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毎日お疲れ様、って褒めてくれる褒めボタンが欲しい

この世の中、何かや誰かを、けなす記事ばかりだ。
普通に生きていたら、ダメージをくらう。
褒めてくれる人はいないのに、disってくる人はいる。

鎧を纏う必要があるのだ。しかし、無防備に生きている人が多い。人生が上手く行っている時は、それでいい。でも、一回嫌なことが起こると、不思議なもので何故か立て続けに嫌なことは連鎖する。

そんな時に食らう暴言に、耐えられるかはわからない。やはり、鎧は必要だ。

今日はみんなで褒め合おうと思って、この記事を書いている。もちろん、自分も褒めたい。

みんなを褒めることは、しいては、じぶんを褒めていることなのかもしれない。

そういえば、小さい頃から褒められたことがあっただろうか?私の家系は、けなすというかダメ出しする文化があった。

例えば、祖母にプレゼントをあげても、ありがとうとは言われず、こんな無駄遣いして、と言われる。こんなものいらないよ、と言われた人もいた。だから大人になって、物をあげた時に喜ばれた時、驚いた。けなされるものなんだ、と思えば、けなされても案外と平気だ。

親戚の家に行くと、会話が矢のように飛んでくるから、全く私が、喋る隙がない。最初は頑張って自分の会話をしていたけど、別に自分の話をしなくてもいいや、と思ってきたら、心が凪のように落ち着いた。みんな自分の話が好きだ。

私が幼い頃、何かで悩んでいた時、ある親族に相談したら、「私の方が辛い体験したから、マシだよ」、と言われた。カウンセラーに電話してみたこともあるけど、「あなたより、もっと大変な人がいる」と。

それは事実なのかも知れない。でも、他人に心を打ち明けるのは、それだけで勇気が必要だったのだ。悩みは大人に言ってね、なんて子供に、大人は言うけれど、本当にそうなのか。

子供の悩みを受け止められる大人がどれくらいいるのか、甚だ疑問だ。

無用心に誰にでも相談してしまう方が危険だと、大人になってわかる。

思い返してみれば、学校でも、親族の前でも、喋らない、謎な人間みたいだったかもしれない。正直、誰かと会話をしたら、なんらかの変化が起こるとは思えなかった。クラスメイトも先生にも、信用が出来なかった。世の中を疑っていた。その反面、家に帰ったら、母には何時間も喋っていたけれど。

人からは、褒められなかったけれど、小さい頃は自分で自分を褒めていたから、何とかなった。

今では、自分も自分を褒めていない。そうなると、誰も自分を褒めない。

今悩んでいる人は、一回悩みや感情をすべて書き出してしまうといい。ただ、その文章は誰かに見せてはいけない。

「こんな世の中でいいのか、辛い」なんて書いていたら、「意外となんとかなるんじゃね?」という、不思議な希望が湧いてきた。

大きいことをする前に、まずは足元からだ。

毎日、よく起きた。
そして、よく食べた。
働いてる人は偉いし、勉強や部活をしている学生さんも偉い。

「働いていない奴が」なんてセリフがあるけど、学生さんのことを考えていない。そう言っている人だって、自分が何らかの理由で、選んだ仕事をしているだけのはずだ。

別に勉強をしてなくても、学校に行っているだけで偉い。

学校に行けていない人も、毎日、生きているだけで偉い。

そういう努力は、努力と呼ばないのか、誰も褒めない。だから、ある日突然、今まで出来ていた、働くとか学校に行くとかが、出来なくなると「こんなことも出来なくなってしまった」と自分を責めてしまう人がいる。

むしろ、今まで出来ていたことが凄いのではないか。毎日起きて、学校なり職場なりおんなじ場所に行く…ちょっと凄くないか?

こうやって、自分で褒めるしかないのだろうか。

恋人や友人同士でも、誉めることは少ない。むしろそう言う人はバカップルだな、なんて他人に、言われたりするけど、褒めるのは普通ではないか。小さい頃にけなされたり、怒られてばかりだった人もいるだろう。

風呂に入ったり、皿を洗ったり、掃除したり、
駅まで歩いたり、ご飯作らなくても惣菜を買ったり、ウーバーイーツの注文ボタンを押したり、アマゾンのサイトに接続したり…

それだって、充分偉いじゃないか。

褒めてくれるボタンが欲しい。siriに「私を褒めて」って言ってみたけど、「すみません、よくわかりません」と言われてしまった。

自分の良さは、なかなか気が付きにくい。

ご飯を作らなくても、私たちは、なんらかの方法で食べなければ、生きていけない。

みんな、そうだ。

極端な話、寝て、食べていれば生きていける。
多少のお金は必要では、あるけれども。

ネガティブな話ばかり摂取していたら、気力が落ちていくだけだ。
早く、メンタル回復のために、栄養補給をしなくちゃならない。空腹には気付けても、メンタルの飢えには鈍感だ。

アニメやマンガに出てくる強い勇者に、元気が出ても、私はこうなれない、と思ってしまう。
すごい人を見て、すごいなぁとは思っても、彼らと全く接点がない。

人生はただただ受動的だ。

勇者は、銃で撃たれても平気だけど、我々はそうではない。
あんまりに、楽しい話が浮世離れしてみえる。

王様のブランチは楽しい。美味しそうな表参道の食べ物を、綺麗な人たちが食べている。

昔はそれを、いつか食べようね、って考えながら、それを糧に見ていた。
でも、今は、一生食べられないような気がしている。

別に、表参道に行くのは一時間や二時間電車に揺られれば、辿り着ける。高いスイーツだって1000円か2000円くらいだから、払える金額だ。

でもコロナを経験したからか、もう手が届かない幸せに見えてしまった。以前も書いたけれど、お金にシビアになった。

https://note.com/fu_kumal/n/n6193d0bd483c


1000円あれば、三食くらい食べられるのに、とか考えてしまう。


ならば、これからは小さな幸せを見つけて行こう。

今までの幸せは、旅行とかディズニーランドに行くとか、めちゃくちゃ贅沢な割に、あっという間に過ぎてしまう幸せだった。

もちろんそれもいい。でも、それよりも、何回も、いや毎日ちょっと美味しい料理を作ったり、動画を見たり。

最近、ガーデニングが流行っているらしい。
その気持ちはわかる。

無料か、それに近い額の楽しみがそこらじゅうに転がっている。

みんながそれに気がつけば、みんなが楽しめる世の中になる。

とっておきの日に着るドレスやスーツより、テンションがあがるバッグを毎日使えば良い。


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