【書籍感想】撮り鉄のための、逆説の写真術【うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真】
タネ本
『うまくてダメな写真とヘタだけどいい写真』(幡野広志)
著者は写真家。1児の父ながら血液系のガンを患ってもいますが、写真のハードルを下げるための活動にも精力的に取り組まれているそうです。バッサリと痛快なコメントに定評があり、『他人の悩みはひとごと、自分の悩みはおおごと』『だいたい人間関係で悩まされる』などのエッセイも上梓した文筆家でもあります。
撮り鉄の皆さんへ
あらすじ
本書は「写真を撮る」というタイトルでありながら、実は人生の道徳を解いています。〈写真〉というレンズを通した生き方の書です。だから写真に興味がない私のような読者でも(だからこそ)堪能できる内容でした。グサッと刺さるような指摘もあり大人なのに忘れていたことや気づきを与えてくれました。2つの事例を挙げてみましょう。
1.考えが浅い撮り鉄?
一つは誰かの写真をなぞることで正解したと誤解してしまうという指摘。写真を趣味で撮影する人は写真が似る傾向があるそうで、そういう人は考えが浅い。————「失敗をしたくない、正解したいから誰かの写真をマネする。みんなと似た写真を撮るのが正しいと勘違いしてしまっている人すらいる」
これを読んで撮り鉄が異常に構図に拘泥している姿を思い出しました。正解をなぞるだけの写真。こうしたものは考え浅い人のすること。著者は主張します、「写真は考える仕事だ」、と。
しかし人の振り見て我が振り直すと、自分にも当てはまるんですよね。それっぽい文章術を読んで小手先のテクニックばかりマネている自分。そこに自分の考えが載っているのでしょうか。撮影は感動、こころの動きから始まっているべきと著者は言います。私は本の感想を書いているうちに最初に湧き上がった感動を、工場で仕立て上げられた規格品にしてしまっていたことに気づきました。
2.ノウハウオタク、頭でっかち
「むずかしいことを勉強したい人はぜひ撮影現場に入ってください。むずかしいことは、本でも写真学校でも学べません」
本の冒頭、はじめにで書かれていることです。この時点で私に大ダメージ入りましたよ。本が好きだからこそ、そうなりがちですよね。私もデザインを始めたくでそれ系の参考書を手に取りました。それだけだと不安だからもう一冊購入する。今度はレイアウトに特化した参考書を買ってみる。足りない気がしてフォトショップのYouTubeを見始める…。不安の鎮静剤にしかなっていないんですよね。それを著者はスパッと一刀両断。
知は、現場にある————光文社新書のキャッチコピーですが、まさにその通りです。仕事でもやってみなくちゃ学べないことの方が多いのに、専門外のことになるとどうしてこう盲目になってしまうんでしょうね…。
ちなみに写真の技法としてYouTuberやノウハウ本で言われている三分割構図や日の丸構図は、実際の現場ではまったく使われていないそうです。というか著者がアケスケすぎてプロの写真家のノウハウ本もバッサリ切り捨てているんですから「これ書いちゃっていいのか」というツッコミながらも、気持ちよさを何処か感じてしまいます。
逆説の写真術
さてここからは写真シロウトの私が読んで意外におもった逆説の写真術の一部を紹介していきたいと思います。そしてこれが実は写真のことだけでなく人生や仕事においても大切な本質だったりするんですよね。
写真の勉強は写真以外から学べ(p26)
なぜ写真を撮るのか。それは伝えたいものがあるから。伝えたいと思った時の感動はどこから生まれるのか。自分の心からだ。だからよい写真を撮るためには自分の好きなものを知る必要がある。何に感動するのか自覚する必要がある。写真を学んで「うまい」写真はとれるようになるけど、「良い」写真は撮れるようにならない。
写真よりキャプションが大事
「さしみ食わせろ」。著者は小学生が書いたと思われる習字を見せてきた。上手いとは言えない。下手くそだ。だけどその後にこんなキャプションがあるのだ————書いたのは野口晴輝くん。享年10歳。刺身が大好きだったのに治療中は火の通ってない生ものを食べられない。我慢に我慢を重ねて言葉に表したのが、「さしみ食わせろ」。
そして著者は問う。キャプションのあるなしで上手さは変わらない。だけど心をうつ「よい」作品になったはずだ。
実際、本書では何十枚かの写真があるがほとんどにキャプションをつけている。写真で食べている幡野さんでもキャプションをつけている。いわんやシロウトをや。彼は写真だけでは自分の伝えたいことの一部も伝わらないことを知っているのだ。だのに、写真単体で伝わるというのは傲慢なのかもしれない。これはすべてのクリエイティブやコミュニケーションにも当てはまる。恋人なら「言葉にしないでも分かってくれるはず」「この作品は言葉にせずとも思いが伝わるはずだ」。そんなことはないんですね。本当に大切なことは言葉にしないと伝わらないものなのです。
ちなみにここでポエミーな文章や、おしゃれな英語・フランス語にしちゃダメと釘をさしてます。たしかにそんなものじゃ伝わりようがないですね笑
うまい写真を目指すな
写真をうまくなろうとしなくても良い。ヘタなままでいい。ヘタだけどいい写真を目指したほうが圧倒的にいいと著者は言います。カラオケでも上記の習字でも、うまくて心に響かないものがある一方、ヘタだけど何度も聴いたり、心をうつ作品がたくさんあります。それを目指しましょう。「うまい」だけの写真なら後からでも習得できます。ノウハウつまり再現性のある写真はきっと、誰が撮っても同じということなんですね。
そこで大切なのは感動すること————写真を撮るときは感動してください(p44)。美味しいだって感動だし、驚くことも感動。涙を流す必要はなくて、その時の感動から始めること。そのためには感動のハードルを下げておくことが大切だそうです。外国人が日本の電柱の写真を撮ります。普段目にしている写真も実は感動にあふれているんですね。それを「つまらない」と思っている人は、自分がつまらないということだそうです。
AI写真も試せ
写真の経験が高い人ほどAI写真をやるのがいいと思いますよ。新しい技術を否定だけするのはやめたほうがいいですよ(p71)
使わずに批判しないこと。そうしたときは大概的外れだし、AI写真という「体験」の損失になる。著者は他にもJPEG vs. RAW論争など、写真界隈のきのこたけのこ戦争を挙げていますが、どの論争に対してもどちらも試すことが大切だとしています。これも日常生活の教訓ですね。頭が凝り固まると、新しいものを頭ごなしに否定してしまう。自動食洗器もなんとなくで否定して(使ってないのだから聞きかじりの情報しかないくせに)、いざ使ってみるとすご便利だったり。
ノウハウに頼るな
これは既にところどころで触れたことなので深入りはしませんが、ノウハウ本でよく言われる三分割構図は現場では使っているひとが全くいないそうです。いわゆる被写体の位置を正面からずらす手法のことだそうですが、著者いわく「大切なものを肉眼でみるときにわざわざ視野の端っこで見ますか?」
それにそうした情報は大抵3次情報だそうです。大事なのは一次情報。これは研究でも仕事でも心がけるべきことですね。自称プロの写真家とかの意見は信頼に値しないことが多いのは、写真も人生でも同じですね。
写真のための社会じゃない
これも最初に述べたことなのでさらっと。
著者があるイベントで目撃した事件。たくさんの人がいる公園のなかで、バズーカ砲みたいなレンズを構えた中年男性が自分のカメラの画角に子供連れが入った瞬間に「どけよバカヤロー」と怒鳴ったそう。
これを読んで江ノ電ニキを思い出しました。陽気な外国人が江ノ電と自転車で併走していることに撮り鉄が怒り心頭して罵倒する様子がYouTubeで話題になりました。まず人間より始めよ、ですね。
質より数!
写真のシロウトでも100枚撮れば、3枚はいい写真ができるそうで、これを著者は3%の偶然と呼んでいます。何が言いたいかというと、うまい写真を取ろうとしている人の試行回数があまりにも少なすぎること。著者でさえ打率10%だそうです。ましてや趣味の人間は打率が低いのにバットを振る回数まで減らしたらヒットがでるはずもないとのこと。これも人生で当てはまることです。最近の若い人は失敗を恐れて挑戦が少ない。何をやるにも最初からうまくいくことを求めてしまう。そんなので何かが上達するわけないですよ。これもきっとSNSの弊害ではないでしょうか。一発でうまく行った動画や、成功者があまりにも身近になりすぎた。そんな状態なら失敗が怖くなるのは当然です。でも大事なのは打席に立つこと!
バズる写真を狙うな
バズる、バエる、エモい写真。こうしたものは他人に評価を委ねる好意です。他人軸で撮った写真に感動はあるでしょうか。こうした写真を摂りがちな人は、自分の好きが恥ずかしくて主張できなかったり、過保護な毒親のせいで自分の好きを選べず親の選択に身を委ねてきてしまった人だと著者は考察しています。その是非は置いておいて、たしかにウケを狙いにいくとき、それは自分の感動=伝えたいことをないがしろにしてしまいますよね。結果としてバズったりするのは別ですが。これも写真だけに言えることというよりは、趣味全般に言えることです。
カメラは性能よりもデザイン
著者の一貫した主張は、自分が「見た」ものを撮影すること。そしてそうした場合、デザインが好きじゃないカメラは持ち歩かないものです。それに著者いわく、カメラ屋さんの「高解像度」「大型センサー」とか行ったPOPは信じないほうがいいとのこと。その上そうした機能はプロの目から見ればどんぐりの背くらべらしく、だからこそ趣味の撮影ならお気に入りという直感を大切にしたいものです。
写真とは暴力である
これは著者が直接言っているわけではないですが、そう感じました。とにかく著者は被写体の気持ちを考えることを何度も説いています。
被写体を待たせてはいけない、無理やり写真を撮ってはいけない、撮られることはストレスであるetc…
確かに、撮影の時に何秒も口角を上げるのはきついし、撮られていると思うと緊張する。自分の写真を(しかも顔がドアップだったりしたら)見るだけで自己嫌悪に陥りますよね。そういえば日本にカメラが伝来したとき人々は「魂を抜かれる」という迷信を信じて恐怖したそうです。写真を撮るということはストレスを強要していることを忘れてはいけないということですね。
だから著者は家族写真を撮るときもウマい・ヘタとか、どんな構図が良いのかとか、誰が写っているのか、とかを気にしていません。それは撮影者の押し付けに過ぎないからですね。そうした著者の優しい人柄を表している文章をいくつか抜粋します。
終わりに
写真撮影を学ぼうと思ったら、実は人生を学んでいました。でもそれでとても満足でした。最後は著者の引用をたくさんしてしまいましたが、そんな優しい人柄の著者がだけどダメなことやマナーの悪い写真家のことをバッサリ斬っていくのはギャップがあって爽快感がありましたし、そんな寛容さのある彼から厳しいことを言われると、身につまされる部分がありました。ある意味、写真撮影の基本のキより前の人間としての在りようを振り返る事ができました。