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シン・エヴァ論:Q 『”硬いアニメ・序破Q”からの脱却』

”硬いアニメ・序破Q”からの脱却

新劇場版の企画およびシリーズ構成段階から、凡その流れはおぼろげながら決まっていたと思う。所謂、物語の鉄則・三幕構成に則っているからだ。

【起・一幕目】主人公が日常とは違う非日常に誘われ(序)
【承・二幕目前半】そこから破竹の勢いで成功するが(破)
ミッドポイント・ニアサー〜
【転・二幕目後半】自分の行いが過ちであることを責められ絶望するも(Q)
【結・三幕目】自分の殻を破り覚醒し、かつての日常とは違う日常へと帰還する(シン)

※三幕構成に関しては色んな書籍があるので興味のある方は漁ってみてください。またこの辺りに関しては「カメラを止めるな!」の上田慎一郎監督がYoutubeで丁寧に分かりやすく語っているので、そちらもオススメです。

通常、1つの映画でその物語を描くところを、4つの映画に分けて構成しているからこそ、映画単体だけで観ると、歪な映画に見えてしまっている。
タイトルに「序破Q」とあしらうように、実は至ってシンプルに起承転結に即した内容になっている。その為、二幕目後半に位置付けられるヱヴァQは、"主人公が追い込まれ落ちてゆくだけのストーリーライン"である為、主人公の気持ちが盛り上がる展開がないからかなりツラい。
ヱヴァQ公開時、陰鬱な内容に動揺したファンが多かったが、僕は「次のシンは間違いなく、とんでもないド・エンタメ作品になる!」と興奮した事を覚えている。実際は僕なんかの想定の斜め上の高みを目指して、遥か向こうに羽ばたいて行きましたが。。。

新劇場版をTV版・旧劇場版から再構成した内訳は最終的に大体これぐらいであろう。

ヱヴァ序:第壱話「使徒、襲来」〜第六話「決戦、第三新東京市」
ヱヴァ破:第八話「アスカ来日」〜第拾九話「男の戰い」
     ※途中オミットしている話数有り
ヱヴァQ:第弐拾話「心のかたち 人のかたち」と第弐拾四話「最後のシ者」
シン・エヴァ:TV版弐拾伍話〜弐拾六話+旧劇場版第25話〜第26話

完全新作要素が強いヱヴァQや「シン・エヴァ」も、ベースとなるお話の骨格や要所のシチュエーションは、TV版や旧劇版を踏襲している節を感じる。
第弐拾話はシンジくんがエヴァ初号機に取り込まれる話で、ある意味それを「空白の14年」に繋げている。あと例えばカット単位で言っても、「シン・エヴァ」のアスカがシンジにレーションを無理矢理食わせるカットは、第25話「Air」の弐号機が量産機にヘッドロックで揉みくちゃになるカット(有名な磯光雄さんカット)の変化形とも言える。
アヤナミレイ(仮称)が自分の死期を悟り涙するカットは第弐拾参話「涙」から、ミサトが腹を狙撃されてしまうカットは第25話「Air」から、と過去話数からの引用が多数見受けられる。ファンが既視感を覚えるカットやシチュエーションを要所要所に楔を打つように配置する構成は本当にグッとくる。何なら冒頭につくダイジェスト「これまでのヱヴァンゲリヲン新劇場版」も、「シト新生」におけるDEATH編的じゃなかろうかと勘ぐってしまう。また、ジェットアローンすら拾ってくれる事も嬉しい。
ラストカットは、川島雄三監督「幕末太陽傳」の幻のラストシーンがアイディアの源泉である事を指摘している人も多い。

「涼宮ハルヒの憂鬱」の2006年以降、"どんなにキャラクターが動いても崩れない"というシグネチャーが形成され、1人の総作監制を敷いて絵柄を統一することが業界標準化した。(近年は更に変化して総作監も複数人が立つのが当たり前になりました。)
比較的に作監の個性を大事にするエヴァンゲリオンもそのトレンドの影響はあって、新劇場版の序は総作監制を敷いている。BANK素材のブラッシュアップと絵柄の統一という名目が大きいとは思うが、序破Qを再見すると非常にゼロ年代的というか、作画が整い過ぎてアニメーションが"硬い"印象を受ける。個人的にはヱヴァQのシネマスコープサイズの画角も余りレイアウト的に上手く扱えてない印象だ。

そうした流れから「シン・エヴァ」のベースを旧劇場版にすると決めた時、どうやってあの傑作カルト映画「Air/まごころを、君に」を越えるのか、当然考えたと思う。
どうやってアニメーションの枠をハミ出る表現を生み出すのか。独自のアートフォームを繰り出すのか。これまでの新劇場版のスタイルではいけない。NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」でも垣間見える庵野さんの葛藤は、ここが発端じゃないだろうか。絵コンテという枠組みから出来るだけ離れてプリヴィズを作る事はそういった取り組みの1つだ。
とは言え、割とその制作スタイルはヱヴァ破の段階から散見される。コンテマンを計12名が担当して(通常の劇場版アニメだと絵コンテは多くて3〜4名)、完成した画コンテ本を観てもほぼ鶴巻さんの絵柄になっている事からも、コアスタッフ以外のコンテはほぼコンペ的にアイディアを拾うのみか、もしくはほぼそれらのコンテを使っていないと思われる。打算的な制作スタッフなら無駄か贅沢とも言いかねない。だが色んな人に想像してもらった画コンテを描いてもらい検証する、様々な角度や色々な可能性を探った上で映像に落とし込みたいという庵野さんの姿勢が、後に更に発展して画コンテよりも先にピリヴィズ制作に入るプリプロダクションに繋がるワケだ。
また、実在するミニチュアを3Dモデルとして取り込み特撮セット的に配置したこと、長谷川和彦監督「太陽を盗んだ男」の劇伴や「今日の日はさようなら」などの既成曲の使用も、ヱヴァ破から始まった。「シン・エヴァ」はこのヱヴァ破の制作スタイルの発展系、もしくはもはや過剰なインフレかもしれない(笑)

井上俊之さんがTBSラジオ「アフター6ジャンクション」で語ったように、これまでエヴァの作画を支えてきた本田雄さんが宮崎駿監督最新作「君たちはどう生きるか」の作画監督として参加している。
当の本田さんは両作品とも参加したかったようだが、この離脱は「シン・エヴァ」制作チームにとってかなりの戦力ダウンだったことは否めないと思う。
本田さんの仕事と言えば、抜群のキャラ作画だけでなく、エヴァ量産機のデザインを筆頭にメカ作画にも多大な貢献をしている、あとこれは僕の記憶違いかもしれないが、初期話数ではウエストが極端に細く怒り肩だったエヴァンゲリオンのプロポーションを夏エヴァの弐号機のように寸胴型のプロポーションにして、エヴァンゲリオンに”生々しい”存在感を与えたのは本田さんの功績だったはずだ。
まして、旧劇時の磯光雄さんや黄瀬和哉さんに代表されるあの当時の脂の乗ったアニメーターの仕事振り、CGをほぼ使わず何でも作画していたあの頃と今とはでは、仮に当時と同じスタッフを集めてもあの妙な色気がある画作り・雰囲気を再現できない、もしくは越えられないと思う。(過去の憧憬ではなく現実問題として。アナログ撮影による色味の良さも相当大きい)
ここまでまどろっこしく書きましたけど、単純に旧劇場版時点で作画アニメとしてやり尽くしたという感覚、要は”同じ作り方に飽きた”って事だ。
あと制作期間の長期化で、庵野さん達を含めこれまでのメインスタッフの高齢化した影響も大きい。ヱヴァQ後に早くして亡くなってしまった増尾昭一さん。摩砂雪さんはシン・ウルトラマンに合流しているのかな?
そのコアスタッフの体力やモチベーションも考慮して、エヴァを観て業界入りした中堅・若手スタッフに切り替え、それがファンライクな映像に仕上がった要因とも考えられるだろう。この下の世代の台頭が、劇中で2度繰り返す伊吹マヤの「これだから、若い男は」と言う台詞になり(社長としての言葉とも取れるが)庵野さんの希望を乗せている。

現状の戦力、人選、スタッフの得意・不得意も含めて作戦を考えるのが監督の仕事でもある(ミサトさん的采配)
夏エヴァとは別の戦い方、それが【CGのウエイトの増大】である。

ヴィレの槍が意味するモノ

今月のCGWORLDにも記載してあるように、CGベースのカットが全体の7割を占めるそうだ。要するにプリヴィズや3Dでアタリのレイアウトを起こすとか、最終的に2Dに置き換わっているカットも含めて7割だ。逆に3割も3Dを使っていないカットあったのか、とも個人的には思う。没テイクも含めるとその数は尋常じゃないだろう。
3DCG前提に制作するからこそ、それぞれのエヴァンゲリオンのメカデザインも作画では動かしにくいゴテゴテしたデザインにモデリングしただろうし、大量のエヴァMark.07(もはや流体エフェクト)に至っては作画ではほぼ不可能に等しい。それでもメカ作画している金世俊さんもスゴいけど。
ゴルゴダオブジェクトに突入してからの特撮セットシークエンスは、それまでのCGとは違いモーキャプやローポリなモデルを使用。巨大化した綾波レイもCGが陥る”不気味の谷”を効果的に利用している(あの巨大綾波ってあんまり誰も言ってないけど、あれは林原めぐみさんの顔を取り込んでいるよね?)
CGってフォトリアル(写実的)にするか、2Dっぽいセルルックにするか、大体2択なんだが、そのどちらに偏りすぎない塩梅をチョイスしている。庵野さんも嘘パースや決め決めアングルやポージングをなるべく避けて、実寸スケールでの画面構成やレンズ指定、ヴァーチャルカメラを使用してドキュメンタリー映画のように撮影し、カット割りを構成したようだ。
(比較するものでもないが、弟分のトリガーが制作した「プロメア」のケレン味溢れるグラフィカルなCGの使い方とは真逆のやり方である、と考えるとイメージしやすいか。どっちが良い・悪いではなく、作品性と合ったCGの使い方が重要。)僕自身も直近の仕事でCGに2D的ケレンを求めがちだったから、「色んな使い方があるよ」という庵野さん達の試みを見て、個人的には反省しました。

背景に関しても新海誠作品っぽいと言われるが、第3村パートは、アウトラインを入れディテールを少し省略した背景はごちゃごちゃしているようで写実的になりすぎず見やすい。個人的に今回の背景はアニメ的で好きだ。中盤のAAAヴンダーの甲板シーンは独特の赤みのグラデBGだけなのも思い切きりが良く、エヴァ的で素晴らしい。シネスコのレイアウトもヱヴァQに比べると格段に良いしね。

また、特撮のホリゾントの取り込みや光学合成、透過光の1つとってもAEで作ったものではなく実際に懐中電灯の光を合成したものだったり、カメラワークのハンディブレも庵野監督がiPhoneで撮影したものをベースに付けたりetc、枚挙にいとまがない。

実在感と暖かみがある”アナログ合成・撮影の豊かさ”をふんだんにまぶしてある。アニメーションってこんなに自由で良いんだ、という可能性を示してくれる。映像そのものがまるでヴィレの槍の如く、人の意志の結晶のように映り、観客の心を打つ。これから映像制作を目指す若い人にも必ず刺さると思う。

良い意味で”とっ散らかった”映像の集積は、80年代の映画の楽曲使用も含め、晩年の大林宣彦監督作品のようなコラージュ感・カオスさを意識したと僕は考える。

※正直、予告だけ観ても映画本編を観て頂かないと、僕が何を言いたいのか伝わらないと思います。

縦横無尽な時間軸と空間の移動。
膨大かつポエティックな台詞回し。
実写もアニメもCGも使った圧倒的イメージショットの連なり。
理屈じゃ分からないのに醸し出す妙な清涼感と感動。

その共通点は多く、大林作品をリファレンスにした可能性は高い。「一体、何を見させられているんだろう」って感触が本当によく似ている。90年代の旗手であったエヴァンゲリオンを、庵野さんが青春期を過ごした80年代的に描き直したのが終盤のマイナス宇宙(Dパート)だと思う。

株式会社八万・能の立ち上げ

これに関しては拾える情報が殆ど転がっていない為、完全な憶測で話すので注意してもらいたい。
エンドロールにあるように、「宣伝」のクレジットには八万・能(ヤマンノ)とある。どうやらマエストロ・ストラテジスト兼コンテンポラリーアーティストのナカヤマン。氏と庵野さん2人だけの会社のようだ。と言われても何のこっちゃだが、ナカヤマン。氏はSNS戦略に特化したマーケティングのスペシャリストのようである。

何故、2人だけと思うのかと言えば、社名が、

ナカヤマン。+アンノヤマンノ

として恐らく2人の名前を合体させて命名したものだからだ。そして恐らく、八百万(ヤオヨロズ)と、観阿弥・世阿弥のの演目「百万」にも掛けている。実に庵野秀明的なネーミング。

ネットで検索すると、設立は去年12月。登記上の住所もカラーと同じだ。
どうやら以前から安野モヨコさんとナカヤマン。氏に繋がりがあり、こういう形に発展したようだ。

実態はどうなのか分からないが、東宝と東映という日本の2大映画会社が配給に付く事もスゴいとは言え、ここまでのシン・エヴァ公開後の畳み掛けるような宣伝戦略は正直ファンが一番ビックリしていると思う。
そこに八万・能の力というか、庵野さんの完璧なアンダーコントロールがあるのではないだろうか。個人的にはこれまでの庵野作品との決定的な違いはこの宣伝戦略だと思っている。

本編冒頭のAmazonプライム公開。
度重なる舞台挨拶とその同時配信。
チラシやポスターデザインの段階的な変更。
既に映画を観たファンがまた観たくなる追告や「現在のエヴァンゲリオン」
TwitterやEVA-EXTRAアプリで見せるメイキング。
NHK「プロフェッショナル」の特集、ラジオの特別番組やYouTube生配信。
もうほぼパンフレットに等しい、通称・薄い本の配布。

ざっと列挙してもキリがない。
上映期間中の3.0+1.01というマイナーアップデート版の差し替えに至っては、もはや禁じ手の域だ!

これまでの映画の宣伝って商品とタイアップするとか、街頭にデカい広告を出すとか、TVで露出を増やすとか、アニメならグッズを売るとかそういう類いですよ、せいぜい。
お金だけ掛けて、宣伝しっぱなしというか、大衆にも作品に対する熱意が無いのがバレてしまっている場合もある。僕が門外漢なのもあるが、それぐらい宣伝って、特に今の時代だからこそ難しいと思う。逆に宣伝しすぎて炎上することだってあるじゃないか。

これまでエヴァは宣伝らしい宣伝がなかった。ネタバレに通じるからなのか、キャストもスタッフも余り表立って現れてこなかったし、その少々不気味で謎めいた感じもそれはそれで良かった。

それをコロナ禍の上映という不利な状況で、これまでのファン、かつて観ていた人、ネット配信で知った若い世代に、どうやって「シン・エヴァ」を届けるか、繰り返し観てもらえるか、全力で打ち出している。宣伝にかける徹底した攻勢の掛け方が今回のヴィレの戦い方にも似ているからこそ、僕は庵野さんの気配を感じるのだ。
その戦略に「引いた」という声もあるが、個人的にはもはや堂々として清々しい。そもそも大半のファンにもそう感じたし、制作者の愛情や願いが通じたからこそ、ロボットアニメとしては悲願の興行収入100億越えという結果に繋がったのだろう。

未だかつてこの様なV字回復的な興行収入の増加ってないでしょう。「もののけ姫」「千と千尋の神隠し」みたいな国際的映画祭の受賞以外で、こういう現象を生み出すって前例がない。「鬼滅の刃」とはまた違った宣伝。これからの映画の宣伝施策に間違いなく影響を与える、エポックメイキングな宣伝だった。

つづく



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