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紅蓮の炎、群青の月 最終話

14

 桃太郎は苛立っていた。髭切と珠は手に入れた。その二つがあれば鏡の所在は自ずと判明すると思っていた。そして鏡を破壊する。頼光や綱の子孫を殺すのはその後でじっくり取りかかればいいはずだった。
 しかし、今目の前にある刀と珠は、微動だにせずただそこにあった。
「雉よ。三種の神器は互いに指し示し合うのではなかったのか」
 雉牟田は桃太郎の傍らで平伏していた。
「調べました限りでは、そのはずでございます。誠に面目なく」
「貴様の面目などどうでもよい。こいつらに鏡のありかを吐かせるにはどうすればいいのだ」
 桃太郎は目の前の剣と珠に顎をしゃくった。
「珠を持っていた安倍ならば方法を知っておるかと」
「忌々しい。また安倍の力を借りんといかんのか」
 桃太郎は血走った目で雉牟田を睨みつけた。
「奴らはどこにいる」
「今は京の北山に戻っておるようです」
「安倍の寺か」
「御意」
「犬と猿は」
「そろそろ傷も癒えようかと」
 桃太郎は髭切を手に立ち上がった。珠は雉牟田に持たせた。
「行くぞ。鏡が先だと思っていたが、かくなる上は頼光どもを先に殺す。そしてその場で、安倍に鏡のありかを突き止めさせるのだ」

「雉が飛んでるね」
 安倍家の縁側で、季美が空を見上げて敦に言った。ユニクロで買ったTシャツと短パンという寛いだ格好だ。たいした着替えも持たずに引っ張り出されたので、坂田の金で買った。
「一羽や二羽落としてもきりがないしな。どうせ僕らの居場所はずっと知られている」
「あんなの狙っても、今さら練習にもならないし」
 そう言って、季美は高い空で輪を描いている雉に向かって弓を引き絞る格好をした。もちろん手には何も持っていない。
「哈っ」
 短い気合とともに右手を開いた。遠くの空を飛んでいた雉がまっすぐ落ちるのが見えた。
「さすがだな」
「失神しただけ。死にはしないよ」
「桃太郎は来るのかな」
 背後の廊下を通りかかった吉成がそれに答えた。
「必ず来る。桃太郎にはそれ以外の選択肢はない」
 しばらくすると、双子の娘たちがやって来た。
「なにしてんのこんなとこで」
 晴美が言った。
「待ってるんだよ。桃太郎を。今度こそやっつけないとな」
「そろそろなんじゃないかって、今も敦君と話してたところなの」
 晴美が何か言いかけて、東の空を眺めた。
「来たかも」
 明美が小首をかしげて呟いた。
「東の小童が告げている」
「なんだそれ」
 敦が聞いた。
「あの件以来、ここら一帯に式神を放ってある。何かあれば教えてくれるように」
「そりゃ便利だ。セコムいらずだな」
「出迎えましょうか。家の中にいると、きっと家ごと潰しにくるよ。みんなに迷惑がかかる」
 敦が立ち上がった。季美もつられるように立ち上がった。
「安倍さんたちと蘆屋さんたちは家の中にいてください。あたしたちが守ります」
 奥にいた坂田と貞光に声をかけて、四人は揃って玄関に向かった。後ろから見ると、全員が一瞬光に包まれて見えた。光が消えると、手に手に得物を持った四人の鎧武者が現れた。
 四人が玄関を出ると、轟天丸と姫夜叉が出迎えた。もちろん二人ともすでに鬼の姿だ。二人の手の中で、すでに炎嶽は灼熱し、十六夜は青白く輝いていた。
「間もなくです」
 姫夜叉が言った。
「奇襲ではないのか」
 敦が言う。
「わしらを舐めとるんですわ」
 轟天丸は不敵に笑った。
「驚かせてやりましょう」

 ばさばさという大きな羽搏きの音とともに、雉子牟田の変じた大きな怪鳥が正面に降り立った。背には桃太郎を乗せていた。
 桃太郎はひらりと飛び降りると、怪鳥の背を軽く叩いた。
「ご苦労」
 桃太郎は敦たちに向き直り、一本の腕をあげて背後の社殿を指さした。
「そんな怖い顔をしてくれるな。今日は血を流すつもりはない。その奥にいる安倍に用がある」
 敦が一歩前に出て、桃太郎が左手に提げている刀を同じように指さした。
「こちらもあんたに用がある。その髭切を返してもらいたい」
 桃太郎は喉の奥でごぶごぶと音を鳴らした。目が細まり口角が上がったので、笑ったのかもしれない。
「そうはいかん。我々はこれで鏡を見つけねばならぬ。その後なら返してやらなくもない」
「なら、その腕ごともらう。四本もあるんだ、一本くらいいだろう」
 敦は腰の童子切安綱をすらりと抜いた。
 雉牟田が桃太郎をかばうように一歩前に出た。桃太郎は鼻先の刃も意に介さない。
「奥の三人を差し出してくれれば、無駄な血を流さずともよいものを」
 そこに甲高いバイクの音が近づいてきた。桃太郎の背後で砂塵を巻き上げてバイクが止まった。タンデムでやって来たつなぎ姿の二人がヘルメットを脱いだ。やはり猿田申介と犬飼狗美だ。すかさず桃太郎の左右に分かれて控えた。
「遅くなりました」
「気にするな。こっちは飛んできたんだ」
 敦の横に坂田が立った。
「もういいか。どうせ物別れだろ」
「ああ、そのようだ」
 敦が答え終わるより先に、坂田の巨大な鉞が宙を薙いだ。空気を裂く鋭い音が聞こえただけで、足柄の刃先は目にもとまらなかったが、桃太郎一味はバイクを超えて一気に飛び退がった。
 坂田はそのまま突っ込んで、第二撃を縦に振り下ろした。大型バイクが真ん中で真っ二つになった。頑丈な鋳鉄製のエンジンブロックが、カットモデルのように中身をさらした。
 それが合図になった。
 季美の矢が桃太郎の正面を襲った。脇の雉牟田が、余裕の笑みで桃太郎の前に盾ともなる羽を広げた。
 ばすん。
 季美の矢は雉牟田の分厚い羽を貫いて止まった。雉牟田の顔に驚愕の表情が広がった。
 桃太郎は鼻先で止まった矢を引き抜いて、季美に投げ返した。碓井貞夫が大鎌で受け止めた。
 四人の両脇を二筋の風が奔った。右は青く、左は赤く、突風のように桃太郎たちに迫った。
 狗美は魔獣に変じた。三つ首の咆吼が地を揺るがせた。猿田は一気に大量の猿を出した。数百匹の奇怪な猿が視界を埋め尽くすように広がって襲いかかってきた。
「こないだのようなわけにはいかんぞ」
 轟天丸は魔獣に迫って、炎嶽を正面の首に叩きつけた。鼻先を打たれた中央の首は鼻血を噴いて顔を背けたが、すかさず両脇の首が牙を剥いて轟天丸に襲いかかった。
 自分の相手は無数の猿だと悟った姫夜叉は十六夜を引っ込めた。
「立待」
 姫夜叉が声に出すと、手の中に長大な薙刀が現れた。頭上で風車のように振り回し、その勢いで猿の群れに斬り込んだ。一陣の竜巻のようにも見えた。目で追えぬどの速度で回転する刃に触れた猿たちは、たちまちバラバラになって消し飛んだ。
「二人に続くぞ」
 敦は振り返って声をかけた。
「おうよ」
 坂田と貞夫は巨大な刃物を背負って同時に駆け出した。季美が次々と放つ矢は、雉牟田の放つ怪鳥を悉く射落とした。
「貴様ら」
 桃太郎が敦の前に立ちはだかった。
「いい気になるなよ。千年前のようにはいかん。この場で皆殺しだ」
「そんな威勢のいい台詞は、千年先にもう一度聞かせてくれ」
 敦は童子切安綱を青眼に構えた。あたりの喧騒はすでに耳に入らない。桃太郎は二本の長い腕を垂らすようにして、髭切を地面に触れんばかりの下段に構えていた。残る二本の腕は、それぞれ小太刀を握って左右に高く掲げられている。
「厄介だな」
 敦は桃太郎の腹のあたりに視線を据えて全体を視野に入れながら小さくつぶやいた。「孫子」にある「率然」のたとえを思い出した。
 「率然とは、常山の蛇なり。其の首を撃てば則ち尾至る。其の尾を撃てば則ち首至る。其の中を撃てば則ち首尾倶に至る」
 どこへ打ち込んでも髭切が逆袈裟に襲ってくるだろう。髭切を抑えれば両の小太刀が首と胴にト飛んでくるはずだ。
 敦は童子切を上段に差し上げた。下段に対して胴ががら空きになる。渡辺綱の霊力の宿った鎧とはいえ、桃太郎の斬撃は易々と切り裂くだろう。
「ちえぇーい!」
 剣道の試合のように、激しい気合とともに敦は桃太郎の脇を抜けた。高校の対抗試合と異なるのはその速度だ。少しでも遅ければ、髭切に胴を抜かれていただろう。しかし、東方青龍神王の力を宿した敦の速度は桃太郎の反応速度を上回った。
 桃太郎の右上の腕が、小太刀を握りしめたまま宙を舞った。
 敦はすかさず振り返って、童子切を再び上段に構えた。桃太郎の面上に驚きの色がよぎったのが見えた。たちまち灰色の面貌に朱が昇った。
 桃太郎の歯の間から鋭い呼気が漏れたと思うと、髭切が膝元から跳ね上がってきた。退る敦を追うように刃先が延びる。桃太郎の猿臂の長さが敦に間合いを見誤らせた。上段の童子切で叩くように髭切を払って、敦は飛び退った。右脇を斬られていた。鎧のおかげで浅傷ですんだ。
「次は殺す」
 桃太郎の斬られた腕はすでに再生していた。
 桃太郎は一気に間合いを詰めて敦を襲った。正面から叩きつけられた髭切を近間で受けたが、桃太郎のすさまじい膂力に撥ね返すことはかなわなかった。敦の面体にもう一本の小太刀が叩きつけられた。
「なんの!」
 すんでのところで桃太郎の小太刀を受けたのは炎嶽だ。
「させるか!」
 桃太郎の脇腹を横から望月が貫いた。
「お前ら!」
 敦は力の抜けた髭切を押し返し、引き際に桃太郎の小手を払った。
 轟天丸は炎嶽を桃太郎の頭上に見舞い、姫夜叉は桃太郎の腹を貫いた槍はそのままに、十六夜を振るって桃太郎の両腕を薙いだ。
「ゴミどもが!」
 桃太郎は咆吼しつつ飛び退った。頭を砕きに来た炎嶽は小太刀で受けたが、髭切を構えた両腕は姫夜叉に斬り落とされていた。
 轟天丸は炎嶽を麻幹のように振り回して桃太郎を追った。その隙にに敦は髭切を取り戻した。童子切を鞘に戻して髭切を八相に構えて桃太郎を追う。
 桃太郎の両腕はすでに再生していたが、得物はすでに小太刀のみだ。三人に追い込まれて劣勢は明らかだった。
 桃太郎は助けを求めるように振り返ったが、魔獣に変じた狗美は坂田と貞夫の巨大な刃物に斬り立てられて苦戦していた。雉牟田は季美の矢に追われて地上に近づけない。
「猿!」
 桃太郎が叫んだ。無数の猿が桃太郎を囲むように現れた。
 姫夜叉と轟天丸が旋風のように猿の群れに斬り込んだ。短躯異形の猿たちが、胴を両断され叩き潰され首を飛ばされ、みるみる死骸の山を築いた。 敦は猿の群れを躱しつつ、髭切を構えて桃太郎に殺到した。桃太郎には一陣の風にしか見えなかっただろう。気づいたときには肩口から臍下まで髭切に斬り下ろされて、地面にどす黒い血をまき散らした。
 敦は桃太郎の首に提げられた袋を奪った。
「頼むぞ。姫、轟天丸!」
 敦は背後の守りを二人に託して、建物に駆け込んだ。
「満! 安倍さん! ここに剣と珠が!」

 社殿の奥は別世界のように静かだった。結界が張られているのかも知れない。敦は脇腹を押さえながら、廊下を駆け抜けるように社殿の奥に進んだ。
 社殿とはいえ、鄙びた村の古い神社だ、そんなに大きいわけではない。賽銭箱のむこうにすぐ奥の祭壇と壁が見えるような建物のはずなのに、敦は陰陽師を見つけあぐねていた。
 そのとき、廊下の突き当たりの物入れだと思っていた小さな扉が開いた。
「こっちだ」
 道舜の声がした。敦は髭切と奪った珠を持ってその扉に飛び込んだ。
 中は驚くほど広かった。磨き抜かれた板敷きの床がどこまでも広がっているように見えた。はるか向こうに小さく白布のかかった祭壇がしつらえられているのが見えた。満と安倍家の三人が見たこともないような恰好で祭壇を囲んでいた。
 敦は道舜に手を引かれるようにして奥の祭壇に向かった。
「驚かせてすまない」
 安倍吉成が口を開いた。
「ここは安全だ。我々が全力で結界を張っている。だから外のみなに力を貸せなくて申し訳ない」
「そんなことはいいんです。鬼たちも四天王も、今のところ桃太郎を圧倒しています。けど、いつまで持つか。早くしないと外もここもきっと危険です」
「渡辺さん、ここに剣と珠を」
 満が祭壇の中央を指さした。安倍の晴美と明美が、その両脇で唇を引き結んで立っていた。
 敦は抜き身の髭切と桃太郎の錦の袋から取り出した宝玉を祭壇に並べた。
「では」
「これより」
「法具魂招の法、加々美照見の法を」
「行う」
 安倍の少女たちの声によって秘儀は始まった。
「わしや吉成の霊力じゃ及ばんのじゃよ。孫にしてやられるとは、恥ずかしい話だがな」
 道舜がそれでも自慢げに、満の咒言を唱える姿を見つめながら敦に向かって呟いた。
「私の娘たちも大変な力を持っています。これも千年の巡り合わせかと。私たちはこの結界を守るだけで精一杯ですけど」
 三人の声明が高らかに響くのに合わせて、護摩壇が高々と炎を上げ、満の振るう幣帛を赫々と照らした。
 髭切と珠が祭壇の上で震え始めたかと思うと、鼓膜を劈くような高い音を発した。
 二人の少女が両側から真榊をかざすと、珠の上に髭切が立ち上がり、高速で回転を始めた。
 三人の祈りはますます激しくなる。回転する珠と剣は、耳を貫く高い音とともに白光を放ち始め、神殿中をまばゆい光で埋め尽くした。
 次の瞬間、天を差して回転する剣の先端から太い光の束が迸った。ひと抱えもありそうなオレンジ色の光芒が社殿の屋根を貫いて天空へと伸びた。
 屋外では、全員が武器を振るう手を止めて光芒に見入った。
「なんだあれは」
 巨大な鉞を構えた坂田が洩らした。
 そのとき桃太郎が叫んだ
「雉牟田、光の行方を追え!」
 雉牟田はばさりと翼を鳴らして高みへと昇った。 オレンジ色の光線は、天空高く駆け上がって雲を貫くかと見えたが、虹のように弧を描いて北西の山並みへと消えた。
「雉牟田、見たか!」
「御意!」
 はるか高空で雉が吠えた。
「猿、占部を止めよ! 雉、わしを乗せて連れて行け!」
 手負いの魔獣は、坂田と貞夫の目の前で反転した。木から飛び降りた猿田を背中で受け止めると、空を飛ぶ桃太郎たちを追うように走りだした。

15

「まてコラ!」
 貞夫の叫びは届かない。
「あいつら、あのままで町を突っ切るつもりか」
 巨大な鉞を担いだ坂田があきれたように言った。
 その横で二匹の鬼は唖然とした表情で、天空を切り裂いてはるか北西へ消えた光の束を目で追った。
「あれはひょっとして」
「老ノ坂」
「鬼の里に鏡なんてなかったよな」
 そこへ敦と陰陽師たちが、社殿から駆け出してきた。敦は抜き身の髭切を担いでいる。晴美と明美が四本の手で宝玉を包んでいた。剣と珠は内側から煌々と輝き、あたりを圧するような光を放っていた。両者の光は再び光束を絞り始め、二筋の光芒は二重螺旋のように絡み合いながら大きく天へ伸びた。
「行先はわかるか」
「あれは」
 蘆屋道舜は目を見開き、安倍吉成は瞑目していた。
 満が天を睨んでうなずいた。
「わかります。大江山です。正確には丹後ではなく山城寄りの大枝山の麓の老ノ坂にある異界の入口を指しているのでしょう。おそらく鏡はその入口の向こうの奥深く」
「異界?」
「大江山の鬼の里です。大江山絵詞に見える酒呑童子の宮殿があった場所。御伽草子では鬼ヶ島と呼ばれた場所。そしておそらく桃太郎が封印され、鬼たちが見張っていた場所」
「もとあったところじゃないか。桃太郎は何を探し回ってたんだ」
 敦はあきれたように声を出した。
 吉成が目を開いて、敦に聞いた。
「敦君。井戸の蓋がごとんとはずれて、中からお化けが出たとしよう。飛び出したお化けは、また蓋をされてはかなわんとすぐに蓋を壊しに来るだろう。しかし、井戸の蓋はある人にしかできない。君がその井戸のそばにいたらどうする」
「その人が来てくれるまで、お化けに見つからないように蓋を隠す」
「そして、お化けには井戸の蓋はここにないと言う。おそらくそういうことだ。宝鏡が守護者を離れてひとりでに姿を隠すとは考えられない」
 姫夜叉が轟天丸に声をかけた。
「酒呑童子さまが危ない」
「まさか。茨木童子さまもおるし、虎熊、星熊の兄貴もおるのに」
「どうもこうもねえや、ここの敦しかその鏡とやらは扱えねえんだろ。とにかくそこへ駆けつけて、今度こそあの連中を叩き潰そうぜ」
 坂田は持ち上げた快童丸の刃を、掌でバチンと叩いた。
「善は急げっすよ」
 貞夫が雄呂血切を差し上げた。
「行先がわかれば話は早い。姫、お前たちはどこにいても、鬼の里と自由に行き来できるんじゃないのか。俺たちも連れて行ってくれ」
 敦の頼みに姫夜叉は首を振った。
「無理です。鬼門とか裏鬼門と呼ばれるような通路を使うんですが、あれは鬼しか通れません。人間が通ると命がありません。悪人をつれて入ったことなら何度もありますが、全員一瞬でミイラに」
 即答された。
「私たちが先に行って桃太郎を迎え撃ちます。とにかく持ちこたえますので、みなさんは後から来てください」

 轟天丸と姫夜叉は、鬼の里に戻ると、里の主でもある鬼ヶ城の酒呑童子のもとへ駆け込んだ。
 酒呑童子は屋敷の奥深く、薄暗い座敷の中央に端座していた。烏帽子に狩衣を身に着けて、老いに痩せさらばえた姿は鬼の首領というよりも、尾羽打ち枯らした平安貴族を思わせた。眉すらすでに白く、深い皺が刻まれた相貌もすでに能の翁面に近い。鬼にとっても千年の時間は残酷であった。
「どうした。綱様はご無事か」
「もちろんです。それより」
「まもなく桃太郎がやって来ます」
「なんと」
「鏡を奪いに来るのです」
「酒呑童子さま。鏡をどこに隠された」
 酒呑童子は床几に肘をついたまま深いため息をついた。
「ここにはない。桃太郎塚があったろう。あの中心から動いてはおらぬ」
「そんな。ならどうして桃太郎はここを飛び出して」
「もう鏡ではないからだ。今我々が探しに行って目を凝らしても、見つけられまいよ。ただの土器か土塊のようになっておるはずだ」
「そんなものでどうして再び」
「綱様よ。綱様と髭切、陰陽師の力があれば鏡は再び鏡となろうぞ」
「しかしすぐにも桃太郎が来ます。千年前、いやそれ以上の力を持っているかもしれません」
「この里が蹂躙されます」
「わしはこの通り年を取り過ぎた。だが、茨木も星熊も代替わりしてまだ若い。お前らもおるではないか。綱様も来てくださるのじゃろ」
「必ず」
「急いでおられます」
「ならよい。お前らで持ちこたえよ」
 そのとき、烏天狗が飛び込んできた。
「御屋形様! 桃太郎が来ました! 犬猿雉も連れて!」
「轟天丸、わしを連れていけ。姫夜叉、着いてこい」
 酒呑童子は飛び上がって轟天丸の肩にしがみついた。
 烏天狗を先頭に、三匹の鬼は鬼の里を駆け抜けた。
 大枝山と鬼の里を結ぶ洞窟の入口を背にして、桃太郎が立っていた。手下の犬猿雉はまだ人間の姿のまま、その脇に控えていた。
 酒呑童子は轟天丸の背から下りて、桃太郎と対峙した。
「久しいの、酒呑童子。えらく歳を取ったもんじゃないか。見違えたぞ」
「桃太郎か。千年たって寝ぼけたままと見える」
「ぬかせ。しかし今日は急いでいる。鏡を出してもらおう」
「化粧でもするのか。似合うまいに」
「なめんじゃねえぞ、ジジイ」
 猿田が一歩踏み出した。桃太郎が制する。
「千年前、流れた鬼の血の量を忘れたわけではあるまい。里の川を再び真っ赤に染めたいのか」
 千年前の悲劇を記憶する酒呑童子は、悲しげに眉をひそめた。
「こわいことを言わんでくれるか。そうしてわしを脅すのも結構じゃが、鏡はここにはないぞ」
「馬鹿なことを。剣と珠はまちがいなくこの里を指し示したぞ」
「馬鹿はどっちじゃ。貴様はあの鏡によって、この里で封印されていた。千年を経てその鏡の封印が解けた。鏡がそのままだと思うのか」
「どういうことだ」
「鏡が鏡のままなら力を失ういわれがない。割れるだの砕けるだの、鏡でなくなるだの、力を失うということは鏡でなくなることだとは思わんか」
「なら、その欠片でよい。ここへ出せ。二度と鏡へ戻らぬように粉々にしておく」
「鏡の間は貴様の封印が解けぬように、わしらが見張っていたが、すでに見失のうたよ。それでもこの里にまだあるというなら勝手に探すがよい」
 桃太郎の灰色の肌に朱が昇った。こめかみの血管が脈打ち、首筋が膨れ上がったように見えた。ぎりぎりと歯軋りの音が聞こえるようだった。
「なら貴様らに探してもらおう。今すぐここへ持って来い」
 酒呑童子は声を上げて笑った。
「ああ、探してやろう。しかし、お前らのためではない。お前を再び封印するためじゃ。その前に、お前らはここで潰して動けぬようにしておく」
 今度は桃太郎が声を上げて笑った。
「老いぼれに何ができる。この里は我らが隠れ家としていただく。逆らう鬼は一匹残らず皆殺しにしてな」
 その台詞が合図となったように、犬飼狗美は巨大な魔獣に変じた。三つの首で咆哮を上げ、そばにいた鬼をたちまち数匹咬み殺した。猿田は脇の毛を毟ると、無数の猿をその場に放った。猿たちは周囲の鬼たちに向かって、大人も子どもも区別せずに襲いかかった。雉牟田は宙に舞い、幾羽もの雉を放った。雉たちは遠慮も躊躇いもなく周囲の鬼の眼を抉った。
「てめえら!」
 轟天丸は炎嶽を振るって、多くの猿を薙ぎ払うように追い払った。
「上弦」
 姫夜叉は、双刀を旋風のように操って、宙を飛び交う雉を切り捨てた。
 そこへ、轟天丸のような巨漢の鬼が、数匹助太刀に現れた。
「茨木!」
「轟さん!」
 あとに続くのは、かつて酒呑童子の四天王と呼ばれた星熊童子、熊童子、虎熊童子、金童子の四人だ。いずれ劣らぬ巨体に金棒を担いでいる。桃太郎は轟天丸と姫夜叉に任せたとばかりに、鬼たちはそれぞれ犬猿雉に立ち向かった。
 桃太郎は四本の腕にそれぞれ剣を摑んで、轟天丸と姫夜叉の攻撃を受け止めた。
「また戦を繰り返すつもりか。貴様らでは我々に勝てぬことは、千年前からわかっておろう」
「わしらとて千年前と同じように思われては困る」
 轟天丸と姫夜叉が、荒れ狂う嵐のように得物を振るって桃太郎を追い込むが、桃太郎はすべての攻撃を受け流した。

「赤鬼と青鬼か。安倍の寺では世話になったな。おかげで大切な刀と珠を奪われた。今度は許さんよ」
 桃太郎は四本の剣を目まぐるしく斬り立てて、轟天丸と姫夜叉を圧倒した。
 轟天丸は灼熱した炎嶽で応戦するも、無数の猿にまとわりつかれ、桃太郎の剛力を受け止めるので精一杯だった。猿たちの爪と牙で、いつしか満身創痍の傷を負っていた。姫夜叉の豪槍望月さえ千段巻のところで両断され、立待に持ち替えたものの薙刀の刃は桃太郎には届かなかった。

 星熊童子と熊童子は、狗美の変じた魔獣と対峙していた。二匹の鬼は、あまりに巨大な魔犬を相手に攻めあぐねていた。
「でかいな」
「千年前はこいつにたくさんの鬼が殺されたらしい」
「だろうな。倒せるか」
「倒せるかじゃなくて倒すんだよ」
 二匹の上に魔獣の前足が振り下ろされた。地響きを立てて前足が叩きつけられ、長い爪が地面を抉った。辛くも飛びのいた二飛の鬼に、それぞれ頭部が襲いかかった。
 星熊は跳躍して自分を襲った頭部の眉間を金棒で叩いた。悲鳴のような咆哮が上がった。熊は大きく開かれた口を正面から払った。鬼の腕ほどもある牙が一本砕け飛んだ。

 虎熊童子と金童子は、次から次へと宙から襲いかかる怪鳥を金棒で払いのけていた。攻撃に特化した怪鳥は、雉とは名ばかりで、空より飛来する無数の剣に等しかった。二匹の手の届かぬ所にいた鬼たちが目や腹を貫かれてバタバタと斃れていった。
「虎熊! あの野郎なんとかならねえのか!」
 金童子が、空高く浮かんで雉の群れを放つ雉子牟田を見上げて叫んだ。
「飛び道具がねえからな!」
 虎熊は負けじと言い返しつつ、扇風機のように振るった金棒で多くの雉を叩き落とした。

「加勢するぜ!」
 轟天丸と姫夜叉の前に一匹の鬼が飛び込んできた。灰色の巨躯に二本の剣を十文字に構えて、桃太郎の豪剣を受けた。
「茨木!」
 姫夜叉は鎖鎌に持ち替えていた。桃太郎の足か剣を封じるつもりだった。鋼の分銅が動きの止まった桃太郎を襲った。
「バキちゃん、もうお父さんより強そうね」
「猪口才な!」
 桃太郎はひと声吠えて、茨木童子を剣で押さえつけたまま、空いている手で飛んできた鎖をつかんで大きく引き込んだ。姫夜叉は舌打ちしたが、引かれた勢いのまま桃太郎に突っ込んで左手の鎌で喉を斬り裂こうとした。

16

 現世と鬼の里を結ぶ洞窟の入口から光があふれた。
 光芒を背負って四人の鎧武者が駆け出してきた。あとに続く平安装束の五人は陰陽師か。
「お待たせしました~!」
 占部季美の声が響いた。季美は担いでいた弓を満月のように引き絞って、あわてて飛び去ろうとする雉子牟田に向かって矢を放った。矢は衝撃波であたりの木をなぎ倒しながら、はるか高みの雉子牟田の羽を過たず貫いた。
「ワン公は俺が相手だ。鬼さん手を貸すぜ」
 坂田金一は、星熊童子と熊童子に声をかけて、巨大な快童丸を小旗のように振り回した。鋭い爪で殴りかかってきた前脚を、巨躯に似合わず鮮やかに交わして、手首のあたりに快童丸を叩きつけた。骨まで届く深い傷に魔獣は悲鳴を上げた。
「貞夫はそこのみんなを守れ。俺らの命綱だぞ」
「りょーかい!」
 碓井貞夫は大鎌を構えて陰陽師たちの前に立ちはだかった。次々襲ってくる猿たちを苦もなく斬り捨てていく。
 敦は、一直線に桃太郎へと向かった。
「轟天丸! 姫夜叉! よくやった、こいつは僕が倒す!」
 戦っている鬼たちの間を宙を跳ぶように駆け抜け、腰の髭切を抜いて桃太郎と相対した。
 轟天丸は肩で息をしていた。姫夜叉に至っては血まみれだ。敦の知らない鬼も左目と左腕を失っていた。
「小僧、さっきはよくも!」
 怒りに燃えた眼で桃太郎は四本の剣を構えた。

「碓井君、我々を桃太郎のそばまで連れ出してくれないか」
 安倍吉成が貞夫に言った。
「無茶言っちゃいけねえ。あんたらはこのくぼみにいてくれないと、俺一人じゃ守り切れねえ」
「頼む。桃太郎を倒すチャンスなんだ」
「お兄ちゃん、お願いしますってば」
「うちらも戦うから」
 明美がポケットから何かを出して地面に投げつけた。爆発音と立ち込める煙の中から大きな蝦蟇が現れた。次々と猿を踏み潰す。
 貞夫は安倍家の必死な頼みに、さすがに計略の一つもあるのだろうと、その場を動くことにした。
「兄貴! ちょっと手伝ってくれ!」
 魔獣の爪と牙で、これも満身創痍の坂田を大声で呼んだ。
 坂田は魔獣の脚の間をかいくぐって、貞夫のもとに駆けつけた。あたりの猿を快童丸で薙ぎ払った。貞夫の説明を聞くや、陰陽師たちを率いて先頭に立った。貞夫は雄呂血切を振るって殿をつとめた。
 鬼の里の強者に足止めされている犬猿雉を尻目に、坂田は陰陽師を連れて桃太郎と敦が睨み合う場所までやって来た。貞夫とともに油断なく陰陽師たちの前に立った。
「さてもさても」
 安倍晴美のよく通る声が響いた。
「これより行うは」
 安倍明美も負けじと声を張り上げる。そのまま二人で唱和を続けた。
「安倍晴明より伝わる九相連関の法。生きながら九相観想を現身に顕現する最凶の呪法じゃ。この場に護摩壇を用意する暇はないが、呪力の強盛集中はここなる蘆屋満が務める。さても桃太郎、朽ちて砕けて、この場で生きたまま腐れて骨となるがよい!」
 安倍家には、かつて晴明が桃太郎に施した金剛乗得の法とともに、同時に密かに忍ばせた九相連関の法も伝わっていた。ただし九相連関の法は日月星辰の動きも重要で、時機を慎重に見極める必要があった。
 安倍晴美と安倍明美は、護摩壇に見立てた満を挟むようにして咒言を唱え始めた。二人の間で、満は両手で複雑な印を結びながら、双子の呪力を桃太郎に集中しようとした。吉成と道舜は、周囲から三人に不純な波動が及ばぬように、並んで清浄な結界を張っていた。
 坂田と貞夫は、三人から桃太郎がよく見えるように両脇に一歩退いた。
 桃太郎と敦は、互いに剣を抜いて相手の隙を窺いながら、ちらちらと皆を見るので精一杯だった。気をそらすと隙が生まれる。隙が生まれると即座に斬られる。二人の頭にはその事実しかなかった。
 桃太郎は突然棒立ちになった。首だけをぐるりと捻って、晴美と明美を物凄い目でにらんだ。
「お前ら」
 一層聞き取りにくい声で、離れて立つ敦には「ごばべば」としか聞こえなかった。
 桃太郎の手から剣がばらばらと地に落ちた。落ちた剣の柄には、桃太郎の指がついたままだった。
 桃太郎は地面に膝を突いた。太ももの皮膚がべろりとはがれて、黒ずんだ筋肉が露出した。皮膚の下からぼろぼろと馗毘虫があふれ出した。
「何をした」
 桃太郎の顔の表面が崩れ始めた。ゴムの仮面のように垂れ下がり、右の眼窩から眼球がこぼれ出た。眼窩の奥にも馗毘虫が蠢いていた。
 桃太郎は地面に四本の手を突いた。手を突いた反動と体の重みで、肩から上腕の白い骨がずぼりと突き出した。
 敦は髭切を残心に構えたまま、桃太郎が腐敗していくところを見守っていた。呼吸のが止まるような腐臭があたりを押し包んだ。
「があああああぁぁぁぁ!!」
 桃太郎は地面に倒れこみながら、地を震わせるような叫び声をあげた。
「俺が、この俺が、こんな術でやられてたまるか!」
 桃太郎は地面に横たわった、顔は膿み崩れ、腐敗ガスで膨れた腹が破れて、血と体液と馗毘虫がどっとあふれ出した。まさに、仏画の九相図を一気に見るようだった。
 腐り果てていく桃太郎の放つ臭気は、すでに耐えられるものではなく、安倍の双子や満は鼻を押さえて嘔吐した。

 まず雉が死んだ。
 西方白龍神王に加えて広目天の力を宿した季美の矢は、遥か高みを飛ぶ雉子牟田の翼を易々と貫いた。雉子牟田は上空から短刀のような雉を次々と放ったが、落日の鏑矢は広範囲に衝撃波を及ぼして、一瞬ですべて叩き落とした。雉子牟田は急降下して、態勢を整えようと近くの丘の向こうに隠れた。
「ばーか」
 季美は半笑いで落日に矢をつがえ、満月のように引き絞ると、呼吸を整えて雉子牟田の隠れた丘に向かって矢を放った。
 丘の半分が吹き飛んだ。丘の半分とともに、雉子牟田の上半身も吹き飛んでいた。
 次に犬が死んだ。
 坂田に前脚に深手を負わされて、星熊童子と熊童子に苦戦していたが、桃太郎の危険を目にして跳躍一閃、巨体を躍らせて陰陽師たちを背後から襲った。
 先に振り向いたのは坂田金一だった。陰陽師を背にかばうように魔獣の正面に立ち、薪割りでもするように快童丸をまっすぐ振りかぶった。南方赤龍神王と持国天の力を宿した現代の金太郎は、恐れるそぶりも見せずに不敵に笑った。
 金一の快童丸は、咆哮を上げて襲いかかる魔獣を、真っ正面から唐竹割りにした。
 中央の頭部の眉間から、頭蓋、首、背中の半ばまで、巨大な鉞が真っ二つに斬り裂いた。
 巨大な三つ首の魔獣は、エジプトのスフィンクスのように四肢を畳んで、座り込むようにして死んだ。
 数瞬後、魔獣は消え、眉間から臍まで上半身を断ち割られた狗美の死体が残った。
 最後に猿が死んだ。
 猿田申介は桃太郎の危機に、陰陽師に向けて無数の猿を放ってきた。しかし、北方黒龍神王と増長天の力を得た碓井貞夫が飛び出して、自慢の雄呂血切で悉く斬り捨てた。それでも次から次へと新手の猿の群れが押し寄せて来た。
「組長、キリねえよこいつら!」
「組長って言うな」
 坂田も加勢に入った。風車のように大鉞を振り回した。ばらばらになった猿がそこら中に飛び散った。
 猿田は季美に狙われないように、木の間や屋根の上を目まぐるしく飛び回っては、自分の毛をむしって猿を放ってきた。
 離れたところにいた季美も、無数の猿に飛びつかれて猿の塊のようになっていた。卜部季武伝来の鎧兜と面頬、手甲で身は守られたが、弓を構えることもできない。
「うがー! んなろー!」
 季美の大声が聞こえたかと思うと、山と群がっていた猿たちが跳ね飛ばされた。季美は左手の落日を振るって、猿たちを次々と叩き伏せた。右手の矢では、猿をかったぱしから突き殺した。
「弓使いは白兵戦ができねえとでも思ったか!」
 坂田と貞夫は顔を見合わせた。
「意外とガラ悪いんだなあいつ」
 季美は怒りで目元を紅潮させて、猿田に落日を向けた。
「さっきの雉のは爆発系。今度はホーミング系だ。くらえ畜生!」
 猿田は木から木へ飛び移り、地に降り、屋根に上がって矢を躱そうとしたが、季美の矢は流れるように猿田を追い回して、その首を貫いた。すかさず二の矢が同じく首を襲って、猿田の首は胴から離れた。

 三人は敦のもとに向かい、苦しむ桃太郎を取り囲むようにして見下ろした。
 桃太郎は、腐り果て崩れつつある姿でのたうち回っていた。
「お、俺は、ふ、不死身だ、だだ」
 桃太郎は、己の体からこぼれて地面に散らばった馗毘虫を、指のない手でかき集め、歯のない口に押し込んだ。ぐしゃぐしゃと口の中ですりつぶして飲み込んだ。破れた腹からあふれ、溶けた皮膚の下からこぼれる馗毘虫を、次から次へと頬張った。
 桃太郎は地面を這いずりながら、あたりの馗毘虫を四本の腕でかき集めては、口へ押し込んで嚥み下した。首に空いた穴から這い出そうとする虫は、残った指で押し込んだ。
「敦、斬れ!」
 後ろから道舜が叫んだ。
 桃太郎の無惨な姿に目を奪われていた敦は、その声で我に返った。桃太郎を斬るには今しかない。
 敦は髭切を青眼に構えると、峰が尻に当たるほど振りかぶって、桃太郎の首を目掛けて振り下ろした。
 桃太郎の姿はそこにはなかった。正確には、おびただしい腐汁と馗毘虫を撒き散らして跳躍し、敦の刃を逃れたのだった。
 敦が地面に撃ち込んだ髭切を抜いて振り返ると、桃太郎は以前の姿のまま、小高い丘の上に立っていた。
「ぐはははは、見たか晴明! 見たか綱!」
 体表に残った腐肉と馗毘虫を払い落とすと、桃太郎は高らかに哄笑した。
「不死身とはこれよ。ゴミ陰陽師のゴミ呪術で、この桃太郎が殺せるものか!」
 安倍の娘たちの歯軋りが、敦の耳に届くかと思われた。
「さあ、これから貴様らを一人ずつ血祭りに上げてやろう。まずはそこの金太郎などどうだ」
 桃太郎は四本の腕を曲げ伸ばししながら、大声で吠えた。大量に摂取した馗毘虫によるものか、身体の大きさも厚みも、見る見るうちに増してきた。
「なんだとコラ。この腐れ外道が」
 一歩前に出ようとする坂田を、敦が止めた。
「ぼくが行く」
 敦は進み出て丘の下に立ち、髭切を上段に構えた。
 敦の右には轟天丸が立った。真っ赤に灼熱した炎嶽を、これも頭上に振りかぶった。
 敦の左には姫夜叉が立った。左肩を前にして望月を構えた。月光のように冷たく蒼光りする槍の穂先は、真っ直ぐ桃太郎を指した。
「季美さん、弓を下げて」
 気配だけで察したのか、敦は正面の桃太郎を見据えたまま、背後の季美に声をかけた。季美はゆっくりと落日の構えを解いた。
「よし小僧、望み通り殺してやろう。隣の鬼どもも死にたいようだな。そのあとで、この場の全員を皆殺しだ」
「素手でぼくらに勝つつもりか」
「素手で十分だ。それにな、貴様らの武器は三人で三本、わしの手足は六本だ。衆寡敵せずという言葉を教えてやろう」
 敦たちの後ろには四天王、その後ろには蘆屋と安倍の陰陽師たち、そしてその後ろには酒呑童子や茨木童子を先頭に、里じゅうの鬼が集まっていた。
 一人でそれだけの敵を前にしても、桃太郎に怯む様子は見えなかった。
「これ以上誰も殺させない。お前はここでぼくが倒す」
 敦は静かに言った。
 静寂があたりを覆った。炎嶽の灼熱するじじ、じじ、という音が敦の耳に届いた。
 先に動いたのは轟天丸だった。立ち位置の不利をものともせず、轟天丸は丘を駆け上がって、炎嶽で桃太郎の胴を薙いだ。
 桃太郎は跳躍して鬼の金棒を躱し、振り上げた右足の踵を轟天丸の脳天に打ち下ろした。
 同時に姫夜叉は、宙の桃太郎に向かって望月を突き出した。桃太郎は身を捻って槍の攻撃を躱した。轟天丸への攻撃は浅くなった。
 桃太郎は着地と同時に後ろへ飛んだ。轟天丸と姫夜叉は桃太郎を挟むように左右から得物を突き付けた。
 敦には東方青龍神王と多聞天の力が宿っていた。神速の斬撃は、すでに一度桃太郎を追い詰めて髭切を奪還している。
 敦は地を蹴って、突風のように桃太郎に斬りかかった。
 再生した桃太郎は、反応速度までが進化していた。敦の髭切を拳で払うと、間髪を入れずに蹴りが飛んできた。
 敦は桃太郎の前蹴りを髭切の柄と鎧の胴で受けたが、その衝撃はすさまじく、大きく後ろに跳ね飛ばされた。丘の下の坂田に抱きとめられた。
 炎嶽と望月に阻まれて追撃はかなわなかったが、桃太郎は満足げな笑みを浮かべた。
「どうした綱。貴様の力はその程度か」
「綱じゃねえよ」
 敦が立ち上がると、坂田に肩をつかまれた。
「一人でいいとこ取りはないぜ」
 真横に貞夫がやってきた。季美もいる。
「よう、四本腕のおっさん、この鎌くらってみるか?」
 貞夫は雄呂血切を頭上でくるくると回してピタリと構えた。
 敦は坂田の手を払って立ち上がった。
「これで六対六だな。四天王の力を思い知らせてやろう」
 敦は髭切を八相に構えて桃太郎に殺到した。坂田と貞夫が後に続いた。季美は落日を引き絞って桃太郎に向かって矢を放った。

 桃太郎は恐るべき膂力と体術で、四天王と鬼を相手に戦った。四本の腕と二本の脚をつむじ風のように舞わせて、剣は拳で払い、鎌は柄を受け止め、鉞は刃を踏みつけ、矢は叩き落とした。金棒は肩で受け、槍薙刀は千段巻きを掴んで持ち主ごと投げ飛ばした。
 桃太郎ばかりではない、四天王の体力も無尽蔵である。取り巻く里の鬼たちにとって、目にも留まらぬ速さの攻防が続いた。
 そのとき、蘆屋満が鋭く折った呪札を桃太郎に向かって投げた。
 安倍の双子は並んで地面に両手を突き、「吩!」と気合を放った。
 満の投げた和紙のお札は、空中で白蛇に姿を変え、桃太郎の上半身に絡みついた。
 二人の娘の呪術は地面を揺るがして、桃太郎の足元を泥濘に変えた。
 桃太郎の動きがほんの一瞬止まった。しかし、四天王にはその一瞬で十分だった。
 季美の矢が、はるか遠くの中空で反転して、桃太郎の心臓を背後から貫いた。
 貞夫の雄呂血切が桃太郎の二本の右腕を斬り落とした。
 轟天丸の炎嶽が、桃太郎の両膝を砕いた。
 姫夜叉の薙刀が、残る二本の左腕を斬り捨てた。
 敦の髭切が、ついに桃太郎の首を飛ばした。
 坂田の快童丸は、首を失って棒立ちになった桃太郎の体を真っ二つに両断した。
 それらがほぼすべて同時に起こった。桃太郎には抗う術も時間も与えられなかった。
 姫夜叉は止めとばかりに、地に落ちた桃太郎の体を切り刻んだ。桃太郎はびくびく動く肉片の山に変わった。

 そこは丘の上、奇しくも千年前に桃太郎が封印された桃太郎塚と呼ばれてきた場所であった。
 四天王たちをかき分けるように、蘆屋満と安倍晴美、安倍明美が現れた。満が進み出て丘の頂上の泥をかき分け、土器の小皿のようなものを拾い上げた。満は、その小皿を両手で胸の前に捧げ持った。
 安倍の少女たちがその小皿に両手をかざして咒言を長々と唱えた。
「咏!」
 満が裂帛の気合を放つと、土の小皿は光輝に包まれ、光の中から一枚の丸い鏡が現れた。
「これが神鏡です」
 満が厳かに告げた。
 満は、桃太郎の残骸に鏡を向けて正座した。その両脇に安倍晴美と明美が端座した。後ろに蘆屋道舜と安倍吉成が並んで座った。
 五人の祈祷が始まった。千年前に蘆屋道満が一人で成し遂げた神鏡封監の儀である。
 四天王と里じゅうの鬼たちが固唾をのんで見守る中、神鏡は五人の陰陽師の声明(しょうみょう)に押されるように、満の手の中で薄紫に輝く霧のようなものを放ち始め、濃くなった霧で桃太郎の残骸を包み込んだ。
 霧が晴れた後には、何ひとつ残っていなかった。
 満は神鏡を胸の前に捧げ持ったまま立ち上がり、振り返って四天王と酒呑童子に一礼した。
「桃太郎は再び封印されました」
 その場にいた鬼たち全員の間で、里を揺るがすような歓声が起こった。
 酒呑童子がまず鏡に手を合わせて、四天王と陰陽師に丁重な礼を述べた。安堵のせいか喜びのせいか、その頬は涙に濡れていた。
「鬼の目にも涙だ」
 貞夫は思わずつぶやいて、坂田にしこたま尻を蹴飛ばされた。
 四天王と陰陽師たちは、喜びと感謝の声を上げて押し寄せる鬼たちの間でもみくちゃになった。

エピローグ

 夏休みも終わって、いよいよ二学期が始まった。
「おっはよー!」
 敦が教室に入るなり、あとから飛び込んできた海老沢に肩をどやされた。
「ってーな、のやろー」
 こっちも負けずに振り返って頭をはたいてやる。海老沢は小さいので、ちょうどいい高さに頭がある。
「毎日毎日レディの頭を叩くな馬鹿野郎」
「誰がレディだ」
 自分の机の上に鞄を放り出すと、早速谷沢が話しかけてきた。
「ようよう、数学の宿題やったか。できてんならノート貸してくれ」
「勝手なことを言うな。今年は俺もろくにできてないんだ。夏休みは大変だったんだからな」
 始業式ということで、敦たちはぞろぞろと講堂に向かった。
 講堂には姫夜叉や轟天丸も先に着いていた。それぞれのクラスの列に殊勝な顔で並んでいる。
「姫ちゃ~ん♡」
 男子生徒の間から野太い声の歓声が上がった。美人の姫夜叉は相変わらずの人気だ。
「きゃ~」
 女子生徒からも嬌声が聞こえた。姫夜叉が手でも振ったらしい。「姫ちゃん大好き!」と大書したうちわを持っているやつまでいる。
 敦は、そばにいる谷沢にささやいた。
「アイドルかよ」
「ファンクラブまでできるって話だぜ」
 敦は心の中で、この講堂いっぱいの生徒を、三分もあれば一人で皆殺しにできるんだけどなあいつ、と思って苦笑した。
「それよか、轟よ。やっぱり柔道部に入ったってよ。白帯のくせに国分でも勝てないらしい」
「そりゃすごいな。国分ってインターハイ行ったろ。校舎に垂れ幕がかかってた」
「おう、国分がいくら中量級たって、あののゴリラどんだけ強いんだっていう」
 そのゴリラは、六組の列の後ろの方で腕組みをして突っ立っていた。同じ転校生でもこっちは人気がないらしい。

 敦たちが大江山から戻ったのは、まだ八月にもなっていなかった。
 坂田の街宣車に乗って、源本頼三に顛末を報告した後、安倍や蘆屋の陰陽師チームをそれぞれの家に送り届けて、四天王は関東に戻った。
 浦辺季美は、大学に戻ったが、三年生ともなると就職活動が気になるようだった。
「アラスカあたりでハンターの口でもないかなあ。捕鯨船でもいいや。解体業者はダメかな」
 冗談とも真面目ともつかぬ口調でぼやいていた。
 碓井貞夫は、あこがれの坂田金一の暴力団事務所に入りたがった。
「馬鹿野郎、くだらねえ寝言は高校出てから言え。それから俺は足を洗って素っ堅気になるんだ」
 坂田に一喝されて、貞夫はしょげ返った。
「ヤクザやめるんすか」
「当たり前だ、こんな力もらってまで極道やってちゃ、ご先祖様に顔向けできねえ」
「何して食ってくんすか。腕相撲とか?」
「しばくぞてめえ。産廃とか不動産とかフロント企業ってのもちょこちょこやってるからな。組を整理したらそっちに本腰を入れるよ。高校出たら、行儀見習いから仕込んでやるから、就職の心配はすんな」
「リーマンはちょっと……」
「贅沢ぬかすな」
 敦は自宅に戻って家族に報告した。両親も祖母も、桃太郎の封印に成功したことはもちろん、無事に帰ってきたことを大いに喜んでくれた。妹の夏は、自分も連れて行ってほしかたっとうるさかったが、満が死んだ話や魔獣にかみ殺された鬼たちの話をするとおとなしくなった。
「じゃあ、変身して変身」
「しないよ。仮面ライダーじゃあるまいし」
 敦は夏休みの後半から部活に戻った。顧問には両親からうまく言ってあったらしく、勝手に休んだにもかかわらず、わびを述べると逆にねぎらいの言葉をかけられた。
「大変だったな渡辺。一人でヤングケアラーとは。それで田舎のお祖母さんはもういいのか」
「ええ、ご心配をおかけしました。叔母がケガしたんですけど、祖母の特養入居が決まるまでのピンチヒッターでしたから。もう大丈夫です」
 昨晩母に教えられた通りの返事をして、敦は練習に戻った。
 しかし、同級生に脳震盪を起こすほどの面を撃ち込まれると、東方青龍神王呼んでくるぞこの野郎と思ってしまうのはどうしようもなかった。

 始業式が終わると、敦は教室に戻りながら、姫夜叉に近づいて小声で話しかけた。
「いつまで学校に来るつもりだ。桃太郎は片づいたじゃないか」
 姫夜叉が、敦の耳に口元を寄せて囁きかけてきた。
「酒呑童子さまのご指示です。引き続き敦様をお守りせよと」
 姫夜叉は妙にいい匂いがして、敦はどぎまぎした。まわりの姫ちゃんファンクラブの目つきも怖い。
「近い近い近い。でも、今さら誰がぼくを襲うんだ?」
「髭切です。鬼が宝物として秘蔵しているうちはよかったんですが、空前にして絶後の破魔の剣を敦様が持っているということが、日本中の魑魅魍魎に知られてしまいました」
「なんだそれ。今も髭切は普段は鬼の里だろう」
「そんなことを妖怪どもが気にするとでも?」
「気にしてくれよほんと」
 敦は額に手を当てて天を仰いだ。
 そこへ轟天丸が割り込んできた。月夜叉の吐息まじりのささやきで耳がくすぐったかったので、敦は何となくほっとした。
「酒呑童子様から知らせがありました。かぐや姫が月の手勢を率いて攻めて来るそうです」
「えーっ!」

(了)


第一話 紅蓮の炎、群青の月 第一話

第二話 紅蓮の炎、群青の月 第二話

第三話 紅蓮の炎、群青の月 第三話

第四話 紅蓮の炎、群青の月 第四話

第五話 紅蓮の炎、群青の月 第五話

最終話 (本ページ)


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