「筆先三寸」日記再録 2004年12月
2004年12月1日(水)
▼「一人ぼっちの雑文祭」速報
主催者の責任もありますので、取り急ぎバカエッセイにアップしました。→こちら。
タイトルつきの雑文書くのは久しぶりなもので、勝手を忘れててどうにも長くなってしまい、その上ありきたりのネタに骨格の弱いまま小ネタや小ワザをつぎ込みすぎて、なにやら色数の多すぎる全紙大のポスターのように見苦しいものになってしまいました。横尾忠則ばりの腕力があれば、それでも面白くなったんでしょうけど、才能とかそーゆーのはありませんのでご勘弁ください。
とりあえず、えらそうに企画した張本人の雑文書きがこれかよ、と後に続く(かもしれない)みなさまにもご安心いただけるのではないかと。
お目よごしですが、よろしければご一読ください。
▼テレビが何で映るのかは最近わかった(最近かよ)。
ひと連なりの信号を、色と輝度の情報にして、テレビ画面一面に、テテテテテテテテテテテテテテテと、点を打っていくらしいのである。点は横に打っていくので端から端までひとまず一本の線になる。これが走査線。それを何百本か並べて描くと一枚の絵になるが、それを毎秒何回描きなおすのかがリフレッシュレート。工学的な定義はよく知らないが、当たらずといえども遠からずだろう。
だから、一本の線になって飛んでくるひと連なりの信号でも、一枚の絵になるし、それが動くということがやっとわかったのである。
で、いまだにさっぱりわからないのが、もっとずっと原始的なはずのラジオ(音)である。
スピーカーでも鼓膜でもいいが、あんなもの1枚震えるだけで、なんでたくさんの音がいっぺんに鳴る(聞こえる)んだろう。オーケストラの指揮者なんて、あんなにたくさんの楽器を聞き分けてるらしいし。スピーカーを震わせるのはただの電気信号で、耳に飛んでくるのは所詮一本の音波のはずなのに、音波の波形が複雑なだけで、そんなにたくさんの音を同時に表現(認識)できるというのが変だ。
左右の耳の位置云々で音像定位がどしたらこしたらの話ではなく、なんでスピーカーが1個でも、片方の耳でも同時にいっぱい音が聞こえるのか、という話である。なんでそんなことになるのか、どう考えても合点が行かない。これは電子工学じゃなくて認知心理学の話なんだろうか。
教えて、エラい人!
2004年12月3日(金)
iPOD mini カッチャッタ――♪ o(゚∀゚o) (o゚∀゚o) (o゚∀゚)o カッチャッタ――♪
むしまる家恒例の「自分で買うクリスマス・プレゼント:2004年版」である。
ぎりぎりまで普通のiPODと迷ったのだが、やっぱり店頭で手にとってみて、迷わずminiにした。
だって、見た目は一見変わらないようだけど、大きさと軽さがぜんぜん違うんだから。miniなら上着やシャツの胸ポケットに入れても窮屈じゃなさそうだ。でかい方は上着の内ポケットが限界だろう。
もちろん、HDのサイズは大きなビハインドだけど、MDプレーヤー買ったときと同じで、何聞いていいのかわからないような私じゃ、きっと4GB埋めるだけでも大変だ。
えーっと、今真っ先に入れたいのは、なおちゃん&ともちゃんお気に入りのナルトの主題歌集なんだけど……やっぱり「GO!!!」と「今まで何度も」がかっこいいし……んーっと、これこれ、ふむふむ……え? コ、コ、コピーコントロールCD!?……なんじゃそらー!!
こんなもん、こんなもんー!
ガッシャーン! <投げるとケースがこわれるので擬音語だけ口で言ってみた。
2004年12月4日(土)
▼しゃれで言い出した「一人ぼっちの雑文祭」は、いいかげんな企画のわりに少なからず参加して下さる方がいて、とてもうれしい。ゆえに、500ギル没収。残念!
▼昨日買ったiPOD miniだけど、手持ちのCDからめぼしいの入れてみた。20枚以上入れたかな。四百数十曲入れたけど、それでも3分の1しか埋まらなかった。
で、今日一人で出かける用事があったので持ち出してみたのだが、これが予想以上にいい。MDウォークマンにせよ、CDウォークマンにせよ、持ち出すメディアはせいぜい二、三枚が普通だと思うのだが、結局、途中で飽きてしまったり、やっぱりあっち持ってくればよかったなと思ったりで、なかなか一日中聴くようなことはない。しかし、こいつは数十枚のメディアを持って歩くのと同じなので、そんな悩みからはほぼ解放される。林檎に飽きたらビル・エヴァンス、ブラック・サバスに飽きたらテレサ・テンと、これまでのポータブル・プレーヤーの悩みも一挙に解決である。しかもメディア入れ替える手間もないし。
この落差は、実際経験してみると考えていた以上に大きい。多分もう手放せそうにない。事前にCDから落とす手間もほとんどないし。MDのが時間かかってめんどくさいぐらい。
それと、やっぱりminiの選択も正解だった。スーツの胸ポケットにばっちり収まって抵抗なし。軽いし薄いし完璧。
あとそれと、あの“くるくるコントローラ”考えたやつ天才。めっちゃ楽。気持ちいいぐらい。
いや、あのね、そんなことiPODが出たときからわかってる、言い尽くされてるって話かもしれないんだけど、私は初体験で感動したのでね、それで書いたの。持つと聞くとは大違いってことでよろしく。みんな買え。
2004年12月5日(日)
▼「キューティーハニー」にはじまって、「キャシャーン」、「ハットリ君」、「デビルマン」、「鉄人28号」と、このところ人気アニメの実写版製作が大はやりですが、やはりここは、いよいよ「アンパンマン」の実写化が望まれるところでありましょう。リアルなアンパンの頭を持つ主人公(オダギリ・ジョー)が、自分の頭をちぎってカバオ君(これも猿の惑星ばりの特殊メイクの三平)にあげるところ見てみたくないですか。見たくないですか。そうですか。それなら、中尾彬のバイキンマンと杉本彩のドキンちゃんはどうですか。やっぱりイヤすぎますか。バイキンマンは中村獅童どまりですか。ドキンちゃんはやっぱりベッキーですか。深津絵里のバタコさんとタッキーのショクパンマンなら許してもらえますか。
と冗談はさておき、次の実写化のターゲットはこれしかない! 「アストロ球団」熱烈希望! もちろん監督はチャウ・シンチー!
いまCGとワイヤー・アクションでよみがえる、「スカイラブ投法」を、「ジャコビニ流星打法」を、君は見たくないか! 「殺人L字投法」に、「人間ナイアガラ」に震えたくはないか!
とりあえず観客動員を狙う必要がありますので、エースで4番の宇野球一と天才峠球四郎は、坂口憲二とトキオ松岡でどうでしょうか。あざと過ぎますか。息抜きとして、球七はキングコングの梶原(ちっさい方)で、球八は引退したての武双山にしてコンビとしましょう(適当)。そこへビジュアル系の昔に還ったミッチーの伊集院球三郎なら腐女子も萌えるような気がします。いけいけー!
2イニングで映画一本終わるけど。
あ、そういやアストロ球団はアニメになってないや。
けど、アニメじゃなくて、というところまで話を広げれば、「リングにかけろ」の実写版も見たいところです。でも、あれ小学生だからなあ。あからさまな子どもに、甲高い声で、「ギャャャラクティカーーーマグナーーーム!!」とか叫ばれてもなあ。それで、リングのマットが破れたり、相手が空高く吹っ飛んだりするのはなあ。CGでいいけど、喜劇にしかならんだろう。
んじゃ、「北斗の拳」はどうか。まずラオウがなあ、あんなでかい人間いないしな。せいぜい蝶野かな。曙でもいいかな。カリフォルニア州知事呼んでくるか。ぴったりだけど、今や年食いすぎてるな。うーむ、2メートルはほしいが、ここは高山か小川で手を打つか。となると、フドウはもっと無理だな。あ、いや、KONISHIKIがいるぞ。顔もかわいいし、VFXで大きく見せればばっちりだ。トキは浅野忠信じゃだめか。だめだな。どっちかっていうと、トヨエツかな。リュウケンはもちろんソニー千葉。
じゃあ、ケンシロウは、ってなるけれど、ガタイがあって、蹴りの美しい二枚目ってなかなかいない。キムタクでもだめだろう。香取慎吾のがずっとましだが、これもちがう。うーん、ケイン・コスギも気に入らないなあ。ジャン・クロード・ヴァンダムみたいなのがいいんだけど。よし、魔娑斗でどうだ。ちょっと小さいか。でも蹴りはカッコよさそうだ。あーでも、魔娑斗はやっぱりジュウザあたりの方がいいような気がする。佐竹武蔵桜庭なんてのは、顔がほら、やっぱし。
最大の問題は実はユリア。上品で突拍子もない美人なんか、今の日本人じゃ思い当たらない。松藤原松嶋佐藤小雪菊川矢田米倉柴咲木村竹内、みんなだめだ。なんとか仲間由紀江ならありかな。でも私の世代としては、ここはやっぱり森高呼んできてほしい。年食ってるようだが、設定ではラオウやトキとそんな離れてるはずはないんだから悪くはないだろう。
こういう妄想はどんどんふくらむし、いくらでも時間つぶせるなあ。
あ、そうだ、剣桃太郎と伊達臣人は誰がいいと思います?
▼もうあちこちで話題になったので、知ってる人も多い産経新聞のニュース(大学生は「憂える」の意味がわからない、とかいうやつ)について、みょうちきりん(死語)な調査だよな、と思っていたら、「大西科学」さんが、「六で割ってみること」という文章で見事に見破ってらっしゃいます。
見るからにアホそうな学生を6人集めて聞いただけの結果だったとは! (いくらなんでも大西科学さんはそんな断言はしていません。)
2004年12月6日(月)
▼雑文祭の話題など。
「一人ぼっちの雑文祭」は、無事予定期間を終了しましたが、結局私がやったのは、要項ページを作ることと、自分で一本書いたことだけでした。
これほど言い出しっぺ(主催者とは言いにくい)が楽ちんな雑文祭は、あとにも先にも今回だけでしょう。さすがにもうこの先、同じ手法は使えないでしょうから。なんか、みなさん(って誰?)に申しわけないような気がします。
さあ、私は、年末のお楽しみに、ゆっくりグーグルででも検索しながら、読んで回ることにします。まさかMETAタグでロボット蹴るほど一人ぼっちが好きな方はいないでしょうし(ほんとにいたら見上げたものです)。
ちなみに、今のところ下記の雑文祭が進行中のようです。繁盛すればいいですね。
「クリスマス雑文祭」 http://backentrance.net/ct2004/
「殺伐雑文祭」 http://www.geocities.jp/satsubatsuzatsubunsai/
前者は、昨年も行われて好評だったものですが、今年もすでにいくつか作品が寄せられているようです。そして後者がアレなんですが、気の小さい私には、正気の沙汰とは思えません。すっごいこと考えるなあ。「ノリとセンスのいい、信頼できる大人」を集めるのなんて、リアルの世界でも大変なのに。チャレンジャーというかなんというか。まあなんとか、なごやかに殺伐とすれば(へんな表現)面白いものになりそうです。
▼んで、またiPODだけど、入れておくCDがなくて、青春時代のナイアガラ系とかも久しぶりに取り出したところ、CDにポツポツとカビが生えていてびっくり。
カメラのレンズでも生えることがあるというのは知ってたけど、実際に目にすると「なんでこんなもんまで」と唖然とする。きゅっとぬぐえばきれいになるけど。
そういえば、ビデオテープにも生えたことがある。実家にいたころは、何十年も昔のオープンリール・テープでも大丈夫だったのに。
今の家は湿気の流れが悪いのかなあ。家がボロいのですき間風はよく入るのに。ほっとけ。
2004年12月7日(火)
最近、日本中で児童・生徒の連れ去り未遂事件が多発している。物騒な、ていうか変態だらけの世の中になってきたのかな。
と、思ったが、ちょっと待った。
新聞記事を読むと、「女子小学生が、腕をつかまれたが逃げた」とか、「女子中学生が、自転車の男に体を触られた」とか、「4年生の男児が車にのれといわれて逃げた」とか、そんなのが多い。しかも起こったのが、兵庫の端であろうと京都の果てであろうと、近畿中の事件が大阪版の社会面にでかでかと載っている。
そんなの、昔は記事どころか事件にもならなかっただろう。私の小さいころだって、身の回りに限っても、知らないおじさんに声をかけられたり、中学生におどかされたりというのは別に珍しい話じゃなかったように思う。
それがここ最近、新潟の長期監禁や奈良の誘拐殺人をきっかけに(遠くは宮崎勤からか)、急にニュースバリューを持ち始めたというだけのことじゃないんだろうか。おかげで、市民は不安をあおられる、マスコミはそれに乗じていっそう報道する、で市民の不安がまたまた……と、ポジティブ・フィードバックの見本のような話である。
もちろん、だからといって「いちいち大げさに報道するな」と言いたいわけではない。私も小学生の子を持つ親である、危険は危険として、不安は不安として、警戒すべきものは警戒すべきであると、きちんと報道して、市民に危機管理を訴える必要はあると思っている。
ただ、ワイドショーによく見られるあからさまに不安をあおるだけの報道や、「最近急にこんな事件が増えた」という根拠のあいまいなマスコミの論調についても同じように警戒すべきだろう。メディア・リテラシーへの留意を忘れて俗論に巻き込まれてしまえば、ここから、「街頭の監視カメラが増えるのを嬉々として受け入れる私たち」へはあと一歩だし、「ひきこもりや精神障害者に対する偏見の爆発」まででさえあと数歩だ。
そういえば、ということで最悪の例を思い出した。
うろ覚えで申しわけないが、少し前に見たワイドショーでこんなのがあったのだ。
どの地方の事件だったのかは記憶にない。ただ、犯人が教師だったということで、大きく取り上げられたのだろう。その事件は、「ある中年の男性教師が、知らない女児を車に乗せて、半日連れ回してつかまった」というだけのものだった。
事件の内容はまさにそれだけだったのに、スタジオのゲスト陣は、この教師を鬼畜扱いしてひどいコメントを投げつけていた。しかも、識者のコメントとして別撮りのビデオに出てきた学者とやらは、ペドフィリア(小児性愛)と変態行為について語る語る。「この教師の頭の中はいつも変態性欲で一杯で、そのゆがんだ欲望を満たそうとして女児に手を出した」と平気で決めつけるばかりか、実際そういう行為に及んだとまで言いたそうであった。
やめろー、私は思わずテレビに叫んだ。
少し前までは、「あんまりかわいくて思わず連れ歩いた」系の誘拐事件なら、こんな報道は絶対されなかった。馬鹿な犯人ですね、よほど可愛かったんでしょうね、ともかく子どもが無事に戻ってよかったですね、というコメントがせいぜいだったはずだ。
それをこんな番組のつくり。この取り上げ方で迷惑するのは、犯人の男はともかく(それにしても家族は気の毒だ)、被害者の少女のはずだ。巧妙に断言を回避しながら、ひどいイメージをを植えつけるだけ植えつけておいて、「あの子は変態にいたずらされた」という噂が広まったらどうするつもりだったんだろう。
こういう手法は、ワイドショーの常套手段だと思うけど、朝日や産経の偏向報道よりよっぽど頭にくる。
2004年12月8日(水)
今日は急にともちゃんを医者に連れて行くことになって仕事を休んだ。病院では耳鼻科でレントゲンを撮り、小児科で診察してもらいというハシゴ受診となったのだが、とくに危惧するようなこともなく、ただの風邪気味かもと薬だけもらってあっさり終わった。
ただ、熱も下がって中途半端に元気なともちゃんは、保育園へも行けず退屈すること退屈すること。あんまりブーたれやがるので、仕方なくツタヤへ連れて行って、まだ見てなかった「クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶ 夕陽のカスカベボーイズ」を借りた。
やっぱり「しんちゃん」はおもしろいなあ。以前、m@stervisionさんが、あいかわらず的確な批判をしていた(私も全面的に同意する)けれど、やっぱり見てると笑いもするし、手に汗も握るし、感動もする。
ともちゃんも、夕方、仕事を終えて帰ってきたお母さんに感想を述べてたし。
「あんな、しんちゃんのえいがみてんけどな、かんどうした」って。
2004年12月9日(木)
いまさらながら、FOMAにしてなにがよかったかというと、『風来のシレン』が遊べることに尽きる。テレビ電話なんていらねーよ。だれにかけても風呂上りのハセキョーが出てくれるのなら毎日使うけど。
で、「シレン」だが、ゲームボーイ版は燃えた。雪で電車が半日立ち往生したときも、おかげで平気だったぐらい燃えた。「風来のデレン」になったところで挫折したけど。
ゲームボーイ・カラー版も燃えた。「天下一ワナ道会」もクリアした。「壷の洞窟」と「鍛冶屋のかまど」はまだクリアできてない。SPだと突き出してしまうカートリッジが不細工だが、今なお現役最右翼のソフトである。
それがあんた今や携帯でできますから。電池が減りたおして困るくらいできますから。11月にバージョンアップして、操作性も大向上ですから。
「妖刀かまいたち」や「ドレインバスター」も出てくることになったせいか、武器や防具の機能の合成もできるようになったし。あと、「壷」と「道具屋」のシステムが加われば完璧なんだけど。がんばれチュンソフト。
2004年12月11日(土)
休みだっての7時に起床して、家族で「Mr.インクレディブル」を見に行きました。
やっべぇ、すっげおもろくね。やべぇっしょ、やっぱこれおもれーって。
と、かしこそうな感想を述べてみましたが、みなさまいかがお過ごしでしょうか。
ほんとに、しびれましたとも。アニメの出来はもちろん、3D系では文句なく頂点だと思います。脚本も、いやはやなんともツボを押さえた王道のつくり。
見たのは当然吹き替え版でしたが、三浦友和が予想をはるかに超えて上手でした。広川太一郎と錯覚するくらいの達者な印象を受けたりしちゃったりなんかして。タレント系アテレコの弱点には、見ている最中に本人の顔がちらちら浮かんでしまう、というものがありますが、今回ははっきり言ってほぼ無縁と言っていいと思います(黒木瞳しかり、雨上がり宮迫しかり)。いいキャスティングだったんじゃないでしょうか。
もちろん、なおちゃん&ともちゃんも大喜びでした。
ストーリーの楽しさや、アニメの出来のすごさについては、すでにあちこちで語られているので、ひとまず措くとして、ここではとても個人的なツボの話を書いてみます。
ひとつには、私の「集団ヒーロー好き」という根深い好みの問題があります。これはもう、骨絡みというか、DNA絡みというか、フェティッシュに近いものがあるのです。
物心がついて、最初にしびれたのは、やっぱり「スーパースリー」でしょうか、そこへ「宇宙忍者ゴームズ」や「サイボーグ009」、「仮面の忍者赤影」がきて、「必殺仕置人」や「スパイ大作戦」というTVドラマまでつながります。本でも、平井和正の「超革命的中学生集団」や、スタージョンの「人間以上」、山田風太郎の忍法帖ははずせません。最近では、やはり「ワンピース」や「NARUTO」が好もしく感じます。
これらの共通点は、個性的な(とくに得意技なんかが)キャラの集まりであるということです。したがって、ただの集団ヒーローではだめで、微妙に個性はあっても結局似たりよったりのキャラが集まる戦隊シリーズや「ガッチャマン」には、あまり食指が動きません。メンバーが全体に奉仕する集団主義より、自立した個によるチームの方がいいということでしょうか。
その点でも、今回の「Mr.インクレディブル」は、ばっちり私のツボだったのです。
2点目は、ちょっとこっぱずかしいのですが、「キャラ萌え」です。ええ、前「イラスティガール」、現「Mrs.インクレディブル」の。
私は、昔から「理想の女性」、あるいは「好きなタイプ」を想像するとき、「髪が長くて、スリムな美人で、よく笑うけどどこか謎めいていて、ふだんは物静かで本をよく読む……」などと思うことが多かったのです。ところが、小学校高学年この方、好きになる女性、好ましいと思う女性がすべてそれとはぜんぜん違う、「髪は短めで、美人というより魅力的な顔で、陽気で向こう意気が強くて、本は読みそうにないけど一途なタイプ」なのです。なぜなんだろう、といつも思います。マザコンをお疑いの向きもあるかもしれませんが、うちのおかんはまったくどちらにも属さないタイプですのでそれはないと思われます。サイは当然後者のタイプなのですが、それは好みが出来上がってからの話なのでこれも関係ありません。
とにかく、そんなわけで、私には「夫人」がばっちりツボでして、これもはまったひとつの要因かと。
また話は変わって、この映画のメンバーって「Fantastic Four」(和名「宇宙忍者ゴームズ」)の影響が大きいように思いませんか。
メンバーも同じく4+1人ですし、お父さんは「The Thing」(同「ガンロック」)、お母さんが「Mister Fantastic」(同「ゴームズ」)、お姉さんが「Invisible Woman」(同「スージー」)と、4人中3人の能力がまるきりかぶっています。フロゾンもマーベル・コミックスではよく一緒に出てきた「Silver Surfer」とそっくりです(能力は違う)。結果的にチームではなかったのですが、赤ん坊の能力(の一部)まで勘定に入れると、「The Human Torch」(和名「ファイヤー・ボーイ」)までカバーできてしまいます。「X-Men」あたりとのかぶりがほとんどないことを思うと、影響の差は歴然でしょう。ま、とくにクレジットにもなかったような気がしますが。
それで結論。DVD買うぞ。「2」にも期待するぞ。
2004年12月12日(日)
今日、ともちゃんがひとりで、「NARUTO」の「秘伝・兵の書」(物語世界のガイドブックというか解説書のような本)を広げて、なにやらぶつぶつ言っていた。
「ねー、うま……これが、とりやろ……」
よく見ると、広げた本はひじで押さえて、両手の指を変な形に組み合わせたりほどいたりしている。
印か! 印の練習か!
同じようにそれを見ていたサイが、そっと教えてくれた。
「このごろともちゃんな、こんなことして練習してやんねん」
手のひらを密着させない商人の揉み手のような仕草をして見せてくれながら。
私はがまんできずに、ともちゃんにたずねた。
「お、ともちゃん、螺旋丸の練習してんのか? いけそうか」
ともちゃんは、両手の印はそのままに、首だけこちらの方を向けて答えた。
「ううん。らせんがんちゃう。かとんごうかきゅう(火遁豪火球)」
目がマジである。そ、そうやったんか。そらお父さんが悪かった。
「ま、これから寒むなるから、がんばって練習しといてくれ」
ほかにどない言えっちゅうねん。
2004年12月13日(月)
HDD&DVDレコーダー カッチャッタタタタタタタタ━━━(((((゚(゚(゚(((゚゚∀∀゚゚)))゚)゚)゚)))))━━━!!!!!!
むしまる家恒例「冬のボーナスのお買い物:2004年版」である。
むろん、予算の専決権はサイにあるので、サイが購入を決定したのだが、「来年の固定資産税どうしよう」と今から悩んでいる。旦那の稼ぎが悪いので。だからほっとけ。
それはともかく、どうやら国家権力に屈するより、「冬ソナ」をとったということらしい(その「完全版」とやらが、今月放送されるのである)。サイの母が輪をかけてヨン様にはまっているので、DVDに焼いてあげたいということもあるのだろう。だから、余ったDVDプレーヤーもこんど持っていくことになった。
定価なら12万からする機種が、型落ちの時期を迎えて6万いくらで手に入ったのはとてもありがたかったのだが、これが目眩のするぐらいマニュアルがぶ厚い。「基本編」だけで従来のビデオデッキのものと同じぐらい、「操作編」となると「月刊アスキー」並みなのである。
テレビやVHSデッキとの接続は、テストも含めて半時間ほどでできたのだが、多様な機能のマスターとなると前途遼遠である。
とりあえずHDDへの予約録画は覚えたので、あと簡単な編集とDVDの焼き込みだけでもマスターしようと思って、昨日録画しておいた「戦場のピアニスト」を使って、DVDに焼いてみた。
マニュアル見ながらだと、案外簡単で拍子抜けした。早送りしながらCMの前後でチャプターを刻んで、DVD-Rに落とすだけ。メニューだのなんだのに凝らなければ、1時間そこそこ(そのうち30分は焼き焼きタイムなので入浴)で、2時間分が1枚に収まる。しかも、PS2でも、ばっちりきっちり再生できるのだから文句なし(今のところDVD-Videoモードだと多重音声がうまく扱えないのはともかく)。
おおお、これはいいぞ。これならお義母さんもきっと喜んでくれるぞ。
しかしまあ、いまどきの家電の恐ろしいことであるよ。こりゃもうほとんどパソコンの域だ。ルータと結べばいろいろ便利らしいのだが、おかげで家電のマニュアルなのに、「デフォルトゲートウェイ」などという言葉が出てくる。本当にえらい時代になったものである。それに、いろいろできて本当に便利なのはわかるが、リモコンで行う設定項目も専門用語バリバリで詳細にわたっている。こんなのGコード予約さえあやふやな一般市民には、ぜったい使いこなせないよ。ばかでかいリモコンにも無数の小さなボタンがついていて、もはや完全に機会音痴や高齢者を置き去りにしているとしか思えない。
サイはマニュアルの厚さを見た瞬間に、すでに私にすがるような目を向けてくる。なおちゃんにおしつけようにも、もひとつ力不足だ。ともちゃんにやらせようにも、どうせ泣くか壊すかだろう。
あーもー、めんどくさそうだなあ(といいつつも、「ケロロ軍曹」をすでに「毎土曜日」で予約してあるのはしみつ)。
2004年12月14日(火)
▼このごろテレビをつけるたびに、どのチャンネルに回しても出てくるので、きっと人気があるんだろうと思う。
だけど私は、どうしてもそれには納得がいかない。そっこっでっ、言うてええか? 言うてええか? ええな? 言うで。
おれは、「くりぃむしちゅー」がきらいなんじゃー! とくに上田! なんじゃそのイヤミな半笑い!
あー、すっとしたー。
▼最近、年取ったなと思うことのひとつに、電車の中でマンガ雑誌を読めなくなったということがある。
その昔、栗本薫が何かのエッセイだったか、電車の中でマンガを読むサラリーマンを馬鹿にしているのを読んで、「てめえ、評論家気取りでマンガのことをあれほど書いといて、なに言ってんだ」と腹を立てたことまであるのに。あ、「評論家気取り」ってのは失礼かな。中島梓名義では、評論部門で群像新人賞取ってるし。あれって文芸評論系では柄谷行人がデビューした由緒ある賞だしな。
そんなことはともかく、ずいぶん前に、2chのリーマン板でも、「サラリーマンが電車の中でマンガを読む是非」について議論になっていて、そのときも読む側の肩を持ちながらROMってたのに。
にもかかわらず、近頃はどうしても電車の中で平気でマンガを読むことができなくなった。どうにもこうにも気恥ずかしいのである。おまけに、自分と似たような年恰好のオヤジがスピリッツやビッグコミックを広げているのを見ると、あほかこいつとまで思うようになってしまった。
いかんいかん、これではいかん。自分のことはともかく、他人を指弾するようになってはマンガ好きの名折れである。
ここはひとつ、リハビリからやりなおすべきかもしれない。
毎週月曜日には、通勤電車の中でジャンプを音読するとか。音読て。
2004年12月15日(水)
私が小学校5年生のとき、なにかの工事だったのか、小学校が断水になったことがある。
断水の時間帯も含めて、先生が言ったことをはっきりと覚えている。
「今日、お昼から、2時から11時まで学校の水道が止まって、水が出なくなります。お手洗いはそれまでにすませておきなさい」
そして午後の授業も終わって、放課後の掃除の時間がやってきた。当然、校舎はすでに断水の時間帯である。トイレの水道で試してみたが、もちろん水は一滴も出ない。
私たちの教室は「北校舎」と呼ばれ、職員室などのある本校舎とは渡り廊下で結ばれた別棟にあった。この建物は三階建で、幅の広い階段の踊り場ごとに、なぜかいちいち手を洗うための水道があった。
三階から屋上に向かう階段の踊り場にも、やっぱり水道はあって、コンクリート製の流しというのか手洗い場というのか、そこに四つばかり蛇口が並んで取り付けられていた。屋上への出口はいつも施錠されているので、だれもそんな所の水道を使うことはない。かつんかつんに乾いて砂埃の積もった手洗い場には、メッキされた真鍮の蛇口が鈍く光って仲良く並んでいた。
私は廊下を掃きながら、思いついたことがあったので、手のほうきを置いて、こっそり三階から屋上へと続く階段を上がった。
踊り場の蛇口をひねってみた。当たり前のように水は出ない。
ふうん。今夜11時まで断水とか言ってたな。
私は蛇口を4つとも全開にしてみた。で、ちょっと考えた。このままほっといても、蛇口の下には排水口があるし、どうせ明日誰かがびっくりして水を止めるだけだろう、と。
私はどこか愉快な心持ちがして、そのまま何食わぬ顔で帰宅した。
翌朝。登校して驚いた。北校舎がまるまる水びたしになっていたのだ。
教室はドアの敷居に高さがあるのでほぼセーフだったが、廊下にいたっては一階から三階まで、まるで床上浸水のようになっていた。校舎の玄関ホールなど、深さは1センチもなかっただろうが、見た目は大海原状態である。
同じように登校してきた子どもたちは、校舎の前で大騒ぎしていた。私もいっしょになって騒いだことを覚えている。
えらいことになったとは思ったが、誰に迷惑がかかったわけでもないので、びびったり先生に自首したりはしなかった。先生も私たちにぼやく程度で、やっきになって犯人探しをしたりはしなかったように思う。私は結局、両親はもちろん、親しい友だちにも話したりはしなかったので、きれいに完全犯罪の出来上がりとなった。
それでその日は一日中、何かをやり遂げたような、なんとなくどきどきわくわくした気分で過ごしたのだった。
先生ごめんなさい。あれはぼくの仕業でした。
先生が亡くなる前に打ち明けたかったな。あの先生ならきっといっしょに笑ってくれただろうに。
2004年12月17日(金)
高島俊男『中国の大盗賊・完全版』(講談社現代新書/800円)
碩学が自分の専門分野について、くだけた調子で(しかも深く深く)語る本というのは、どうしてこんなに面白いんだろう。
この本は漢や明とともに、現中国の共産党政府も盗賊王朝の系譜に連なるものと論じて間然とするところがない。中国四千年の歴史の偉大さである。社会主義革命っていったって、太古から続く「強いやつの天下取り」と何も変わることがないというのがよくわかる。
そういえば、ペレストロイカからソヴィエトの崩壊にいたる時分に、ジョン・リードの『世界をゆるがした十日間』(ちくま文庫)を読んのだが、そのときにもよく似た印象を受けたことを思い出した。この本はもちろん、レーニンの革命を描いてピュリッツアー賞まで取った有名な本だけれど、80年代末に私がテレビで見ていたニュースの内容と、本に書いてある20世紀初頭のロシアのあれこれとがほとんど同じで、びっくりしたというか、笑ってしまったのだ。どちらも、「食えない民衆の不満がたまったところへ、“食える理屈”をひっさげた連中が出てきて政治体制を変える」という流れがまったく同じなのだ。イデオロギーもへちまもなく、(もちろん自分も含めて)民衆っていっつも同じなんだよなと思った。
頭書の本は、そんな「不変の人民」のうえで、古来どんな連中が、むちゃをしながら天下を取り合ったかということがいっぱい書いてある。盗賊も官軍も迷惑さではいい勝負だとか、正史だってあてにはならないとか、細かなエピソードも踏まえて(それがいちいち深くて面白い)、抜群に読み応えのある本になっている。文体も雑文風で、ぼやきや突っ込みも随所に挟まってて、それもおかしい。元版は89年だっていうのに、知らなかった不明を恥じ入るばかりである。
今年読んだ新書ではベスト1確定。
蛇足だけど、高島俊男って、「お言葉ですが」(週刊文春の名物コラム)だけの人だと思ってたら大間違いだ。『漢字と日本人』(岩波新書)でも思ったけれど、この人ほんとに中国、ていうか古代以来の中国人が好きなのな。絶対次は明末とかに大陸で生まれ変わりたいと思っているに違いない。中国への惚れ具合では、吉川幸次郎や貝塚茂樹に匹敵するだろう。支那支那ってすぐ言うし、毛沢東は持ち上げても共産党はボロカスに言うし、ほんで中国中国てどないやねん、という感じもあるのだが、それはきっとこちらの無教養のせいにすぎない。ガッツリ通った背骨の太さは、“鬱勃たる学殖”という言葉の意味を教えてくれる。
2004年12月18日(土)
人間の認識や構えというものが、いったん出来上がってしまうと、どれほど元に戻すのが困難であるか。
イデオロギーでも何でもいいが、人間はいったん刷り込まれてしまうと、決してそこから自由になれない。
なにをバカな、学習にせよ経験にせよ、理性と意志の力さえ十分にあれば、かつての無垢な自分を取り戻すことは可能である、というのなら、
この絵をごらんいただきたい。
ただの砂嵐か汚れた壁の絵にしか見えないと思う。
しかし、あることに気づいてしまえば、あなたは絶対に過去の自分に立ち戻れない。絶対に。
2004年12月20日(月)
あれはたぶんコイケヤの「スコーン」だった。フライド・コーン系にしては、意外とつるつるした手触りであったと記憶している。
もう四年、いや五年ほどになるだろうか、なおちゃんがまだ小学校に上がる前のことである。ともちゃんはまだ赤ん坊だったのでお母さんに任せて、私はなおちゃんと、しばしば二人で電車に乗って、梅田まで映画を見に出かけた。
その日は、なにを見に行こうとしていたのかは忘れたが、日曜日の朝早くから駅のホームで、二人手をつないで電車を待っていた。
なおちゃんが少しお腹がすいたというので、背負わせてある小さなリュックから、これも小さな「スコーン」の袋を出して開けてやった。
ぽりぽりぽり。ちょっとくれ。うん。がさごそ。ぽりぽり。おちゃ。ちょっと待て。がさがさ。ぽりぽり。ほれ。ありがとう。ごくごく。ぽりぽり。
というようなことをしているうちに、なおちゃんがぽろりと手のスコーンをホームに落とした。私は反射的に拾い上げると、ふっと強く息を吹きかけて、なおちゃんの口に入れた。「落とすなよ、もう」と言いながら。
あ、今のまずかったかな、その瞬間に気づいたがすでに手遅れであった。すーっと身体を起こすと、横のおばさんがすごい目つきで私をにらんでいた。
ええ、そりゃもう大きな声で説明してやりましたとも。「3秒ルール」を。なおちゃんに。
あの朝つないだなおちゃんの手の小ささはもう忘れたのに、あのおばさんの目つきは今だに覚えている。
ええやんけべつにそれくらい、なあ、なおちゃん。
2004年12月21日(火)
▼こないだの日記で紹介した絵ですが、別になぞなぞでもミステリでもないので、答えを書くことにします。
なぜかというと、これは正解が見えないと面白くもなんともないですから。ロールシャッハ・テストじゃあるまいし、どう見えるかを語り合うものではありません。
どうですか。見えましたか。
あっと思ったが最後、あなたは過去には戻れない。
だから、ちょうちょとかガメラ対ギャオスとかバットマンとかは関係ないんだってば。
▼エイベックスもソニーもCCCDから手を引くらしいが、朝令暮改というかなんというか。
当たり前の話だが、これはネット雀が喧しく非難していた、「再生不可能性」や「音質低下」や「不要ソフトの強制インストール」や「著作権法以上の制限」に対して、改心したとか態度を改めたとかいう話ではぜんぜんない。単なるセールスの話である。
シリコン・オーディオがこれだけ売れ、パソコンでCDを聞くのが当たり前になってきた今日、CCCDの売れ行きが落ちるのは必然である。私でさえ、これはコンポやMD聞くだけにしようとか絶対思わないもんな。いくらほしくてもCCCDと書いてあるだけで棚に戻すもんな。
それに、アップルによる楽曲のオンライン販売という津波警報も出ているし。
そんなこんなで、(すでに影響は出ているのだろう)CCCDの売れ行き低下を無視できなくなった両社が、コピーコントロールをやめた、と。まっことわかりやすい話である。技術のいたちごっこにかける開発経費も無視できないだろうし。
それで、この話の教訓だが、「不法コピーはやめましょう」ではなく、「これからはピーコ天国だ」でもなく、「制度を変えるのは現実だ」である。
昔からマルクス主義者は「下部構造が上部構造を決める」と言ってきたし、今の保守勢力は「憲法9条を実態に合わせろ」と言っているし、厨房は「条例でセックス禁止ってなんだよ」って言うだろうし、まあなんちゅうかみんな同じことだ。
だから20歳こえたら選挙行け(飛躍してないぞ)。
2004年12月23日(木)
「知ったかぶりの極意・補遺」
『ダ・ヴィンチ・コード』という本がとても売れたそうなので(読んでない)、タイトルにからめて小ネタをひとつ。
今回の極意は、「知ったかぶりをしたい事実(雑知識)をいきなり最初に言わない」である。
「え、じゃあ何を言うんだよ」とお思いかもしれない。
言い換えてみよう。
「そんなことは相手も知っている、という態度を最初にとる」ということである。
本編でもそれは用いているのだが、重要なわりに言及を忘れていたのでここで補うことにした。
本編での「なんかプーシキンの短編みたいだよね」という、最初の発言がそれに当たる。この、「プーシキンは、とうぜん知ってるよね」という態度によって、相手に「こいつはプーキンぐらい読んでて当たり前という世界にいるのか」という印象を与えることができる、ということである。
で、本のタイトルに戻る。あなたは書店の店頭で、平台に積まれたこの本を指差して、最初にこう言うべきである。
「レオナルド・ダ・ヴィンチを、みんな、なんでダ・ヴィンチっていうんだろうね」
まるで、いかにも「そうそう、そうだよね」という返答を期待しているような口ぶりで言うのである。
もちろん内心では、「え、なんで?」という返答を待ちかまえているのである。ただし、ほんとうに「そうだよね」と言われたら、決して狼狽を見せずに「ねえ」とにっこり微笑んで、さりげなく話題を変えるべきである。
相手の返事は「知るかよ」でも悪くはない。「うるさい」の場合はちょっと悲しい。
ともかく、相手からなにかリアクションがあってから、満を持していたあなたは、意外そうに(ここ重要)言う。
「だって、“ヴィンチ村のレオナルド”って呼び名なのに、ダ・ヴィンチなんて略したら“誰のこと?”ってなるじゃん」と。
これで、うまくすれば素人衆にへぇボタンの二つ三つは押してもらえるであろう(この比喩の賞味期限は今年いっぱいてことでひとつ)。
ここから続けて用いる技法が、「追加」である。
それでもまだ、飲み込みの悪い相手が怪訝な顔をするようなら、ダメ押しをかますのである。
「清水の次郎長を、清水さんとは言わないだろう」
このへんで、たいていの相手は合点するはずである。
「へー、なるほど」と。
「どうでもいいじゃねえかよ」や「るせーよ」の可能性も徐々に高くなるが、それはそれでよしとする。そこで話が終わる(終えてもらえる)からである。
そして、「追加」による「とどめ」の技法となるのだが、ここでは同系統の情報で、かつより意外なものを持ってくる必要がある。
決して、「あでも、広島カープは、ふつうに“広島”って言うよな」などとみもふたもないことは言ってはならない。それは、知ったかぶりを行う場合ではなく、会話を続けたい場合に限る。
ここでは、
「国定忠治だってさ、国定さんって呼んじゃったら変だろ。あれも村の名前なんだし。ナザレのイエスをナザレさんって言うのと同じだよな。ノストラダムスなんてもっと無茶だぜ。ミシェル・ド・ノートルダムのドまで略しちゃって。それじゃ、ダ・ヴィンチどころか、ただのヴィンチじゃん」
と、付け加えていくのである。
そこまで来ると、相手もたいていめんどくさくなって聞き流すはずである。まさにそこが「とどめ」のとどめたるゆえん、それ以上何ひとつ知らないのに、突っ込まれてはたまったものではない。
せいぜい、「やかましい。知ったかぶりばっかりしやがって」となるであろう。
あれ? あれあれ?
あ、あ、あと、あとそれと、「でも宮本武蔵や天草四郎とか、地名を苗字あつかいするのは普通なんじゃないの。苗字じゃなくても、木曾殿なら義仲しかいないとかさ」とか、「そんなのシネクドクかメトニミーの一種とでも考えればいいだろ。個人が特定できるなら問題ないよ」と言い返すような相手からは、ダッシュで逃げること。
2004年12月24日(金)
てなわけで、メリー・クリスマス。
サンタさんへ。この電話ください。「AIR260分」て!(リンク先不明。架空の携帯電話で、超多機能なあまり、口にくわえると水の中で息ができたりするってやつだったと思う。2023年8月21日註)
2004年12月26日(日)
▼琵琶湖畔の古城址へ、一泊二日で出かけてまいりました。京滋バイパスと名神をかっ飛ばして1時間半と、あまりに近くてびっくりしました(あまり車で遠出はしないので)。
城下町をひとめぐりして、宿に着くなりビール飲んで、風呂入って、テーブルいっぱいの料理食って、風呂入って、遊んで、飲んで、寝て起きたら、風邪をひいていました。がんばって運転して帰ってきましたが、今すっごくしんどいです。うー。
なおちゃんと、ともちゃんに感想を聞いてみました。今回の旅行でなにが一番楽しかったですか?
「たっきゅう」
だそうです。風呂上りの浴衣姿で、小一時間遊んだ卓球(まがい)がもっとも楽しかったそうです。旅行に連れて行きがいのない兄弟です。
▼この兄弟には、サンタさんがニンテンドーDSを届けてくれたのですが、なんと、お兄ちゃんには「さわるメイド・イン・ワリオ」、ともちゃんには「直感ヒトフデ」というおまけがついておりました。
「ワリオ」のくだらな面白いのは今までどおり秀逸なのですが、「ヒトフデ」の意外に面白いのには感心しました。早い話が、「さわってかためて消すテトリス」なのですが、「タッチパネル」の楽しさをとてもよく活かしたつくりになっています。反射神経より頭脳と読みというかんじで、印象としては「テトリス」より「グンペイ」に近いものがあります。任天堂は、ちゃんと横井軍平の血をひくクリエイターを育てていたようです。
でもこのDS、とてもでかいです。PSPほどこじゃれてないです。PSPの品薄と初期不良騒動で、スタートダッシュはDSの圧勝だったようですが、携帯ゲーム機の勢力地図の行方は、まだまだ予断を許さないようです。
でもPSPもなあ、あんなもので、みんなが音楽や動画を持ち歩くようになるという(電話以外の携帯デバイスは一手に引き受けるという)読みは、ソニーの気合が気合だけに、バックネット裏まで風切り音が聞こえてくるほどの空振りのように思います。
あ、それでDSにお願い、ていうか期待、ていうか命令。
スタイラス付きでタッチパネルに絵も字も書ける、しかも高解像度で2画面なんだから、PalmデバイスばりのPIMソフト出してください。GBAカートリッジ側にOSとソフトを乗せて、DSカートリッジ側でデータ管理を行う、と。で、すでにある無線LANでPCと同期したり、ホットスポットWebを見たり。
完璧じゃないですか。そうなったら、私は今のクリエから速攻で乗り換えますよ。
▼本日の「M-1グランプリ」。
準決勝の「タカアンドトシ」と「笑い飯」の同点で、裁定にあたふたしてたのがおかしかったですが、まあ全体に順当だったんじゃないでしょうか。期待していた笑い飯は、以前の聞き取りにくいほどのホットな展開による破壊力が失われていて、大変悲しい気持ちがいたしました。
決勝は、ある意味古典的でしたが、技術と完成度の点でやっぱりアンタッチャブルが頭ひとつ抜け出ていました。受賞は妥当だと思います。でも、私が笑ったのは、「南海キャンディーズ」→「麒麟」→「アンタッチャブル」の順。しずちゃん、面白すぎ。あれで、シュールにならないのは相方のツッコミが正統派のせいなのでしょう。麒麟はネタのつくりが相変わらず漫才というジャンルを広げるようなもので立派だと思いました。
で、いまさら気づいた一点。「タカアンドトシ」の、「ツッコミに突っ込み返すボケ」ってなんかありそうでなかったような気がする。おかしかった。
それはさておき、紳助はともかく、松本まで出てなかったのはなぜ。
2004年12月29日(水)
今年の流行語大賞に絡んでは、「サプライズ」、「残念!」、「チョー気持ちいい」などという言葉がよく取り上げられたが、私としてはやっぱり「勝ち組・負け組」が一番であろうかと思う。使われ出すやいなや人口に膾炙して、すでに流行語という印象すらなくなったけれど。
もともと「勝ち組・負け組」という言葉は、第2次世界大戦直後、ブラジルの日系移民社会で、「日本は勝った」と言い張るグループ(これが「勝ち組」)と負けたことを認めるグループ(「負け組」)が対立してトラブルになったという話が起源だと思うのだが、いつのまにか階層分化や条件獲得の場面で使うのが普通になったようだ。
こういった、社会を無理やり対立する二項に還元して楽しむという手法は、渡辺和博の『金魂巻』(マル金・マルビのアレ)以来一般に広まったように思うが、極論暴論が面白い一方、どうしても差別的な雰囲気をまといがちになるので、いわゆる朝日系文化人的もの言いで批判する人も多い。
それでも、「勝ち組・負け組」に限っては、私はわりと好きである。
もちろん、「年収3千万で山手線内側の高層マンションに住むオレは勝ち組」とか、「家のローンを抱えてリストラされてる奴は負け組」とか、「人生やっぱ勝ち組をめざさないと」とか、「そんなこっちゃ将来負け組決定」とか、本気で言う奴は徹底的に馬鹿にするべきであると思っているのだが。
今や、この言葉は普及するにつれてその胡散くささを見抜かれて、それこそ流行した「負け犬」同様、勝ち負けの概念を解体するような使われ方をされることが多くなってきている。新聞雑誌など肩肘張った紙媒体(つまりオヤジ層)ではまだまだだが、センスのいいコラム子やネット上ではくだらなさを楽しみながら使われている。
たとえば、2chあたりでとくによく見られるやりとりでは、「3箱でシークレットをあてた俺は勝ち組」に対して「その年で食玩買ってる時点で負け組」とまぜっかえすとか、「北島の金メダルを生で見た俺は勝ち組」とか、「でも次の日寝坊して上司に怒られた俺は負け組」とか、「いまどき、残念! で受けを狙う奴は負け組」とか、「いまだにゲッツ!ってやってる人間を知ってる俺は勝ち組」とか、見る側の「なんの勝負だよ」というツッコミとセットで使われるようになっていて、それを面白いなあと思うのである。「勝ち組・負け組」という言葉が、ほんとに何らかの階層を指すと(指すべきであると)思っている連中を木っ端微塵にしてやれと思うのである。
でも、この年の瀬に風邪を引いちゃって、まだ年賀状に手もつけていない私はやっぱり負け組。ほっとけ。
そんなこんなで、もう今年は更新もできそうにありませんので、みなさまよいお正月を。
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