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【自己紹介エッセイ1】 「書く」の遍歴

 小さいころから書くことは好きだった。
 好きというか、執着や信仰に似ているかもしれない。
 クラスの誰よりも早く原稿用紙を埋めて、次の一枚を教室の一番前の教壇まで意気揚々と取りに行くのが何よりの楽しみで、自慢でもあった。引っ込み思案で従順で、おとなしい性格であったから友達もできず、私にとっては「書くこと」がひとつの大きな意思疎通の手段であり、私がちゃんとものを考えられる子どもなのだと証明する方法だった。

 逆にというか、小学生の時は「読むこと」が苦手だった。本物のーー先天的な文学少女というのはだいたい小学生の頃から図書館や本屋に通っては、青い鳥文庫とか、その他エンタメジュニア小説、せめて少女漫画くらいは嗜むものだけれど、私は他人の作ったストーリーを理解するという面倒くささに耐えられずに、外で男子に混じってサッカーをしたりするほうが好きだったように思う。
 本が苦手だと自覚しているからこそ、本が持つ知的な匂いへのあこがれだけが募っていった。

 転機となったのは、中学時代の親友が大の読書好きだったことに端を発する。彼女に引きずられるように図書室に通い、かたっぱしから借りて読んだ。記憶にあるのはミヒャエル・エンデの『鏡の中の鏡』や『自由の牢獄』。『はてしない物語』ではなくて。
 高校の図書室にあったエドガー・エンデの画集を見たときの衝撃は忘れられない。エドガー・エンデはミヒャエル・エンデの父で画家である。シュールレアリスムの流れに組み入れられることが多い。荒涼とした大地の上に、船が座礁していたり、破壊された彫刻が横たわっていたり、着込んだ男が風に争って歩こうとしていたりする。お世辞にも明るいとはいえない殺伐としたシュールな世界観で、私がエンデの小説を好きなのは父であるエドガーの影響を色濃く受けたからなのだと気づいた。
 画家であればムンクやベーコンが好きだし、小説家であればカフカや桐野夏生、アリス・マンローが好きだ。
 大学に入り、エドガー・エンデとそっくりの荒涼とした砂漠の絵を描き始めたころに、「私はこういう暗い芸術が好きなんだ」と自分でも認めることができるようになったと思う。


 書く動機としてよく言われるもののなかに、「読んでしまったから」というのがある。
 私が文才もないのにうっかり書きたいと思ってしまった理由も、肥大する自己承認欲求を除けば、桐野夏生の『グロテスク』やアリス・マンローの『小説のように』を読んでしまったからだ。
 素晴らしい小説に出会うたびに、私もいつかは書くのだ、小説を書いて暮らしていくのだと漠然と考えながら生きていたのだけれど、いくつになろうとも私が小説を書き始めることはなかった。
 思うに、「読んでしまったから」はきっかけにはなるけれども、本当に「書く」ためには、当たり前だが「どうしても書かなければならないもの」がなければならず、私にはまだそれが判然としていなかったのだと思う。
 恋に恋しているだけの乙女のように私は年を重ね、大学院を卒業し、小さな出版社に入って編集として働き始める。

 そろそろ書かないと人生終わっちゃうな、と気づいてようやく書き始めたのは、一人目の子どもを産んだ後だった。
 もちろん、自分に文才がないことはうすうす気づいていたのだけれどーー体の中に「書きたいこと」がちょうど淵を作りはじめていたことは確かだった。渦中にあるときには感情に溺れて、ありきたりな言葉しか吐き出せなかったものが、少し時間を置いてみるとかえってその有り様を捉えることができるような、そんな気がした。

 自分が満たされるために、私は子どもが寝静まったあとに目をしばたかせながらパソコンを開き、文字を打ち込み始めた。
(つづく)

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