが」
 猿田が木の上でこぼした瞬間、一筋の矢が飛んできた。猿田は跳躍して次の木に移った。季美の矢は、今まで猿田が立っていた松の枝を大きな穴をあけるように貫いた。一抱えほどもある太い枝が見事に両断されて地に落ちた。
 渡辺頼三、四人の鎧武者は傷ついた鬼たちを背後にして、桃太郎の視線から守るように並んで立った。
「よくやったな。轟天丸、姫夜叉」
 前を向いたまま敦が声をかけた。
 鬼たちは本堂の壁に背を預けて、ずるずると座り込んだ。
「あとは俺たちがやる。少し休んでろ」
 座布団よりも大きな刃を持つ鉞を肩に乗せて、坂田が言った。
 本堂から甲高い少年の声がした。
「気をつけてよ。龍神様だってなじむのに時間がかかるんだ」
 満は、本堂の中の祭壇に大きな護摩壇を据え、せわしなく呪符を書き御神酒を撒き、九字を切りながら咒言を唱えていた。五龍萬勢祭はまだ完了していないらしい。
 山門をくぐって桃太郎が迫ってきた。
「貴様らが力を取り戻す前に殺してやろうと思ったが、少し遅かったようだな。まあよい。こちらも以前の我々ではない。貴様らが力を取り戻したところで、ひと捻りに殺すだけのことだ」
 敦が一歩前に出た。
「あんたが桃太郎か。ぼくは渡辺敦だ。綱の子孫だと言われている。この世に蘇ってすぐのところ悪いけど、またばらばらにして封印してやるよ」
 桃太郎と敦は火花を散らすような視線をぶつけ合った。
「だめだめ、あんた今何かしただろう。ぼくらにそんな子どもだましは通じないよ」
 敦は腰の髭切をすらりと抜いた。

 桃太郎は一歩下がり、犬猿雉が再び敦たちに相対した。桃太郎に傷を癒された狗美は、再び巨大化して四人に牙をむいた。猿田が胸毛をむしり取って吹き飛ばすと、無数の猿が押し寄せてきた。鳥人と化した雉子牟田は、人の目には追えぬ速さで猿の間を縫い、魔獣の背の陰から四人に襲いかかった。
 季美が雉子牟田の羽に搏たれて吹っ飛んだ。
「ってーな、のやろー」
 尻もちをついた状態で、落日を横に構えて立て続けに矢を放つが。雉子牟田には当たらなかった。その代わり、間の空間にいた多くの猿を射殺して、その向こうの山門の屋根を吹き飛ばした。
「むぐう。ろっこつ~」
 季美は脇腹をおさてうずくまった。
 本堂の奥から轟天丸が片腕を伸ばしてきて、季美を堂内に引き込んだ。
 外を見ると、敦と坂田が得物を揮って魔獣に挑みかかっていた。魔獣の牙と爪は名刀の鋼にも等しいらしく、髭切の打突を弾くように防ぎながら、的確に二人の喉笛を狙ってきた。二人の武器は一本ずつ、魔獣は三つの大顎と二本の前脚、二対一に見えても劣勢は明らかだった。
 貞光は西洋画の死神が持つような巨大な鎌を振り回して、押し寄せる猿の群れを当たるを幸い薙ぎ払っていた。しかしこちらは文字通り多勢に無勢、体の傷がみるみる増えるのはどうしようもない。若い貞光はまだまだ意気軒昂ながら、たちまち血だるまになっていった。
「満、急げ!」
 道舜が叫んだ。満は振り向くことすら能わず、護摩壇の前で一心不乱に咒言を唱えていた。護摩壇は、天井に届くほどひときわ大きな炎立ち上げるや四散して、火のついた護摩木を周囲にまき散らした。
「じいちゃんごめん、ここまでだ!」
 散らばった護摩木から立ち上る煙に包まれて、満は立ち上がった。道舜は思わず駆け寄って孫を抱きしめた。
「よくやった満。さすがは道満様の再来じゃ」
「みんなを助けないと。じいちゃんは鬼の二人とお姉ちゃんを診てやって」
 満は道舜の腕の中を飛び出して、本堂の入口に立った。ポケットから取り出した木像を地面に向かって投げた。
「吽!」
 ドン、と地面を揺らす音とともに、巨大な孔雀の背に乗った三面六臂の孔雀明王が現前した。
 満がバディと呼ぶ孔雀明王は、無類の強さを見せた。金剛杵や錫杖を揮っては三つ首の魔獣を撃退し、明王の乗る孔雀は数多の猿を悉く踏みつぶした。雉は上空へと逃れようとしたが、孔雀明王の放った羂索に絡め取られて、地上へと叩きつけられた。劣勢だった敦たちは、孔雀明王の助けを借りて、犬猿雉を追い詰めた。
 それを見た桃太郎が宙を飛んだ。犬の背を踏んで孔雀明王の遙か上を飛び越え、本堂に飛び込んできた。桃太郎は怒りの形相で、印を結ぶ満の前に立ちはだかった。まずは孔雀明王を止めるのが先だと踏んだのだろう。
 その見た目の対照的なこと、提灯と釣り鐘どころではない。かたや身長二メートルをゆうに超える四本腕のモンスター、それを睨み返す紅顔の美しい小学生。
「道満、推参なり!」
 桃太郎の怒号があたりの空気を震わせた。
 満は桃太郎を見上げて涼しい顔で立っている。
「道満じゃねーよ」
 満が指を鳴らすと、孔雀明王の憤怒面と化した顔の一つが振り向いた。桃太郎の背を唸りを上げて錫杖が襲う。
 桃太郎は満を睨んだまま、背後の二本の手で錫杖を受け止めた。桃太郎の肩の筋肉が膨れ上がった。
「哄!」
 桃太郎は気合を込めて長大な錫杖を奪い取った。
「危ない!」
 本堂の奥で横たわって道舜の手当てを受けていた姫夜叉と季美が同時に叫んだ。
「三日月!」
 姫夜叉は半身を起こして叫ぶや否や、目まぐるしく両手を振った。桃太郎の右半身の、こめかみ、首、肩、肘、手首、脇腹、腰と、姫夜叉の投げた手裏剣が深々と突き立った。
「むん!」
 季美の矢は、桃太郎の右拳を過たず貫いた。
 桃太郎は顔を顰めて二人を睨んだが、そのまま孔雀明王から奪った錫杖を一閃し、満に向かって突き出した。
 悲鳴を上げる間もなかった。
 満は座り込むように両膝を突いた。自分を守ってくれるはずだった孔雀明王の錫杖が、自分の腹を貫いているさまを確かめるようにうつむいた。即死だった。
「満ーっ!」
 道舜の叫びが堂内に響き渡った。

 境内で犬猿雉を相手にしていた頼光たちが、敵の血か自分の血か、血だるまの姿のまま本堂になだれ込んできた。そのままの勢いで桃太郎に飛びかかる。
 桃太郎は、振り下ろされる白刃をかいくぐって敦に飛びついた。左手で髭切の柄を、右腕で敦の腰を抱えたまま突進し、本堂の壁を突き破って外へ飛び出した。敦の手から髭切を奪って、激しい衝撃に朦朧とする敦を蹴り飛ばした。敦ははるかに飛んで寺の土塀に背中から叩きつけられた。寺の土塀が人の形にくぼんだ。
「髭切はもらっておく。悪いが千年前のようには行かなかったな」
 桃太郎は、呆然とする頼光たちに言い捨てると、眷属を連れて姿を消した。隠れ蓑を用意してあったらしい。季美の矢を警戒したのか、雉牟田のリムジンは乗り捨ててあった。
「孔雀明王まで出てくるとはな。道満でもあんな式神は使わなかったぞ」
 道舜の古刹から風を巻くような速歩で遠ざかりながら、桃太郎があきれたように言った。
「しかし、あの小僧もすでに」
 雉牟田は必死で桃太郎に付き随いながら答えたが、三人ともかなりの深手を負っているようだった。
「あの小童が道満並みの力を持つとは想定外だった。おかげで、鬼どもはなんとかなったが、綱や金時はえらく手強くなっておった」
 六甲山系の山道を辿りながら、十分な距離を取ったところで、桃太郎は歩調を落とした。犬も猿も雉も、人の姿に戻って肩で息をしていた。
「四天王は殺せなんだが、まあよい。最大の目的であった髭切はこうして手に入れた。すでに珠はある。あとはこの二つに鏡の在処を吐かせるだけだ」
 桃太郎は上機嫌だった。あの場で無理押ししても、手下を失うだけだっただろう。しかしこうして、部下を失うこともなく、髭切と珠を手に入れた。上々の首尾だと思った。

 道舜は、すでに声もなく涙を流しながら満の亡骸を抱きしめていた。
 満の腹部を貫いていた錫杖は、孔雀明王と同時に消えた。跪いた姿勢からうつ伏せに倒れた満の腹部を中心に、真っ赤な血だまりが床に広がった。
 道舜はためらわず満を抱き起こし、すでに命が失われていることに気づいて、人目もはばからず慟哭したのだった。
 目の前で孫を殺された祖父の怒りと悲しみはいかばかりか。敦は唇をかんでその姿を見つめることしかできなかった。外から戻った貞夫が二人に近づいて、小さな木像に戻った孔雀明王をそばに置いた。
 道舜が不意に顔を上げた。
「安倍の力を借りましょう。満をこのままにしてはおけません」
 その場の人間はみな葬儀のことだと思った。まずは医者と警察に連絡し、葬儀屋はそのあとのはずだが、なぜ安倍なのか。陰陽師には仏式でも神式でもない、独自の葬儀作法があるのかもしれないと思った。
「千年前の秘法や力が今の安倍に残っているかどうかはわかりません。もちろん私も全力で力を貸すが」
「陰陽師だけの特別な弔いの儀式があるんですか」
 そう言った敦を、道舜は意外そうに見返した。
「弔い? 生き返らせるんだよ、満を」
 敦は、道舜がおかしくなったのかと思った。いかに陰陽師が謎めいた能力を持っているとはいえ、死んだ人間を生き返らせるなどとは正気の沙汰ではない。
「『簠簋袖裡伝』という書物には死んだ安倍晴明が蘇った話が、古浄瑠璃には晴明が殺された父保名を蘇らせたという記述がある。何か知らぬか、安倍家に尋ねる価値はある」
 そう言って道舜は満の体を持ち上げた。よろけそうになるのを坂田が支えた。満の体を受け取って軽々と抱き上げる。
 本堂を奥へ抜け、蘆屋家の庫裏へ満の遺骸を運び込んだ。

 山門の前に一台のワゴン車が横付けされた。ドアから飛び出してきたのは、双子の少女と中年男性、晴美明美の姉妹と父親の安倍吉成だった。
 親子はあたりを見回してうなずき合うと、まっすぐ蘆屋家に向かった。
「ご免」
 三人は玄関を開けるなり、声を揃えて呼びかけた。返事も待たずに上がり込んで座敷に向かう。廊下をずかずかと進んで、声もかけずに襖を開けた。室内の全員が安倍一家を振り返った。
「満君!」
 晴美が叫んだ。
「大丈夫?」
 明美も大声を出した。
「落ち着け。まずは座れ」
 吉成が二人を促し、三人は並んで廊下に正座した。
「道舜殿。ご無沙汰しております」
 まず、吉成が三つ指をついて深々と頭を下げた。道舜は瞑目したまま答えない。
「このたびのことはお詫びのしようもございません」
 吉成は床に額をつけたまま詫びを述べた。張本人でもある双子の姉妹も父の両脇でそれに倣った。道舜は唇をへの字に結んで目を閉じたままだ。
 長い沈黙が流れた。
 敦が沈黙に耐えきれなくなったように口を開いた。
「桃太郎が来ました。化け物のように強くなった犬と猿と雉を連れて。そして、満君が桃太郎に殺されました」
 吉成ががばりと顔を上げた。
「し、死んだのは満君だと……」
「だから連絡した。こちらへ向かっているとは思わなかったが」
 道舜がようやく口を開いた。
「桃太郎はまず我らの元へ来たのです。そして協力背年場我々の命はないと……」
「その話は後で聞く。奴らはあれほどの力を得てきたのだ。金剛乗得の法にせよ極動天岳の法にせよ、安倍家に伝わるものだ。おおよその想像はつく。それよりもじゃ」
 そこで道舜は居ずまいを正した。
「安倍の家に生活続命の法は伝わっておるか。伝わっておるとして、わしが手を貸せば可能か」
 吉成は正座のまま背筋を伸ばした。
「大唐荊山の伯道上人の法なら伝わっております。無論この千年というもの、安倍家でも人に試した例はありません。けれどもこの時代、私程度の力では万分の一も実現はかないそうに……」
「わしが手を貸してもか」
「この娘たちであれば、ひょっとしたらと思います。これらは親の欲目ではなく、安倍保名以来千年の系譜でも出色の力を持っております」
「満もそうじゃった。桃太郎千年の封印が解ける時機に合わせた天の配剤やも知れん」
 今度は道舜が畳に手をつく番だった。
「頼む。満を蘇らせることができるなら、お主でも娘さん方でもかまわない。急ぎ生活続命の法の準備をしてもらいたい。祭祀の場所なら本堂を使ってくれ。必要なものがあればどんなことでも協力する」
 千年の昔、安倍晴明は蘆屋道満との術比べに敗れて、首を刎ねられたことがある。そのときに、唐で晴明に陰陽道を授けた伯道上人が、神通力で晴明の死を知るや命がけで来朝し、すでに骨となっていた晴明を復活させたと伝えられている。そのときの呪法が「生命続命の法」なのである。
 安倍家の三人は、ワゴン車から祭壇の用意をはじめ、さまざまな呪具を持ち出して、本堂の中央に祭壇を設けた。なま物でもある昆布や裏白、真榊、神事用の大麻などは道舜が用意した。
 吉成と道舜は烏帽子直垂の正装を身につけ、晴美と明美は巫女のような衣装に着替えた。
 五色の幣と多くの灯明を据えた祭壇の正面には満の亡骸を横たえ、その前に安倍晴美と安倍明美の双子の少女が正座した。安倍吉成と蘆屋道舜はその後ろに控えた。
 双子の少女たちの清らかな声が本堂に響いた。
「南無日本大小の神祇、只今勧請申し奉る。まず上は梵天帝釈、下は四天大王、伊勢は天照皇大神、熊野滝本竜蔵権現、葛城三輪竜田の大明神、八幡稲荷祇園賀茂の御社」
 少女たちは錫杖を振り立て、幣帛を舞わせて祈祷を続けた。
「坂本山王二十一社、打下しに白鬚大明神、駿河富士浅間、住吉天王寺聖徳太子、恩智枚岡誉田の八幡、別して摂津信太の大明神、総じて日本の諸神諸仏勧請申し奉る。仮令定業限りの命なりとも一度蘇らせてたび給え。是非とも叶わずばこの晴美が命、明美が命、只今に取りてたべ」
「是非とも叶わずばこの吉成が命、道舜が命、只今に取りてたべ」
 後方の二人も唱和した。
 祈祷は長く続いた。しかし、千年前には伯道上人が一人で行った呪法である。由緒を踏まえた作法で、四人の実力者が呪力の総てを賭けた祈りが諸天に届かぬはずはない。
 死体のはずの満の頬に生気が戻ったように見えた。双子の少女は額に汗を浮かべたまま、一心不乱に咒言を唱えている。もちろん吉成と道舜はその後ろに控えて九字を切っては咒言を唱和していた。
 満が目を開けた。横たわった姿勢から床に肘をついてゆっくりと体を起こした。帯もなく着せられていた帷子の前が開いて胸元が見えた。桃太郎に貫かれた鳩尾の傷は、星形の傷跡を残してきれいに塞がっていた。
「咏っ!」
 双子の裂帛の気合によって、生活続命法は終了した。
 蘆屋満は、完全に先ほどの小学生の姿のままで蘇った。
「なんと、無事に生き返られたか。ともあれよかった。まさか生活続命の法がこの世で再現できるなど、私も半信半疑でしたが」
 吉成が額の汗を拭きながら言った。
「千年前は晴明はすでに骨になっていたと聞く。まあ、骨から復活するよりは簡単だったかもな」
 道舜も疲れ切っていたようだが、全身に安堵感があふれていた。
「満、体の具合はどうだ」
「どうしたの、ぼく」
「ああ、桃太郎に殺されたんだ。それを安倍さんのみなさんが、がんばって生き返らせてくれた」
「体はなんともない。すごい。おじさん、お姉ちゃんありがとう」
 満ははだけた帷子の前をかき合わせながら、二人に礼を述べた。
「お前にも聞かせたことがあるだろう。生活続命の法だ」
「安倍晴明がばらばらの骨から復活したってやつ? ただの伝説だと思ってた」
 道舜は笑みを浮かべて満に言った。
「よし、満、体に別状がなければ、シャワーを浴びてきなさい。碓井君、手伝ってやってくれ」
 貞夫は周りを見回したが、仕方ないなという表情で立ち上がった。
「お前も血まみれじゃないか。ついでにきれいにしてこい」
 坂田に言われて貞夫はぺこりと頭を下げた。満と二人で廊下の向こうに出て行った。
「しかし、本当に死者を蘇らせるとは」
 道舜が感に堪えたように洩らした。
「私も妻が死んだときに試してみましたが、瞬きひとつさせられませんでした。代々の記録でも、室町時代に一例伝承があるきりで、他に成功した話はついぞ聞きません」
 吉成が返した。
「驚くべき術者だな。お宅の娘さんたちは」
「満君同様、これも桃太郎復活を予見した千年後というスイッチが入ったのかも」
「あるかもしれん」
 そう言って道舜は車座になっている敦たちに向き直った。
「みなも心してほしい。桃太郎は再びやって来る。今回は痛み分けのようだが、はっきりって我々の負けだ。犬猿雉とは五分に持ち込めたが、桃太郎には歯が立たないことがわかった。そして、満を殺され髭切を奪われた。これが敗北でなくてなんだろう」
 敦が納得しがたいという表情で食ってかかった。
「しかし、連中を手負いに追い込みました。すぐにでも襲いに来るというのはいくらなんでも」
「少々の傷など、あいつらにとって何ほどのものでもない。あとでみなの傷を診てみせるが、わしとてそこの赤鬼の腕を再び生やすことくらい造作もない。それよりもだ、桃太郎の目的を忘れてはおらんか」
「世界を地獄に変えること。そのために二度と封印されぬこと」
「そうじゃ。そのためには鏡を奪う、もしくは破壊すること。そして、それを使いこなす存在を殺すことだ」
「つまり」
「必ずお前らを殺しに来るということだ。そして、髭切と珠を持つだけでは鏡の場所などわからぬ。今回は、その二つさえあれば鏡の在処はわかると見込んで引き上げたようだが」
 道舜は言葉を継いだ。
「それらを共鳴させて鏡のありかを吐かせる必要がある。そしてその方法を知るのは我々を置いてない。すなわち、連中は体勢を立て直し次第、わしらを使うために、お前らを殺すために、桃太郎はやって来る」
「今度は勝たなきゃね」
 甲高い声がした。双子の片割れだ。
「待ってくれよ。ぼくらでは勝てないって話をしたところじゃないか」
「五龍萬勢祭はまだ終わっておらぬ。急拵えの準備では及ばなかった分を、再度わしと満とで万全に成し遂げなければならない。そこな赤鬼と青鬼も同様に五龍に次ぐ神獣を下ろす。神虎と麒麟がよかろう」
「ハイハイハイハイ!」
 安倍の娘たちが手を上げて大声を出した。
「なんだよ、うるさいな」
 敦が耳を押さえるようにしてたしなめた。
「安倍にもある!」
 晴美が叫んだ。
「すっごいことできるよ!」
 明美も声を張り上げた。
「本地喚博の法っていうの」
「本地仏の力を借りるんだよ」
「本地によっては力持ちにもなるし天才にもなる」
「弁慶なんてすっごい豪傑になったよねー」
「ねー」
「ねーじゃねえよ。わかるように説明してくれ」
 敦が言うと、吉成が引き受けてくれた。
「五龍萬勢祭と原理は似ています。英雄豪傑にはそれぞれ本地たる仏が存在します。その力を借りるのです。四天王のみなさんも、酒呑童子絵巻などによるとご先祖にはそれぞれ、多聞天、持国天、増長天、広目天が本地とされています。四天王という呼び名は、ただ四人いるからというだけのものではないのです」
「その法があったか」
 道舜が唸った。
「重ねて施せばどれほどの力になるか」
「私にもわかりません」
「轟天丸と姫夜叉は? 鬼に本地なんてあるのか」
 敦が聞いた。
「お二人には、道舜殿が神虎と麒麟を下ろすと言われたように、日光菩薩と月光菩薩を本地としてお力を借ります。本地喚博の法にはそれができます」
 そこへ、風呂上がりの満と貞夫が帰ってきた。道舜は二人を見て頬笑んだ。
「よし、早速、五龍萬勢祭の用意だ」


第一話 紅蓮の炎、群青の月 第一話

第二話 紅蓮の炎、群青の月 第二話

第三話 紅蓮の炎、群青の月 第三話

第四話 紅蓮の炎、群青の月 第四話

第五話 (本ページ)

最終話 紅蓮の炎、群青の月 最終話

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