見出し画像

紅蓮の炎、群青の月 第二話

「四角(しかく)四堺(しかいの)祭(まつり)は滞りなくすんでございます」
 陰陽寮を預かる安倍晴明は、右大臣藤原道長のもとへ疫病退散の祭祀の報告に訪れていた。晴明はこの時すでに七十代半ばを迎えており、久しぶりに都を挙げての祭事を任された疲労の色は隠しようもなかった。
 四角四堺祭は、前漢の大学者、董仲舒(とうちゅうじょ)の書物にある。疫病や疫神、災いをもたらす魑魅魍魎による都への侵入を防ぎ、病魔や災厄を域外へ退散させるために執り行う祭事である。天子の住居の四隅と都の四方の境界とされる場所に陰陽師を配置し、退散を祈る加持祈祷を行う。
 殊にこの時代、疫病疫神は西北から侵入すると考えらえれていたため、未申(西北)に位置する大枝山(おおえやま)には力のある陰陽師が配置された。
「ご苦労。大枝はどうした」
「息子吉昌に命じました。悪疫の邪気は無事祓い終えたかと」
「ならよい。こたびの疱瘡はまこと難儀であるからの」
 庭に差す西日が傾きを深めていた。
 報告を終えて下がろうとする晴明を道長が引き留めた。
「さてもさても、晴明、少し話がある」
 老陰陽師は平伏したままだったが、そこで顔を上げた。
「これから話すことは、わしからの頼み事だ。楽にして聞いてくれ。ただし、他言はならぬぞ」
「は」
 晴明は座りなおして背を伸ばした。
「疱瘡のせいではなかったようだが、関白が身罷(みまか)ったことは知っておろう」
「誠に急なことでございました」
 道長は晴明のその言葉に唇を歪めた。
「急なものか。酒よ魚よと、日頃の贅沢が祟ったのだ」
 道長は兄の死にざまを罵らんばかりの勢いで吐き捨てた。
「その道隆よ。死に際で次の関白には誰を推したと思う。伊周(これちか)だ。わが子がそこまでかわいいのか」
 道長の声音に苛立ちの色が深い。
「伊周より年も上で、実の弟のわしが、右大臣にして内覧の役目を賜っておるというのにじゃ」
 晴明にはそんな事情を知る由もない。道隆公の次の関白が道長公になれば安倍家の道も開けるのだがと、卜筮(ぼくぜい)をいじってみたことがあるくらいだ。
「しかしそれはよい。伊周は帝の愛する中宮の兄だからな。帝もそれでよいと思っていたそうだ。しかし、東三条院が縋り付いて翻意させたらしい」
 東三条院詮子(あきこ)は一条帝の母后であり、道長の姉でもあった。そして甥の伊周より、弟の道長を溺愛していた。
「伊周の関白はならなかったが、関白が空席のままとは忌々しい話だ。道隆が死ねば、すべてはすんなりこの手に落ちてくると思っていたものを」
 晴明は、じっと道長の話に聞き入っていた。内裏の複雑な権力争いが、正五位を賜ったとはいえ一介の官僚である自分にどんな関係があるのか、皆目見当がつかなかった。
「晴明、権勢を手に入れるには、何が必要だと思う」
 突然の下問に、晴明は一層戸惑った。呪術ではどうにもならぬ政治向きの話には固(もと)より暗い。
「はて。畏(かしこ)きあたりの後ろ盾などは」
「笑わせるな。帝を立てるのはこちらの方だ。蓮台に乗せるのも追い落とすのも、恣(ほしいまま)にするのが権力よ」
 道長は身を乗り出してきた。
「力とはな。一に血筋、二に地位、三に財力だ。まず帝の上下左右に我が血を流し込む。すれば関白も太政大臣も思いのままだ。そして、もっとも肝心なのが金だ。金に重きを置くものはまだまだ少ないようだがな、金のあるところに人は靡(なび)く。それはもちろん金銀だけではない。領地、田畑、土地、建物はもちろん、米であり芋であり魚であり刀であり着物であり器だ」
 道長の貴族にあるまじき慧眼はそこにあった。金銀や財宝だけではなく、産業を統(す)べ、経済を牛耳ることが、金銭の流れを支配することであり、権力の源泉であることを看破していた。
 そこまで聞いても晴明には自分の役割が見えなかった。天才と呼ばれる陰陽師でも、木や石を金塊に変えることができるわけではない。
 道長は手を打った。
「そこでじゃ晴明。鬼じゃ、鬼どものすべてをこの道長がいただく」
 晴明は顔を上げた。
「鬼でございますか。鬼どもは長らく山に棲み、海に棲み、人の助けとなってござります。あの力もあの業も、味方につければ道長様のお力となりましょう」
「味方とは手ぬるいな晴明。鬼など無用じゃ。人は鬼を好くか。人は鬼に施すか。鬼など、すべてを奪い尽くして山の向こうに放逐すればよい。京の都に鬼の姿など無用じゃ」
 晴明は息をのんだ。なんと、道長は鬼を滅ぼそうというのか。
「ならばじゃ。すべてを奪うぞ。鬼がこれまでもたらした海の幸山の幸はもちろん、蓄えた財物も伝来の妖しの道具もなにもかも、この道長のものにする。それを手がかりに、子々孫々未来永劫の栄華を手に入れるのだ」
「いかになされます」
「見ておれ。まず都から鬼を追い払う。検非違使(けびいし)も必要ない。町々の者にすべてやらせるのだ」
 晴明は黙って頭を垂れたまま道長の策謀を聞いた。うつむいた顔からは血の気が引き、かみしめた唇は今にも血を流しそうだ。
 しかし、道長は今、権力に最も近いところにいる。一条帝を掌で転がし、伊周や顕光(あきみつ)と微妙な権力争いを続けている。晴明は晴明で、陰陽師としての才能には限界を感じていた。かつての賀茂保憲(かものやすのり)を超える望みは失った。しかし、権力と名誉には貪欲であった。持てる力を振り絞って道長に仕えることで、陰陽師としての頂点を超え、中央官僚としての栄達も手に入れようと決心していた。
「それからが、鬼の財宝よ。都から鬼を払うだけでは銅銭の一枚も手に入るわけではない。鬼を力でねじ伏せる」
「しかし、鬼の中には百人力千人力のものもおります。保昌様や頼光様でも及びますかどうか」
 晴明は思わず反論していた。ときおり見かける巨大な鬼の体躯と膂力(りょりょく)を考えると無謀としか思えない。むしろ人は、鬼が人間を征服しようとしないことに甘えているに過ぎないとまで思える。にもかかわらず、道長のこの傲慢はどうだ。
「鬼を封じるには鬼の力よ」
 道長は不敵に微笑んだ
「晴明、桃太郎を知っておろうが」
「御意」
 晴明はその名を聞いて震え上がった。桃太郎の力を借りるなど言語道断である。
 桃太郎とは、近頃の都を荒らす邪鬼妖怪の第一である。貴人の屋敷を襲っては財物を奪い、都の婦女をさらって、多くの人間を食い散らかした。道長子飼いの源頼光が郎党を率いて追っているが、これまでに検非違使や滝口が幾人も殺されている。

 桃太郎は鬼の里を放逐された悪鬼の一種だった。なんでも、人食いの罪を犯した父鬼と、父が攫(さら)ってきた人の母との間に生まれたという。
 罪を重ねた父鬼は鬼の掟によって処刑されたため、母と桃太郎も丹後千丈ヶ嶽にあるという鬼の里を追われた。母親は里のはずれで桃太郎を育てたが、幼い頃より暴れん坊で手に負えなかった。桃太郎は長ずるにつれて異能を発揮して悪逆非道を極め、鬼の村と人の町とを問わず、仲間を集めて荒し回った。
 桃太郎の異常な能力は母に由来する。父鬼に攫われて結ばれた桃太郎の母親は、和泉国の信太明神が変じた妖狐が人の姿を取ったものだったという。ひと睨みで人の心を支配する能力と、馗毘虫(きびちゅう)という群生する百足のような妖魅を操り、人間の手下を奇怪な怪物に作り変えて眷属とした。
 そのような桃太郎の悪事はいかな鬼とて看過できるものではなく、母子ともども捕えられた。まもなく母狐は獄死し、桃太郎は意富加牟豆美(オホカムヅミ)の刑に処せられた。
 意富加牟豆美の刑とは、重罪人の意識と体力をすべて奪ったうえで体を収縮させ、桃の実に詰めて下界へと通じる川に流す刑罰である。沈めば溺れ、浮けばカラスの餌食、実が砕ければ魚の餌と、ただの斬首や縛り首よりもはるかに鬼の里に負担のない、体のよい死刑である。もちろんそれまで助かった者はなかった。
 しかし、桃太郎には恐ろしいほどの僥倖(ぎょうこう)が味方した。たまたま川に洗濯にやってきた老婆に拾われたのである。
 桃太郎と名付けられたのはその時である。老婆老爺のもとでみるみる成長し、瞬く間にもとの異形異能の鬼の怪物に戻った。
 桃太郎の心には復讐心しかなかった。鬼を滅ぼし、人間を滅ぼし、血塗れの世界に君臨することだけを夢見た。復讐の鬼と化した桃太郎は、最初に自分の角を折り取って捨てた。
 悪を成すことにしか関心のない桃太郎は、長じては当然のように略奪を生業とする山賊になった。何も知らず山中でひっそり暮らす爺婆は、死ぬまで桃太郎がもたらす金銀や食物に感謝していたという。
 桃太郎はあらためて眷属を率いていた。馗毘虫の魔力で怪人に変じた、腕の立つ夜盗だった猿と修験者上がりの犬、破戒僧の雉である。

「あれには都の民も悩まされております。検非違使の目をかいくぐって、略奪はする女子どもは拐(かどわ)かす、人を食うとの噂もあります」
「さればよ。あれは鬼の眷属じゃ。あれを使う。あいつの手下も役に立つぞ」
 道長はすでに桃太郎と通じていた。
 道長は、桃太郎が都を荒らし始めてより、道長の家司でもあり源頼光に並ぶ武人と称された藤原保昌に追捕(ついぶ)を命じて、ひそかに捕縛に成功した。
 深更(しんこう)、縄をかけられて道長邸の庭先に引き据えられた桃太郎は、縁側にゆるりと座って自分を見下ろす道長を、昏い炎を宿したような目で上目遣いに睨んでいた。
「貴様が桃太郎か」
「だったらどうした」
 喉に痰が絡んだような、口に何かを含んでいるような、ごぼごぼと濁ったひどく聞き取りにくい声だった。
「わしの話を聞く気はあるか」
 桃太郎は何か答えたようだったが、道長はそれを無視した。
「断れば死ぬだけだがな」
 その夜、道長は桃太郎を問い詰めながら、そのどす黒い欲望と復讐心を確かめ、取引を持ち掛けたのだった。
 道長は提案した。道長からは桃太郎の日頃の狼藉に目こぼしを与えるばかりか、鬼をも拉(ひし)ぐ力を与える。桃太郎はそれに答えて鬼を殲滅し、鬼の持つあらゆる財物と産業や技術を道長に持ち帰る。それでどうだ、というものだった。
 もちろん、桃太郎に否やはなかった。
「俺は鬼どもを滅ぼすことができればそれでよい。奪った物はすべてお前の物だ」
 道長は腹の中でほくそ笑んだ。
「よし、貴様はこれより道長の物となれ。口の利き方には気をつけよ。保昌、縄を解いてやれ」
 道長は、桃太郎を手招きして縁側のそばまで呼び寄せた。桃太郎の背後には、万一のために、刀の柄に手をかけた藤原保昌が張りついた。
「耳を貸せ。これより策を授ける」
 道長は、保昌が耳を塞ぎたくなるような謀略を話し始めた。時折混じる桃太郎の濁った笑い声に、吐き気を催すほどの不快感と恐怖を覚えた。「道長様の勘気(かんき)をどれほど蒙(こうむ)ろうと、あのとき彼奴(きゃつ)を斬り捨てておくべきだった」と、保昌は後に述懐したという。

「そこでじゃ、晴明」
 道長は、桃太郎の名を聞いて不快げな安倍晴明の顔をのぞき込んだ。
「桃太郎に、鬼をも凌ぐ力を授けてやってもらいたい」
 晴明は座ったまま身をのけぞらせて、道長に掌を向けた。
「いくらなんでも、そのようなことは」
「桃太郎には、鬼退治をさせねばならぬのだ」
「相手は人外の魔物です。剛力の鬼でも倒せぬ力を与えて、道長様に叛(そむ)けばなんとします。あるいは、力ずくで鬼を従えて、都に攻め入られれば」
「そこじゃ。かつて内裏の厨(くりや)を騒がせた物の怪を祓うたことがあっただろう。あのように桃太郎を欺くわけにはいかんか」
 数年前、天皇の食事を調(ととの)える大内裏の厨房に、物の怪が取り憑いたことがあった。日本中から寄せられた山海の収穫物を片端から食い荒らされて、料理方が困じ果てることとなったのだ。
 そこで、物の怪を退治るよう命じられた晴明は、保存されている山海の珍味に、呪(まじな)いを施したお札の灰を混ぜ込んだ。食い意地の張った物の怪は、その夜も現れて厨の食物を食べ尽くした。
 翌日、日の高いうちに、晴明は厨の中央で護摩(ごま)を焚いた。魑魅魍魎退散の呪文を唱え終わらぬうちに、北の壁から恐ろしい唸り声が聞こえ、巨大な狸の姿をした物の怪が壁から転(まろ)び出た。物の怪は、年経た狸が魔物化したものと知れたが、護摩壇の炎に照らされて、見る見るうちに生きながら腐り果てた。あとにはひどい悪臭と、狸の骨しか残らなかった。
「九相(くそう)連関(れんかん)の法でございますか」
 九相連関の法とは、人の死体が朽ち果てていく様を観想する仏教の修行に由来する。死後まもなくより、腐り果て骨と化すまでを九つの相に分けて瞑想することで肉体の無常を学ぶ。その九相を呪う相手に顕現する呪殺の法であった。
 晴明は道長の冷酷さに、心中で舌を巻いた。用が済めば、桃太郎など早々にこの世から消してしまうつもりだ。ならばこの晴明、老いたりとはいえ陰陽師の力を振り絞って道長に仕えよう。呪力のみでは賀茂一族に及ぶことはなかったが、道長にすがって安倍の家名を残せるのなら、鬼の安楽では秤にもかけようがない。
 この夜、安倍晴明は鬼にとって悪となり魔となることを決心した。道長の権力奪取に付き従い、得られるものはすべて安倍家の安泰のために利用することを誓った。

 鬼は古くから京の都にあって、都人にもすでになじんでいた。洛外から来る異能の民にちがいなく、魁偉な風貌もあって子どもは恐れたが、庶民は蔑視と畏怖のない交ぜになった視線を向けながらも、手の込んだ細工物や器物、山海の収穫物をもたらす存在として町に受け入れていた。鋳物や木工、金工などで重宝がられた鬼なら、洛中でも鬼は辻々に工房や居を構え、町衆にも受け入れられていた。賃仕事や力仕事を求めて、海や山から出稼ぎに来た鬼たちは、多くが賀茂川や桂川の河原に住み着いていた。

「桃太郎を呼べ」
 道長は側近の藤原保昌に命じた。道長と桃太郎のつながりは、この邸では保昌しか知らない。
 道長は土御門(つちみかど)殿と呼ばれる自邸の縁側に座っていた。月明かりの下で物思いにふけっていると、庭に黒い影がうずくまった。
「桃太郎か」
 黒い影が痰の絡んだ咳のような音を立てた。返事をしたらしい。
「あまり人は食わぬようにせよ」
「近頃は宇治や八幡の赤子くらいしか」
 道長は不快げに眉をひそめた。
「それより鬼じゃ。いよいよ鬼退治を始めるぞ。殺しつくし奪い尽くすのだ」
 桃太郎がのそりと立ち上がった。背を丸めて顔を伏せたままでも六尺は優にある。だらりと垂らした四本の腕は膝の下まであった。安倍晴明に呪術を施された体は、背丈も厚みも以前に倍して、灰色の肌色と相まって薄汚れた岩石のようだった。漆黒の直垂の下の体は、まさに筋骨隆々として、四本に増えた腕も瘤だらけの赤松の丸太を思わせた。後世の御伽草子で描かれた、派手な陣羽織を着た紅顔の美少年とは、似ても似つかぬ異形の者であった。
「いつからいつまでに」
 桃太郎は、相変わらず痰の絡んだような聞き苦しい声音で訊いた。
「伊周も動いておる。早ければ早いほうがよい。明年の秋にはすべてを手に入れたい。そうじゃな、春までに事を終えよ」
「御意。とは申せ、都が鬼の血であふれることになりまするが。京の人も貴族も武人も多く死にまする。都が地獄になってもよいと」
 道長は沈黙した。桃太郎はそれを承認と理解した。
「こわいことを申す。貴様も鬼の眷属ではないのか」
 桃太郎はすべてを奪われ桃の実に詰められて、川に流された屈辱を許してはいない。
「鬼など」
 三度殺し尽くしても飽き足りませぬ、とまでは言わなかった。道長は、桃太郎の目の奥に宿った陰惨な昏い光で深い恨みを察した。
「都が片づきますと、春の終わりには大江山に参ります。そこですべてが終わります」
 桃太郎は道長にこれから起こすことを説明した。道長の策謀を大きく練り直した物だ。道長の協力は必要ないが、都を吹き荒れるであろう暴力の嵐に怖じ気づいて、邪魔をされてはかなわない。道長は大枠は自分の授けた策であったにもかかわらず、桃太郎の計略の残酷さには悪寒を禁じえなかった。動揺を隠すために直衣(のうし)の膝を握りしめてじっと聞き入った。
「もうよい。そううまくいくものかどうか、絵空事にも聞こえるぞ。地獄絵じゃがな」
 桃太郎は声を上げて笑った。
「見事な絵をご覧に入れましょう」
「必要なものがあるなら保昌に言え」
 道長はうっすらとした吐き気を覚えたが、桃太郎に気取られまいと背を向けて居室に戻った。
 月は雲に隠れて、庭は真っ暗になった。桃太郎は闇に乗じて街衢(がいく)に消えた。

 しばらく都は平穏だったが、嵐の前には徐々に湿度が上がるように、じわりじわりと不穏な噂が流れ始めた。曰く、鬼は朝敵の末裔である。曰く、鬼は穢れている。曰く、鬼は都の人々を皆殺しにしようとしている。曰く、今回の疱瘡の大流行は鬼の仕業である。噂はすべて鬼に対する嫌悪と差別を煽るものだった。
 桃太郎の工作であった。桃太郎は、道長に与えられた手下を操って、内裏で、東西の市で、河原で、辻々で、都人が鬼を怖れ憎むようになるような流言飛語をばらまき続けた。
 長年、鬼と共存してきた都の人士は、当初こそ一笑に付していたが、賤民から貴族にいたるまで様々な階層の人々が、都中で眉をひそめて同じ話を交わすのを見て、次第に心穏やかではなくなっていった。
 流言は流言を呼び、噂は噂を呼んで、都人の間で鬼に対する畏怖と蔑視が、それまでもかすかにあった種火のようなものを核として、都を覆う入道雲のように膨れ上がった。都の人々の目に憎悪と狂気が宿りはじめ、鬼はあっという間に都から排除されるべき存在となった。
 川の水が溢れて堤防が決壊するように、破滅は一気にやって来た。
 きっかけは些細な出来事だった。越前から干魚の桶を担いで行商にやって来た一匹の鬼に、朱雀大路で子どもが石を投げたのだ。
「くさいんだよ、鬼はでていけ」
 石をぶつけられた鬼は、干魚の臭いに文句を言われることには慣れていた。石にしても、小さな子どもの仕業とみて怒りもせず、ひとまず追い払うために両手を上げて「がおー」と大きな声を出した。
 これがいけなかった。
「鬼だ!」
「子どもが襲われた!」
「やっちまえ!」
 手に手に割り木や心張り棒を引っ掴んだ男たちが集まってきて、話も聞かずに行商の鬼を散々に打ち据えた。騒ぎを聞きつけてやって来た役人が目にしたのは、親でも見分けがつかぬと思われるほどの無惨な鬼の死骸だった。
 この出来事が都に血と暴力の暴風をもたらした。人々は、朱雀大路で鬼が子どもを食った、いよいよ鬼が人を襲い始めた、鬼はこのときを窺っていた、殺される前に殺せと、手に手に武器を持って昨日までの隣人に襲いかかった。
 反論も抵抗もできず、都の鬼たちは次々と殺されていった。女の鬼も子どもの鬼も容赦なく滅多打ちに合い、あるいは刀槍で切り刻まれた。鬼の住まいには火が放たれ、河原の小屋がけは怒り狂った群衆にことごとく押し潰された。鬼の中には屈強な肉体と剛力を誇る者もいたが、自分と仲間を守って都から逃げ出すのに精一杯だった。

 道長は、部下たちの報告を聞きながら眉をひそめた。もちろん計画が順調であることには満足している。しかし、都中からもたらされる鬼の虐殺の様子に、酸鼻を極めるとはこのことかと、心中思わず神仏に祈った。ただし、祈ったのは殺された鬼のためではなく、自らの安寧であったが。

 桃太郎は、あまりにも自分の謀略がうまく進んだことが愉快この上なかった。
「おれが噂の種をまいただけでこの有様よ。まこと人の心も醜いものだな。どれほど鬼が憎かったというのだ。常日頃から蔑むだけ蔑んで、殺すとなったら平気で皆殺しだ」
 手下の犬猿雉を目の前にして言い放った。
「俺たちも負けてはおれん。行くぞ。一匹たりとも逃がすな」
 日中の洛中は狂気に駆られた都人に任せ、桃太郎は鬼の探索と追撃に回った。夜陰に乗じて無数の雉と猿を放ち、廃屋や寺社林に隠れている鬼たちをあぶり出した。都を逃れようとした鬼たちは、多くが西北の大枝山を目指したが、桃太郎は北山の外れで待ち構えて虐殺の限りを尽くした。

 都では通りという通りに鬼の死体が放置され、腐臭を放ちながら烏や野犬に食い荒らされていた。役人はそれらを集めて河原で焼き、穴に埋め、川に流したが、到底追いつくものではなく、無惨な鬼の死体が都にあふれかえった。
 幾日も続く都の惨状に、源頼光は苦悩していた。頼光は藤原保昌に並ぶ武人として道長に重用されていた。しかし、疑り深く用心深い道長によって、このたびの桃太郎の件からは巧妙に排除されていたのだ。道長にしてみれば、頼光の忠誠を疑ったというより、謀略に関して無傷の武力を確保しておき、いざとなれば桃太郎はおろか保昌まで討たせるつもりだったのかも知れない。
 頼光は配下の四天王と額を集めて話し合っていた。
「なんだこの地獄のような毎日は」
 頼光は、鬼の殺害を除いて、都の治安を守るよう道長に命じられていた。都の混乱にまぎれた夜盗や強盗が頻発しており、体を休める間もなかった。
「地獄絵にしては鬼と亡者の役目が逆ですな」
 胡座をかいた坂田金時がまぜ返した。
「冗談ではない。貴殿も鬼たちの惨たらしい様を見ていようが」
 卜部季武が気色ばむ。季武も、親しくしていた鬼の家族を匿ったせいで、近隣の郎党に屋敷の門扉を破壊され腹を立てていた。鬼の家族は家令をつけて、桃太郎の手の及ばない伊勢松坂へ下らせた。
「これを治める方法があればよいのですが。道長様は、なぜか鬼の命よりも都の平安さえ取り戻せればよいようで」
 渡辺綱が腕組みをして嘆息した。
 四天王は誰しもが今回の混乱に心を痛めていた。古くから人と交わり、人の役に立ってきた鬼に責められるべきことなどないはずだ。火のないところに立てられた数々の薄汚い噂のせいだとはわかっているが、嵐のような暴力が都を覆い尽くすようになっては、四天王とてどうしようもなかった。
 そしてあの桃太郎という悪鬼である。犬猿雉の妖怪変化を連れて、剛力で鳴る鬼たちも片端から殺しているという。頼光には信じたくない噂であったが、後ろで右大臣が糸を引いているという噂も流れていた。
「なくもない」
 頼光が呟いた。
「道長様にその気がないのならば、帝の力を借りる」
 四天王は頼光の顔を見つめた。主たる右大臣道長を飛び越えて、帝に力を借りることなどできようものか。お目通りさえ覚束(おぼつか)ないはずだ。
「内向きの女房に聞いた話だが、帝も都の有様には心を痛めておいでらしい。望みはある」
「しかし、どうやって相談を持ちかけましょう。相手は帝その人ですぞ」
 碓井貞光の疑問に頼光が頷いた。
「当たり前の話だが、宮中では大内裏の警護にてんやわんやらしい。北面や滝口はもちろん、地位の高い貴族皇族の私兵まで駆り出されている。そして我々にも声がかかった」
「道長様は」
「保昌がおろうが」
 頼光は近々内裏に呼ばれることを告げた。帝の身辺警護である。そこできっと話かける機会はあるだろうと踏んでいた。事実、これまでに幾度か行幸や野遊びに付き随ったことがあるが、帝は決して近寄りがたい存在ではなかった。

 のちに一条天皇と呼ばれることになる年若い帝は、まだ頬のあたりに少年の面差しを残していた。御簾(みす)の奥から、一段低い次の間で平伏している頼光の烏帽子を見つめていた。
 帝も都の地獄絵図には心を悩ませていた。鬼の家が燃える煙、鬼の死体を焼く煙が、宮殿の高い塀を越えてきたときには、香を焚きしめた衣の袖で鼻口を覆っても、吐き気は止められなかった。
 一条帝は、若いとはいえ暗愚の王ではない。後世の歴史では、藤原家の権力闘争に翻弄され、幼くして担ぎ上げられた、いかにも飾り物の天皇だったかのような見方をされることもあるが、風雅を愛し、なによりも妻たる中宮を愛した賢帝であった。その宮中の清涼な空気は、清少納言が『枕草子』に描いた通りである。
 帝は今回の騒擾の裏に道長の影を見ていた。皇統相続や貴族の権力争いは、畢竟(ひっきょう)情報戦である。誰よりも多く情報を集め、好機を逃さず機先を制したものが勝つ。帝は、中宮定子を通じて伊周以下の道隆側の、音楽の縁で親しかった源雅信の子らを通じて道長側の、動きを慎重に集めていた。
 帝自身には、この都の惨状を、道長が直接策を弄して招いたという確信はない。しかし、殺され排除された鬼たちが残した財物や技術を、複雑に経路を迂回させながら道長が手に入れつつあることは、様々な情報から見て取っていた。
 そして桃太郎である。帝は、桃太郎を放ったのが道長であることまでは摑んでいた。しかし、都を脱出する鬼たちを家来に追わせて、その報告に驚いた。かつて都の片隅で悪さをすると評判だった桃太郎が、山城と丹波の境にある老ノ坂に至る街道に立ちはだかって、着の身着のままで押し寄せる鬼の群れを片端から殺戮していたという。その姿は、長身痩躯の野盗の頃とは似ても似つかぬ、四本腕の巨漢であり、眷属の犬猿雉を自在に操って、鬼の金棒などものともしなかったと、内裏に戻った家来は、いまだ震えの止まらぬ様子で帝に奏上した。

 帝は、都の平穏を取り戻すためには、都人に鬼の虐殺をやめさせ、桃太郎を退治して、すべての鬼を逃がすしかないと考えていた。
 帝の前に現れた頼光たちは、道長の郎党ではあるが、鬼たちの身を真剣に案じているようだった。
 帝は思った。鬼を救うてやりたいものだが、この者たちであれば、鬼を逃がし、桃太郎を倒すことも可能であろうか。武力も膂力も胆力も申し分ない。たとえ失敗しても、失うものは道長の私兵団でしかない。ここは賭けてみるべきだろう。
 帝はそもそも道長を信用していない。自分と中宮との睦まじい様子をいつも憎々しげに見ており、我が娘の彰子を后に納めて外戚の地位を盤石にせんとの欲望があからさまなのだ。

 御簾の向こうで帝ははっきりと言った。
「あいわかった。鬼を救うがよい」
 頼光たちは一段下がった次の間で床に額をこすりつけた。
「しかし頼光、私が今ここで勅命を下したところで、お前に何か考えがあるのか」
 頼光は平伏したまま答えられない。
「鬼を手にかける都の民を捕まえるのか。何千何万とおるぞ。都から逃げる鬼を無事生き延びさせるか。桃太郎はなんとする」
「そこに、そこに帝のお力を」
「宮廷の軍勢に都の暴徒を治めきれというのか。滝口の武士などたかが知れている。軍を動かせるのは藤原の一統しかおらぬ。道長が鬼のために軍を出すと思うか。無理な話だ」
 帝の語気が強くなった。
「そもそも、都の人心は鬼を滅ぼす方に凝り固まってしまっておる。もう都に鬼の居場所はない。鬼は安全に逃がすに如くはない」
 帝はすでに騒擾後のことを読んでいた。道長は都から鬼をすべて放逐して、強大な権力を得るだろう。都に鬼が受け入れられる余地はまったくない。
「桃太郎を排除して、すべての鬼を大江山に逃がすしか、この地獄絵図を巻き納める方策はない」
 頼光は顔を上げた。御簾の向こうの帝の影に声を振り絞るようにして話かけた。
「畏れ多くも帝のお言葉の通りかと存じ奉りまする。さればこの頼光、如何な働きを為し得ますや。一命を捨てる覚悟はすでにありますれば」
「鬼を逃がせ。桃太郎を倒せ」
 頼光は帝の直截的な物言いに驚いた。再び床にひれ伏した。
「畏まりましてございます。しかしながら、大軍勢で押し包むほどのことをせねば、人の力では桃太郎どもを打ち破ることなど、とてもとても」
「怖じ気づいたか頼光。とはいえ無理もない。あれはまことの怪物だそうだからな」
 帝は、桃太郎の姿を報告しながら、震えの止まらなかった家来の姿を思い出した。
「桃太郎のあの力は、安倍晴明が与えたものだそうだ」
「そんな。なぜ」
 頼光は絶句した。都の平安を祈る陰陽師が、一体なぜ鬼の虐殺に手を貸すようなことを。
「道長よ。今回のことはすべて右大臣の差し金なのだ」
 帝の言葉に、頼光だけでなく四天王までが顔を上げた。一様に驚愕の色を浮かべていた。道長にまつわる噂は噂に過ぎないと思っていた。しかし、帝が言葉にしたとなると重みが違う。自分たちの仕える有力貴族が、これほどまでの血の海を都にもたらしたとは、にわかには信じられなかった。
「信じずともよい。鬼の生んだもの、鬼の残したもの、すべてが低きに流れる水のように道長の元に流れ込んでおるのだ。そしてだ、その道長の命令で、安倍晴明が桃太郎に術を施したと言われている。これは天文博士への讒言(ざんげん)などではない。幾人もの家来や女房を通じて聞いた話だ」
 頼光は、無礼を承知で御簾の向こうの帝の影を見つめ続けた。洛中の惨たらしい光景と、朝廷の儀式で背筋を伸ばした道長の束帯姿がどうしても結びつかない。
 頼光は我に返った。だとしてもだ、今は鬼の殺戮を止めねばならない。道長様の勘気を蒙ろうと、桃太郎とやらの暴虐を許すわけにはいかない。
「では、我々も陰陽寮に術を施していただけるよう、帝からもお口添えを」
 一介の武人が帝に頼み事など、僭越にほどがあることは承知していたが、背に腹は代えられなかった。
 帝は頼光の無礼を咎めることなく答えを返した。
「そうはいかん。すでに道長の懐に入った晴明はもちろん、陰陽寮の術者には道長の息がかかっておる。まず断られようし、無理に引き受けさせたところで満足な力は与えられまい」
 頼光は自らの浅はかさを思い知らされた。断られたら諦めもつくが、中途半端な力で鬼をも凌ぐ化け物の前に飛び出していたらと思うと生きた心地がしない。
「ではいかにすれば」
「道の者を使え」
 帝は平然と言い放った。
 頼光はあらためて帝の懐の深さに感じ入った。このお方にはどこまでこの世を見通す力があるのか。聖上と呼ばれ一天万乗の君と呼ばれ、天なる存在たる帝が下々のまだその下の者に通じているというのか。
 帝は言葉を継いだ。
「穢れと聖は紙一重だ。道の者、河原の者を救えずして。なにが皇(すめらぎ)か。人よ鬼よと言うも愚か、すべて我が民だ」
「しかし、そのような者が地下(じげ)におりまするや」
「蘆屋道満は聞いたことがあるか。法師姿で辻占などしておるが、恐るべき陰陽師だ」
 頼光もその名は聞いたことがある。牛さえ丸呑みにする糺の森の物の怪を、咒言を書いた土器ひとつで封じたとか、一人で四角四堺祭を執り行い、宇治川や桂川の河原で猛威を振るっていた今回の疱瘡禍を祓ってしまったとか、鬼や貧民の間では賀茂氏や安倍氏よりはるかに評価が高いらしい。
 それでいて宮中や貴族の求めには決して応じず、日頃は門付けの厄払いで糊口を凌いでいるという。
「あれは、まことの陰陽師だ。偽りの霊符や呪(まじな)いで民を惑わしておるようなら紂せずばなるまいと、陰陽寮に調べにやらせたのだが、賀茂の子弟どもが青ざめておったよ」
「道満の噂は聞き及んでおりますが、性狷介(けんかい)とも聞いております。我らの願いを聞きますかどうか」
「聞かせるのだ。この件は貴族や内裏の保身ではない。桃太郎を倒し鬼を救う計略だ。道満とて無下にはすまい」
 頼光たちは、帝直々の策を手にして内裏を下がることになった。

 頼光たちは、宇治川の河原に庵を編む蘆屋(あしや)道満(どうまん)を訪ねた。庵とは名ばかりで、地面に板を敷き、周りに筵(むしろ)を巡らせただけの、乞食しか住まないようなみすぼらしい住居だった。
 頼光たちが訪ねたときは、道満は河原に火をおこして魚を焼いているところだった。
「道満殿か」
 頼光たちは手短に自己紹介をして、都の惨状を伝えた。そして、手当たり次第に鬼を殺している桃太郎という強大な悪鬼の仕業とともに、自分たちの手で桃太郎を倒さねばならないと話した。
 道満は額に汗を浮かべて話を続ける頼光に一瞥を与えることもせず、黙って炎を見つめながら魚を焼いていた。
 長い沈黙を経て、焼けた魚を火から遠ざけながら、道満が口を開いた。
「桃太郎の悪業なら夙(つと)に聞いておるよ。道長の権勢欲に安倍晴明が力を貸して、鬼の虐殺を招いたこともな」
 頼光は不思議に思った。桃太郎という妖魔と帝の嘆きは話したが、道長や晴明の名は出さなかったはずだ。この法師(ほっし)陰陽師(おんみょうじ)は、河原でこんな暮らしをしながら、なぜそんなことまで知っているのか。
「不思議か」
 道満は頼光の心を読んだかのように呟いた。
「洛中で門付けをしておるとな、武家商家貴族を問わず、いろんな噂話が手に入るものよ。それにこの珠を耳に当てると、鳥や犬猫の言葉が聞こえるようになる。あいつらはどこへでも行き、何でも聞いてきてくれるからな、なかなか重宝するぞ」
 道満はさらっと妙なことを言った。頼光は、帝の言う通りの道満ならばさもありなんと素直に受け入れた。
「なら話は早い。我々に桃太郎を倒せるだけの力をくれ」
「畏きあたりの入れ知恵か」
「左様。帝はお主をえらく買っておられた。そのようなことができるのは、道満しかないと」
「ほう、あの若造が」
 道満は楽しげに笑った。
 頼光は、帝を若造と呼ぶ不敬にも驚いたが、いかにも親しげな様子はさらに不審だった。
「帝をご存じか」
「わしなど内裏には入れぬよ。それどころかこの装(なり)では、周りをうろつくだけで警護の衛士に棒で追い払われるわ」
 道満が指を振ると、衣の懐から鼻も口もない小さな人形が顔を出した。
「ヤアヤア、ドウマンダヨ」
「二年ほど前か、帝が寝込んだことがあったろう」
「ああ、晴明が道長に呼ばれて、泰山府君祭(たいざんふくんさい)とやらで病を祓って治し奉ったという」
 頼光の言葉を聞いて、道満は不敵な笑みを浮かべた。
「あの晩よ。わしがこいつを、式神の烏で帝の閨(ねや)に送り込んだのだ。それで翌朝には、帝も見事に快癒、晴明も名を上げて万々歳という運びだ」
「あんたが治したのか」
「それはどうでもよい。おかげで、このドウマン人形と帝は心やすうなったようじゃ。たまに内裏へ遊びに行かせると、帝はいろいろなことを話してくれるよ」
 頼光にとっては度肝を抜かれるような話ばかりだ。そこで腹をくくって、道満の前に手をついた。
「あらためてお願いする。我々に桃太郎を倒せる力をくれ」
 道満は、頼光を一瞥してため息をついた。
「桃太郎は不死身だ。人の手で倒せるものか」
「不死身とは」
「文字通りの意味じゃ。首を切ろうが、胴切りにしようが、彼奴は死にはせん。手足くらいならすぐに生え替わるし、ばらばらにしてもじきに蘇る」
「そんな化け物がこの世にいるのか」
「晴明の仕業じゃ。あの愚か者は、桃太郎に力を与えるのに、金剛乗得の法を用いたらしい。あの妖怪の素性も調べんからそういうことになる。せめて極動天岳の法にでもしておけばよかったものを」
 頼光にはよくわからなかったが、どうやら安倍晴明が術の選択を誤って、桃太郎に不死身の力を与えたということらしい。
「なら、そんな化け物をどうやって倒せと」
「殺すのではない。殺すことが無理ならば、封じ込めればよいのだ」
「封じ込める? どこかへ閉じ込めるのか」
 道満は塩を振った魚にかぶりつき、竹筒の水を飲んだ。
「三種の神器は知っているか」
「無論。草薙剣(くさなぎのつるぎ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、八咫鏡(やたのかがみ)であろう。皇室に伝わっておる」
「そうだ。とはいえ、珠と剣と鏡など、天皇家に限ったものでもない。そのへんの王を名乗る田舎の親玉なら、たいていは持っておるよ。そしてだ、皇室にはもうひと組の珠と剣と鏡があった。そっちの方は熊襲から奪ったとも、周防国でもらったとも言うが、そんなことは知らん。わしは鬼のもたらしものだと踏んでいる」
「それが、桃太郎とどんな関係が」
「まあ聞け。そのもうひと組の神器は、今は別々の場所にある。剣は諸刃の剣ではない。太刀じゃ。これは鬼が鍛えたものなので鬼の里にある。髭切という名を聞いたことはないか。珠は、わしも似たものを持っておるが、天地星辰を読むことができるのでな。これは陰陽寮にある。晴明が秘蔵しておるだろう。それで鏡だが、これだけはそばに置くだけで破魔破邪の利益(りやく)があるからな、帝の手元にあるはずじゃ」
「桃太郎を封じ込めるには、その三種の神器が必要だというのか」
「察しがよいな。この神器たちはそれぞれ共鳴し合って求め合う。合わさることでそれぞれの力も増す。とはいえ、金剛乗得の法を施された桃太郎を封じ込めるだけなら剣と鏡があればよい」
 頼光は、魚を食べ終えて腹をさすっている道満ににじり寄った。
「それが本当なら、鏡のありかは帝に聞こう。しかし、髭切の名は知っているが剣がない。それに、鏡と剣があったところで、封じ込め方がわからない。我々にはどうしようもない」
 道満は返事もせずに立ち上がって背を向けた。スタスタと河原を水辺まで歩いて行き、宇治川の水で手と口をすすいだ。濡れた手と口を衣の袖口で拭って、頼光たちの目の前に戻ってきた。
「今夜、月が真上に来たら、もう一度来い。帝には義理がある。桃太郎とやらも退治ねばなるまいし、それより晴明ごときに大きな顔をさせてはおけぬ。望み通りの用意をしておいてやろう」
 頼光たちは目を輝かせて顔を見交わした。
「もう帰れ。わしは少し昼寝をする」
 河原に手をついたまま丁寧に礼を述べる頼光をほうっておいて、道満は筵がけの小屋に戻った。

 その夜、月が高く昇るころ、頼光たちは再び道満の小屋を訪ねた。すでに夜も更けて真夜中を過ぎていたが、満月の明かりのせいで、河原を広く見渡すことができた。
 道満は小屋から少し離れた場所に、南向きの祭壇をしつらえていた。祭壇には清浄な白布が掛けられ、山海の産物からなる神饌(しんせん)や神酒、龍の形を模した石が供えられていた。中央には護摩壇が据えられ、祭壇の両側に立てられた竹竿からは、祭壇の上に縄が渡され、菱形を連ねたような紙垂(しで)がいくつもぶら下がっていた。
 道満は、すべての用意を終えたのか、祭壇に向かって瞑目して端座していた。昼間とはまったく違った立烏帽子に狩衣(かりぎぬ)という装束に身を包み、近寄りがたいほどの威厳を放っていた。
 頼光たちは、足音を立ててゆっくりと道満に近づき、背後から声をかけた。
「源頼光、渡辺綱、坂田金時、碓井貞光、卜部季武、ここに参ってございます」
 道満は、河原の上に直に敷いた円座の上で、座ったまま身を頼光たちの方へ向けた。
「よくぞ参られた。それではこれより五龍萬勢祭(ごりゅうばんせいさい)を執り行う」
 五龍萬勢祭とは、雨乞いのための「五龍祭」で呼び出される五大龍神(東方青龍神王・南方赤龍神王・中央黄龍神王・西方白龍神王・北方黒龍神王)を招請し、雨を呼ぶのではなく、その金剛力を人の身に降ろそうという呪法である。
 頼光たちは、道満の前に並んで座った。
「このあとは、わしがよいと言うまで口を開いてはならぬ。朝までには終わるはずじゃ」
 道満は祭壇に向き直って、護摩壇に火を入れると、真言とも咒言ともつかぬ呪文を唱え始めた。吊された紙垂は風もないのに激しく揺れ、龍を象った石は幾度も白光を放った。
 道満の祈りは長く続いた。真上にあった満月も傾きを深め、夜明けも近いかと思われた頃、晴れた夜空にもかかわらず、五色の雲が上空に現れ、激しい雷鳴とともに五筋の稲妻を頼光たちの頭上に落とした。
 祭壇の縄は切れ、紙垂は四散した。祭壇は二つに折れ、中央に据えてあった護摩壇が、ひときわ高く炎を上げて崩れ落ちた。龍の形の石は真っ二つになっていた。
 頼光たちは稲妻に大きく跳ね飛ばされて、散らばるように倒れたまま気を失った。
 道満のみが、一人静かに座ったまま、印を結んで目を閉じていた。
 道満は、再び円座の上で後ろを向いた。散らばって倒れている頼光たちを見渡して、両手で複雑な印を結び、
「吽(うん)!」
 と、裂帛の気合を放った。
 それで気がついたのか、頼光たちは呻き声を上げながら、その場で起き上がった。
 夜が明けはじめた。いつの間にか五色の雲は霧散し、薄紫の空から射した曙光が、宇治川の河原を照らしはじめていた。
 落雷に遭ったにもかかわらず、頼光たちには怪我も火傷もないようだった。河原を訪れた時の姿のまま、道満の周りに集まった。
「道満どの」
「安心しろ。五龍萬勢祭は滞りなく済んだ」
「しかし」
「何の変わりもないというか。五大龍王がその身に宿ったこともわからぬか」
 道満はあきれたように頼光たちを見回した。
「あの雷はなんだったと思うんじゃ。貴様ら各々に龍神が宿ったのだ。頼光には中央黄龍神王、綱には東方青龍神王、金時には南方赤龍神王、季武には西方白龍神王、貞光には北方黒龍神王、わしにはそれぞれの姿が見えるぞ」
 頼光たちはそれでも、首をかしげて自分の体を見ろした。装束が河原の泥で汚れただけで、これといって強くなったような変化は感じられなかった。
「あいわかった。それぞれ手を上げて、今教えた自分の龍神の名を唱えてみよ。各々に相応(ふさわ)しい得物も手に入ろう」
 五人は半信半疑で両手を上げて、それぞれに宿ったという龍神の名を唱えた。
 その途端、五人の姿は光輝に包まれて見えなくなった。しばらくして、雲のように五人を覆っていた光が去ったかと思うと、それぞれ武器を携えた五人の鎧武者が現れた。
「なんだこりゃ」
 鎧兜を身につけた坂田金時が大声を上げた。その手には巨大な鉞(まさかり)を持っていた。
「その鉞は快童丸(かいどうまる)という。お主の怪力に相応しい得物じゃ」
 道満は破顔して金時に教えた。道満によると、頼光の刀は銘安綱、綱の刀は髭切、季武の弓は落日(らくじつ)、貞光の大鎌は雄呂血切(おろちぎり)と呼ばれる大名物とのことだった。
「どうだ。龍王の力を感じるじゃろう」
 頼光たちは言葉もなかった。身内から溢れ出る力の大きさは、どのように制御してよいのかわからないほどだった。手の刀を一振りするだけで、遠くに霞んで見える比叡山さえ両断できる気がした。
「よし」
 卜部季武が、落日に矢をつがえて引き絞った。満を持して構えた弓から放たれた矢は、衝撃波で地面を抉(えぐ)りながら遙か遠くに消え去った。
「すごいぞこれは」
 季武の言葉に全員が頷いた。
 白々とした夜明けの光を迎えて、六人は河原に立ち尽くしていた。頼光たちは常の姿に戻ると、祭壇を片付けるの手伝って洛中に帰った。道満は一行を見送ったあと、大きく伸びをして、ひと眠りしようと筵がけの小屋に戻った。

 ほとんどの鬼は都を離れた。伊勢を目指すもの、奈良へ逃れるものも少なくはなかったが、ほとんどは鬼の里に隠れんと老ノ坂を経て大枝山へ向かった。かなりの数の鬼が、道中で待ち受ける桃太郎の犠牲となったが。
 それでもまだ都に暴力の残滓は残っていた。残された鬼の住居や工房では略奪が繰り返され、流血に慣れた都人の間での暴力沙汰も絶えなくなっていた。
 そのようにいまだ不穏な都の空気もあって、頼光たちは内裏の警護に戻った。
 頼光が戻ったと聞いて、帝は密かに内裏に呼び寄せた。
「桃太郎は大江山へ向かったぞ」
 帝は、御簾の向こうに控える頼光に言葉をかけた。
「すでに鬼は都にはおりませんが」
「桃太郎は、鬼のすべてを奪い尽くすつもりらしい。道長の強欲は限りがないようだ」
 頼光は、道満とのやりとりを報告し、四天王ともども五龍萬勢祭によって、強大な力を授けられたことを告げた。
「そんなわけで、髭切は綱が持つことになりました。あとは鏡です。封印の術は道満様が力を貸してくださることに」
 帝の安堵した様子が御簾越しに伝わってきた。
「その鏡ならここにある。気にせず持つがよい」
 人払いしたせいで、近習はそばにいない。帝直々に御簾の下から、絢爛たる蒔絵を施した文箱を差し出してきた。
「勿体のうございます。有り難き幸せ」
 頼光は決して帝を見ぬようにしながら、膝行して進み出で、大切に文箱を受け取った。

 頼光は、蘆屋道満に導かれ、四天王を従えて都を離れた。すでに鬼の死骸こそなかったが、凄惨な殺戮の血の跡を辿(たど)るようにして老ノ坂に向かった。
 老ノ坂は、山城と丹波の境にある大枝山の麓にある。丹後の大江山よりよほど都に近いが、後世ではともに鬼の棲み家として混同されてきた。酒呑童子伝説ひとつをとっても、いずれの地にも伝承が残っている。しかし、これには理由があった。オオエヤマという音が似ていることだけではない。大枝山老ノ坂の洞窟が丹後大江山にある鬼の里の入口となっていたのである。それほど長い洞窟だったのか、洞窟の中で時空がゆがんでいたのかは、現在では不分明であるが、鬼の里の入口と鬼の里そのものがともに似た名前であったことが混同を招いたのであろう。なお、酒呑童子の住まう大江山の鬼ヶ城へ至るには洞窟をくぐる必要があることは、頼光の鬼退治を描いた「大江山絵詞」に見られる通りである。
 一行は洞窟の前にたどり着いた。頼光と四天王は、すでに龍王の力を宿した鎧武者の姿になっていた。道満は坂田金時がその広い背に背負った。
「本当にこの奥に鬼の里があるのか」
 真っ暗な洞窟の奥をのぞき込みながら、碓井貞光が聞いた。
 道満より先に頼光が答えた。
「まちがいない。血の跡を見てきただろう。桃太郎もここから鬼たちの後を追ったはずだ」
 頼光が全員を見渡した。
「行くぞ」
 一行は洞窟に飛び込んだ。
 闇の中を駆けたと思ったのも束の間、洞窟の中はどんどん広く明るくなり、頼光たちは気づくと大伽藍のような場所にいた。
「なんだここは」
「気にするな。そこが出口だ」
 金時の疑問など斟酌せず、道満は背負われながら、光の満ちた円形の門のようにも見える方向を指さした。
 洞窟を抜けると都にも勝る地獄絵図が広がっていた。老若男女を問わず、鬼の死体があちこちに転がっていた。家族や親子と思われる切り裂かれた死体が折り重なった様子は、いっそう頼光たちの怒りをかき立てた。周囲に残って死体を傷つけていた、猿と呼ばれる短躯異形の化け物どもは、四天王が一匹残らず斬り捨てた。
「まだいるぞ、桃太郎は」
「本気で皆殺しにするつもりか」
「奥へ進め! 走れ! 天守をめざせ!」
 言葉を交わす頼光と貞光に、道満が怒鳴った。
 頼光たちは、鬼の里を突き進み、鬼ヶ城と呼ばれる城郭に至った。開かれたままの大手門を駆け抜けて天守に飛び込んだ。
 それが桃太郎との死闘の合図となった。
 桃太郎は猿を連れて天守閣を駆け上がり、酒呑童子を追い詰めつつあった。天守を護衛していた屈強な鬼たちも、桃太郎の敵ではなかった。
 そこへ頼光と四天王が躍り込んで、桃太郎と猿を天守の物見から外へ吹き飛ばしたのだった。
 頼光たちと桃太郎の死闘は長く続いた。しかし、ついに雉は卜部季武の矢で射落とされ、犬は坂田金時の快童丸で頭蓋を真っ二つにされ、猿は碓井貞光の大鎌で胴体を両断された。
 桃太郎は強化された膂力と四本の腕で頼光たちを苦しめたが、渡辺綱の髭切で首を落とされた。しかし不死身の桃太郎である、首となっても宙を舞って頼光の頭に噛みついた。しかし、用心深い頼光は、二つの兜を重ねてかぶっていたので九死に一生を得た。ちなみに、このエピソードは、頼光が酒呑童子を退治したときのワンシーンに流用されて絵巻物に残っている。
 頼光たちは、桃太郎の四肢を断ち切って、首とひとまとめに鎖で縛り上げ、鬼の里のはずれにある小高い丘の上に持ち込んだ。
 蘆屋道満と鏡の出番である。道満は血を吐くような祈祷を続け、桃太郎に鏡をかざしてとうとう封じ込めた。桃太郎はばらばらの肉体のまま鏡に吸い込まれ、あとには径三寸ほどの神鏡が地面に転がっているだけだった。
「千年」
 道満は疲れ切った様子で、地面に直接座り込んだままつぶやいた。
「今日から千年、封印はそれが限度じゃ。千年も封じれば、どんな化け物も朽ち果てるものだが、桃太郎の不死身がどれほど持つものやら」
 頼光は道満を抱えるように立ち上がらせ、金時の背に託した。
「千年先のことなど考えても仕方がない。せいぜい孫子の代まで、桃太郎には気をつけよと伝えるしかあるまいよ」
 頼光たちは満身創痍のまま、桃太郎を封じ込めた鏡を手に引き返すことにした。
 鬼ヶ城の天守閣で、頼光たちは酒呑童子と向き合った。
 全国に散らばった鬼の首領でもある酒呑童子は、沈鬱な表情で頼光たちに相対した。
「ともあれ、このたびは礼を申し上げる」
 酒呑童子は屈強な体格の鬼ではなく、むしろ都の薬師のような理知的なたたずまいを感じさせた。
「桃太郎どもは本当に恐ろしかったよ。どれほど多くの鬼が殺されたか」
 酒呑童子の目には涙が浮かんでいた。
「それよりも恐ろしかったのが、都の人々じゃった。昨日まで隣に住んで楽しげに言葉を交わしておったではないか。そんな人たちが突然、犬をけしかけ武器を振るって、鬼の家族を殺して回ったのだ。これほど恐ろしいことがあろうか。わしらが何をしたというんじゃ」
 酒呑童子の目から涙がこぼれた。脇に控える茨木童子や星熊童子、居並んだ鬼たちも座ったまま、膝を握りしめるようにして嗚咽した。
 頼光たちは言葉もなかった。右大臣の目を盗んで桃太郎を封じ込めることができたのが、せめてもの慰めだった。
「わしらはもう引き上げることにする。人の世はもう鬼の住める場所ではない。桃太郎が流した偽りであれ、虚言であれ、人の中に根付いた鬼への憎しみはや蔑みはそうそう消えるまい。そんな世にはもう住めぬ。いつ追い出されるか、いつ殺されるか、怖れながら暮らせというのか」
 頼光は酒呑童子に問うた。日本中の鬼を、すべて人の世界から引き上げるというのか。再び人と交わるつもりはないのか。
「その通りだ。この鬼の里は大江山の麓にありながら大江山ではない。老ノ坂の洞窟を抜けて来ることができる別世界だ。天が下の鬼をすべて引き受けても十分暮らせる広さはある。お主らに気を遣うてもらうことはない」

 酒呑童子は、桃太郎を封じ込めた鏡を丁重に受け取ると、岩で作った壺に納めた。頼光たちが桃太郎を倒した丘の上に塚を作って、千年先まで鬼の目で監視することを誓った。
 頼光たちは、鬼の里で数日を過ごし、桃太郎との死闘で受けた傷をゆっくりと癒やしてから都へ戻った。
 帝には、道満の力を借りて桃太郎を千年の封印に閉じ込めたことを報告し、鬼たちは一匹残らず人の世を去ったことを告げた。帝は御簾の奥で深く頷き、頼光たちへの労いの言葉を残して奥へ去った。
 道長は、内裏の警備が長くかかりましたと、見え透いた嘘をついた頼光たちを責めることはなかった。桃太郎の力によって鬼のすべてを奪い、その財物と生産力によって俗世の権力を恣にする見込みが立った以上、藤原保昌に並ぶ子飼いの武力を失う愚は冒したくなかった。内心ではむしろ、必ずや後顧の憂いとなるであろう桃太郎を片付けてくれた頼光に感謝していたと言ってよかった。


第一話 紅蓮の炎、群青の月 第一話

第二話 (本ページ)

第三話 紅蓮の炎、群青の月 第三話

第四話 紅蓮の炎、群青の月 第四話

第五話 紅蓮の炎、群青の月 第五話

最終話 紅蓮の炎、群青の月 最終話


この記事が参加している募集

よろしければサポートをお願いいたします。いただいたサポートは、創作活動の大きな励みになります。大切に使わせていただきます。