知ったかぶりの極意

2000年3月29日公開。


 おそらくお気づきの方も多いとは思うが、私は知ったかぶりの達人である。鉄人と呼んでもらってもよい。名人と呼んでもらってもよい。怪人とは呼ばないでほしい。
 そこで、今回は他人をびびらせる知ったかぶりの極意を伝授する。こんなものを公表すると今後のテキスト活動に差し支えるような気もするが、最近ネタを思いつかないのである。こちとらこれで結構苦しいのである。
 知ったかぶりの極意は、「氷山の一角」という言葉を理解するところにある。ある人間が、いくら該博な知識を持っていようと、適当に書き散らす雑文や日常会話ですべてを表現することなどありえない。的確な引用も、寸鉄人を殺すがごとき箴言も、その者の持つ膨大な教養の一部、それもごく一部なのである。我々はその「氷山の一角」に対して、水面下の巨大な知識の塊を想像して畏怖もし尊敬もするのである。
 ならば、これが肝心なのだが、相手に見せつけるのは、「一角」のみでよいともいえる。水面下に何もなくて、安物の浮き輪しかなくても、無理やり糸でぶら下げていようとも、「一角」だけそれらしく見せつけることができれば、すでにこちらの勝ちである。
 これが知ったかぶりの極意である。単純なことではないか。

 日常会話を例に取る。たとえばとある新人作家の作品について感想を求められたとしよう。
 あなたに本当に教養があるなら、構造分析でも先行作家との比較でもなんでも、滔々と述べればよい。
 しかし、私ならこう答える。
「なんかプーシキンの短編みたいだよね」
 もちろんプーシキンなど読んだことはない。しかし心配ない、たいていの人間は名前しか知らない。
 ここで重要なのは適切な固有名詞の選択である。誰しも名前は知ってるが、内容や傾向となるとイメージすらわかないというものを選ばねばならない。だからこの場合、ドストエフスキーやディケンズなどを持ち出すのは大変危険である。意外と読まれていたりして、思わぬ反応を引き起こすことになる。
「そうかなあ。たとえば?」
 こうなると即座に撤退するに限る。
「いや、そんなことよりさあ、腹減ってない?」とでも。
 自分では行けると思っていても、相手にはまったく通用しないような固有名詞も危険である。ポトツキやストリンドベリなどがそれにあたる。
「え、だれそれ? 何書いた人?」
 などと聞き返された日には最悪である。撤退も間に合わない。
「いや、そんなことよりさあ……」
 と言ってみても、知らないことが丸バレである。
 氷山の一角をちらりと見せるにもコツがいるのである。

 そんな張りぼての「氷山の一角」にリアリティを与えるには三つのポイントがある。「謙虚」と「受け売り」と「反問」である。
 知ったかぶりに謙虚さが必要とは、と疑問を持つ向きもあるかもしれない。しかしこれは意外と必須なのである。
 たとえば、先のプーシキンに続けて、
「ロシア文学は、昔好きで、結構いろいろ読みこんだからね」
 などというのは知ったかぶりでも下の下である。
「なにが読みこんだだよ。ふかしこきやがって」
 と反発を招くのが落ちである。だいたい自分がロシア文学にふさわしい顔をしているかどうかよく思い出すべきであろう。
 こんな場合は、正しくはこう言う。
「つっても、ロシア文学なんてそんなに読んでるわけじゃないけど」
 そうすると、相手は勝手に「うわ。ただものじゃないぞこいつ」と思ってくれるのである。こっちは「そんなに読んでない」どころか、なにひとつ読んでないのに。『罪と罰』さえ途中で放り出したままなのに。
 なぜかはわからないのだが、人間はそう思ってしまうものらしい。これは私の長い知ったかぶり経験からも明らかである。

 次に「受け売り」であるが、これは知ったかぶりの王道であると思っている人も多い。たしかにそれはまちがいではないのだが、これにもコツがいる。
 決して受け売りのモトネタをばらしてはいけないということと、自分の言葉にかみ砕くということである。すなわち、「あ、受け売りだ」と気づかれてはならないということである。
 たとえば松尾芭蕉のことに話が及んだとしよう。互いに高校の教科書のかすかな記憶をかき集めて俳句のいくつかを披露しあったあとで、ぽつりとこう言うのである。
「でも芭蕉ってさ、結局批評家だよね。七部集とか読むとさ、発句そのものよりイメージのさばき方の見事さは、弟子連中とは比較にならないよね」
 当然、七部集なんか読んでるわけがない。そもそも何と何で七部になるのかも知らない。入ってるものとしては「猿蓑」と「猿蓑」と「猿蓑」くらいしか、ていうか「猿蓑」しか知らない。しかも名前だけ。
 もちろんこの台詞は石川淳先生の受け売りである。しかし、原型をとどめない(もはや原型を忘れている)引用が、むしろリアリティを増していることにご注意いただきたい。

 そして、「反問」である。あるいは、「封じ込め」といってもよい。窮地に陥る寸前に、「当然、君も知ってるよね、どうよ?」と、逆に相手の攻撃を封じ込めるのである。
 最初の例で、相手が「プーシキンって?」と反撃に出たとする。いや、向こうは反撃のつもりではないだろうが、こっちにとっては絶体絶命の一撃である。
 ここでは無理やり説明しようとするべきではない。
「いや、あの、ロシアの作家で、ゴーゴリじゃなくて、トルストイでもなくて、小説とか……」
 と、しどろもどろになって馬脚を現すことになる。もとより知らないところへ説明しようなどとすれば墓穴は深くなる一方である。
 ここは、こう切り返す。
「え? プーシキンだよ。知らない? ちょっと雰囲気が似てるじゃない」
 自信に満ちた表情で、相手にそれ以上の質問を許さないような態度に出るのである。たとえこちらの背中が冷や汗でびっしょりであっても、決して気づかれてはならない。
 言葉ではなく、自信に満ちた態度こそが、背後の博覧強記を相手に印象づけるということも重要なポイントであろう。

 最後に、数ある防御のテクニックから、代表的なものをひとつ述べておこう。
 それは、「引き寄せ」である。自分の知っているフィールドへ強引にテーマを引っ張りこむのである。
「プーシキン知らない? 困ったなあ。じゃあさ、赤川次郎は?」
 などと言って、さりげなく知ってる方へ持ち込むのである。うまくいくと相手は疑念を持つ前に、「ああ、私が知らないばっかりに、わかりやすい説明を工夫してくれてる」と思うはずである。たぶん。ありがたいというか、他愛ないというか。
 ただし、ずらせる方向にも多少の注意はいる。いくらなんでも、
「プーシキン知らない? じゃあさ、焼きそばの作り方知ってる?」
 では、知識以前に正気を疑われるであろう。

 ことほどさように、知ったかぶりは簡単である。多少のコツを呑みこんで経験を積めば、誰でも「博識」の栄誉を手にすることができる。

 どうです? 私を読書家あるいは博学と思っていたみなさん(本当にいるのか?)、幻滅しましたか。でも、世の中ってそういうもんですよ。
 とかいいながらも、私の場合は随筆の手本を、天明期の京伝や蜀山人に置いてるんですが。

 なんだよ、その目は。

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